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『白暗淵』/「黒暗淵」

 しろくくろいふち
 くろくしろいふち
 くろいからしろい
 しろいからくろい

 今回はそんな話をします。長い記事なので、お急ぎの方は、以下の目次の「まとめ」からお読みください。


『言葉と物』とは、まさしくそうした意味における「言葉と物」の、つまりは肖像画なのだ。そしてその不可視の中心に反映するのが、「知の考古学」と呼ばれる空白なのである。この輝ける空白。
(蓮實重彥「中心の欠落、そして空白の特権的二重化」「Ⅰ――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.25)

文字による作品を眺める


 私は小説や詩を眺めることがよくあります。とくによく眺めるのは、詩では上田敏の『海潮音』、小説では古井由吉の『仮往生伝試文』です。

 詩は翻訳すると別の詩になると言われることがありますが、ルビの多い上田敏の訳詩を眺めていると、これはもう日本語独特の表記で書かれた(描かれたと言いたくなります)視覚芸術だと感心しないではいられません。

 ある訳詩の出だしだけを引用します。

  真昼まひる ルコント・ドゥ・リイル
「夏」のみかどの「真昼時まひるどき」は、大野おほのが原に広ごりて、
白銀色しろがね布引ぬのびきに、青天あをぞらくだし天降あもりしぬ。
じやくたるよもの光景けしきかな。耀く虚空こくう、風絶えて、
ほのほのころも、まとひたるつち熟睡うまい静心しづごころ

上田敏訳『海潮音』より

 和語の音と漢語の形とが視覚化されているその景色ながめ見事すばらしいのです。和語系の言の葉を頭のなかで音読して耳を傾け、漢語系の語を目で見て愛でる。

 引用文では、「ほのほのころも、まとひたるつち熟睡うまい静心しづごころ。」という部分が好きです。漢字・漢語と、ルビのひらがな・和語のコントラストを眺めていると、形が響き、がうごめくような錯覚におちいります。

     *

 かなは意味を音で奏でる。意味を音で仮名でる。
 漢字は意味を目で感じる。意味を目で漢字る。

 ルビではその二つを同時に楽しむことができます。これは視覚芸術だからこそ可能なのであって、口にしたとたんに次々と消えていく声による芸術では叶わない夢でしかありません。

 もちろん、音声には音声でしか表せないし現れないものがありますから、どっちが上だという話ではありませんが。たとえば、いまここに流れとして起きている、出来事としての臨場感リアリティと身体に働きかけてくる力が、音声芸術にはあります。

     *

 古井由吉の『仮往生伝試文』についてはこれまで何度か note で記事にしてきました。先日投稿した「文字を見る/文字を読む、文字を書く/文字について書く」がそうです。

 その記事では、この作品の一節に現れる「客」という一文字を「見る」、次にその文字を「読む」というふうに、文字を「見る」ことと文字を「読む」ことについて具体的に説明するように努めました。興味のある方は、ぜひご覧ください。

『白暗淵』/「黒暗淵」


 上の見出しは、この記事のタイトルと同じ文字列ですが、見ていて/眺めていて、どんなことをお感じになりますか?

  まず音読できるでしょうか? 漢字三文字から成る文字列が二つあります。/(スラッシュ)で区切られた両者の違いは一文字だけです。

・白と黒

 まだ違いがあります。

・『』と「」

 こうした約物は音読されません。音にならないだけでなく、無視されることもあります。そこに「ある」のに音になら「ない」。「ある」のに「ない」とされる。「見える」のに「見えない」かのように扱われる。

・存在と無/「存在と無」/『存在と無』

 いまのは半分冗談です。半分は本気で書きました。文字を眺めるというのは、いま挙げた文字列の違いに「気づく」、「見る」、「こだわる」ことだと言えます。

 約物も文字だと私は思います。そこにあるのだから、ちゃんと見てやりましょうよ。「見てやる」なんて不遜な響きがあるので、しっかり見ましょうよ。

     *

 今回の記事は古井由吉作『白暗淵』の「読書感想文」です。ここでお断りしなければならないことがあります。じつは、私は小説を読むのが苦手なのです。つい眺めてしまうと言うべきかもしれません。

 私の「読書感想文」は、だいたいにおいて、ある小説のある一節や全体を眺めた感想だと言えます。ストーリー(筋書き)や「作者の意図」や内容にはそれほど関心がないのです。

 何が書かれているかよりも、どのように書かれているかに強く惹かれます。前置きはこれくらいにして、本題に入ります。

     *

『白暗淵』とは古井由吉の連作小説集のタイトルであり、そこに収録されている表題作のタイトルでもあります。ですから、(言うまでもないことでしょうが)『』を施してあるのです。

 講談社文芸文庫版の『白暗淵』では、p.97に当たるノンブルなしのページの中央の上のほうに、

白暗淵 しろわだ

というふうに白地に黒で印刷された活字があり、その裏のp.98から小説が始まります。

 私がよく眺めるのはp.109の最後の行からです。引用します。

 はじめに神は天地をつくった、と女教師が創世記の冒頭のことを話した。「元始」という厳しげな文字を黒板に書いて、「はじめ」と仮名を振った。端正な楷書だったが、坪谷の記憶の中で年を経るにつれて、その白墨の文字にあどけない、無防備のようなものが見えてくる。
(古井由吉『白暗淵』(『白暗淵』所収)講談社文芸文庫)・pp.109-110)

 私の目が注がれるのは、「「元始」という厳しげな文字を黒板に書いて、「はじめ」と仮名を振った。」、「白墨の文字」です。つまり、「元始」に「はじめ」とルビを振った感じでしょうか。黒板に白墨で。

「はじめに神は天地をつくった、」の部分は女教師が「話した」とありますから、話の内容ということでしょうか。だから「はじめ」と表記されているのかもしれません。

 次に「「元始」という厳しげな文字を黒板に書いて、「はじめ」と仮名を振った。」と来るので、黒板に「元始はじめに神は天地をつくった」と女教師が黒地に白の文字でしるしたと取れます。

 以上、あっさりとしれっと書きましたが、なるべく正確に書くなら、以下のようになるでしょう。

 本の形で小説に書かれている「「元始はじめに神は天地をつくった」」と印刷された紙面に白地に黒の文字(活字)を私が見て読んだものを、小説の登場人物である女教師は、「「元始はじめに神は天地をつくった」」と黒板に黒地に白の文字(手書き)として、言い換えるなら、白墨による白い「端正な楷書」の文字としてしるした――。(ややこしいですが)そういうことだと考えられます。

 ここで、前回の記事「文字が文字であることを忘れない」から引用させてください。

 半分冗談だと思ってご覧ください。

     *

黒地に白の文字。

「黒地に白の文字」と書かれた文字が、白地に黒の文字で読まれてしまうし読めてしまう。

白地に黒の文字。

「白地に黒の文字」と書かれた文字が、黒地に白の文字で読まれてしまうし読めてしまう。 

 なんとなく/ちゃんと/なぜか、とにもかくにも読んでしまうのです。

 深くお考えにならないでください。これも、教育の成果なのです。黒板をつかった授業を思いだすと分かりやすいかもしれません。

(拙文からの引用はここまでです。)

     *

 半分冗談はさておき(半分は本気です)、話を戻します。

 次に、上の『白暗淵』からの引用文に続く段落を、一段落を省略して引用します。

(……)
 地はかたちなくむなしくして、と女教師は続く箇所くだりを暗誦した。「定形かたち」と黒板に書いて、「むなしく」とそれに並べた。つぎに「黒暗淵」とまず板書してから。「やみわだ」と読んだ。神の霊が水の面を覆っていたという。生徒の何人かはその創世とやらのことを聞くか読むかして知っている顔だった。初耳の坪谷は理解しようにも取っかかりがないので、とにかくその光景を思い浮かべようとしたが、どうにも浮かべられない。かたちもないのだから、見えるわけもない、と早々にあきらめた。むなしく張りつめるのは、自分の頭の内ばかりだ、とそんなことを思った。(……)
(古井由吉『白暗淵』(『白暗淵』所収)講談社文芸文庫)・p.110・丸括弧とリーダーを用いての省略は引用者による・以下同じ)

 ここもなんだか、ややこしいですが、引用文に書かれた文字という取っかかりはあるので、とにかくその光景を思い浮かべてみます。ここでは文字だけが頼りであり取っかかりなのですから。

 思い浮かべた結果から言いますと、女教師は黒板に「定形かたち」と書き、次に「むなしく」とそれに並べて書き、その次に「黒暗淵」と(たぶん行を変えて)並べて書き(どれも黒地に白の文字による楷書の手書きで)、その漢字三文字の文字列を「やみわだ」と口にして読んだのだろうと私は想像します。「神の霊が水の面を覆っていたという。」は、教師が口頭で付け加えて説明したと取れます。

 定形かたち
 むなしく
 黒暗淵(やみわだ)

【※丸括弧内の文字は声・音(口頭)】

 黒暗淵 やみわだ

 この文語による聖書の言葉は、文語訳の聖書があれば、その正確な文言が分かるはずですが、私は持っていません。うちの二階の書棚に置いてあった聖書の「旧約聖書 1955年改訳」(日本聖書協会)ではp.1にこう書かれてあります。

 そう  せい  
 第一章
 はじめにかみてんとを創造そうぞうされた。かたちなく、むなしく、やみがふちのおもてにあり、かみれいみずのおもてをおおっていた。

     *

 まとめましょう。

「地はかたちなくむなしくして」:口頭(音声
定形かたち」:板書による黒地に白の文字(手書き)
むなしく」:板書による黒地に白の文字(手書き)
「黒暗淵」:板書による黒地に白の文字(手書き)
「やみわだ」:口頭(声・音

 ということのようですから、『白暗淵』というタイトルの本を、私は紙面に印刷された白地に黒の文字(活字)として見て読んでいるわけです。

 文字を眺める、つまり文字のありよう(何がどう文字で書かれているか)に目を向けると、以上のように文字にすることができます。

 文字を眺めるさいには、縦書きと横書きの違いというきわめて目立つ文字のありようがありますが、ここではそこまでは触れません。いつか扱ってみたいという強い気持ちはありますけど。

     *

 普段ならここで記事を終えるのですが、今回はもう少し書いてみます。

白黒/黒白、有無/無有、生む/産む


 ここからは、「小説を見る・眺める」から「小説を読む」へと話が移りますが、上のほうで述べたように私は読むことが苦手なのです。

 大の苦手と言うべきでしょう。嫌で嫌で仕方がないほど。大嫌いだとは言いませんが(書きましたけど←こういうご飯論法はいけませんね、反省します)、できれば避けたいというのが本音です。

 そもそも私は話の筋(ストーリー)を追うのが苦手です。作者の意図(そんなものがあればの話ですけど)にも興味はありません。

 私は嫌なことはしない性格なので、あえてここで嫌なことをしようとは思いません。かといって、ここでこの記事を終わるのもためらわれます。そこで、自分なりに文字を眺めて読んだことを自分なりのやり方で文字にしてみます。

 具体的には、言葉と文字を転がしてみるのです。私は言葉と文字を転がすことが好きです。言葉を文字を転がすというのは、連想にうながされながら(ときにはうなされながら)書いていくことです。

 では、転がしてみます。

     *

「白地に黒の文字」も文字、「黒地に白の文字」も文字。反転したところで文字は文字。転んでも文字は文字。ひっくり返っても文字は文字。

 文字のありようとは関係なく、文字は文字として見られ眺められ読まれる。

 それだけではない。文字はそのありようとは関係なく、写され映される。そうやって、ある地点から別の地点へと、ある時点から別の時点へと、こちら側から向こう側へと、表から裏へと移される。

 その意味で、文字は人のつくった完璧な複製。完璧な「うつる・うつす・うつされる」。

 完璧な複製だから、人がしるし/うつしても文字は文字、人もどきがしるし/うつしても文字は文字、人もどきのしるし/うつした文字を人がしるし/うつしても文字は文字。

 文字の起源をさかのぼっても文字、文字のオリジナルをたどっても文字。起源のない引用、引用の引用。オリジナルのない複製、複製の複製。

     *

 白から黒が生まれる。白が黒を生む・産む。黒から白が生まれる。白が黒を生む・産む。

 生むは産む、生む/産むは有無。有無/無有。生死/死生。有為変転。無為無策。有無相通ずる。

 うむはうむ。うむがうむをうむ。うむからうむがうまれる。言葉と文字の世界である言界だからこそ有り得ること。

 むなしい/空しい/虚しい言葉の世界では、何でも起こる、何でもある。空だからこそ、虚だからこそ、何でも有り得る。

 うつつのうつしは、うつろにうつろう、うつけのうつわ。

     *

 白が黒く、黒が白く等しく書ける。これが文字の世界。

 白暗淵 しろわだ
 黒暗淵 くろわだ

 小説のタイトルである白暗淵という文字は小説の本文にはない。空白。「輝ける空白」。空白としてのタイトル。

 白暗淵は白い紙、タブラ・ラサ(Tabula rasa)、白紙、空白。空白はなにもないというしるしであって、なにもないではない。

 空白とは捏造された無。無という名のうつろなうつわ。その空白は無ではなく、有をはらむ。孕む・妊む・胎む・腹む・懐妊・懐胎・妊娠・妊身・身ごもる。

     *

 白の地に黒の字
 黒の地に白の地

 しろのじにくろのじ
 くろのじにしろのじ

 しろくくろいふち
 くろくしろいふち
 くろいからしろい
 しろいからくろい

     *

 大変、失礼しました。

同語・同義・同音・同字・同イメージの反復


 半分冗談はさておき(半分は本気です)、この小説で気になった部分を引用します。

(……)それを北本は眺めて、黄泉よみのことだが夜の、黄泉だからむろん闇夜の底を、暗い川が流れるともなく流れていて、境も分かたぬ闇を刻々と吐き出しているそうだ、古代の詩の伝えるところだ、と話した。(……)
(pp.114-115)

  この箇所での、黄泉、夜、闇という展開ながれは、言葉・文字を転がしているかのようで、私は好きです。流れを眺める。

 よみ、よる、やみ
 yomi、yoru、yami
 黄泉、夜、闇
 読み、読む 

 このように音で転がして、それを文字にすると、その展開がたどれます。

「読み・読む ⇒ 病み・病む ⇒ 止み・止む」なんてふうに私は詠みたくなります。

 読む、詠む、詠ずる、唱える、うたう・唱う・歌う・謡う・唄う・謳う。切りがありません。この文字の流れをいつまでも長く眺めていたい。

 闇が闇の中へ闇を吐き出してどうなると言ったな、言われて俺も何も思い浮かべられなくて驚いたよ、まったく見えないので目がくらくらするという逆もあるんだと、とつぎに会った時に北本は持ち出した。どこからどこまでも一体に闇だったと言って済ませておけばよさそうなものを、昔の人間も余計な言葉を労したものだ、しかし闇が闇の中へ闇を産むというのが混沌というものだ、混沌は世の初めだ、思えないものを人は思おうとする、と言う。太初という白墨の文字が寄せて来て坪谷はそれに反応したらしい。(……)そうだよ、同義反復のようなものだ。人の言葉は詰まるところまで行けば同義反復にしかなりようがない、と北本は苦笑して、(……)しばらく考えこむようにしてから、男と女が交わるのも、性欲に駆られて、よせばいいのに、初めをたずねるのにひとしいことをしているのではないか、と言って黙りこんだ。
(pp.115-116)

 以上、(……)で省略するという横着で変な引用をして、ごめんなさい。言訳になりますが、長い段落をそのまま長く引用するか、それとも省略するかで迷った結果なのです。あまり長く引用するのも関係者の方々に申し訳ないので……。

 いずれにせよ、さきほどの私の言葉転がしと文字転がしは、上の引用文を読んで起きた連想の結果なのです。

 私の常套手段である言葉転がしと文字転がしでは、同語・同義・同音・同字・同イメージを反復するという方法を取りますが、まさにそんなことがこの小説では文字にされているような気がしてなりません。

 読むことが苦手だと私の言った意味が、よくお分かりいただけたのではないでしょうか? 曲解と誤読が私の特技なのです。読み間違えるとか読み損なうことに関しては自信があります。

まとめ


 まとめます。以下の文字列を文字どおりご覧になってください。文字を眺めるのです。

     * 

 文字による作品を眺める
暗淵』/「暗淵」 
 白黒/黒白、有無/無有、生む/産む
 同語・同義・同音・同字・同イメージの反復

 文字の反転、白黒/黒白
 言葉の反復/反転、読む/詠む
 有無の反復、生む/産む

 黒をはらむ白
 白をはらむ黒

 黒が白をうむ
 白が黒をうむ

     *

黒地に白の文字。
くろじにしろのじ。

白地に黒の文字。
しろじにくろのじ。

     *

 完璧な複製である文字はそのありようとは無関係に読まれ/詠まれて増殖する。黒のじが白のじを生み/産み、白のじが黒のじを生む/産む。じがじをうむ。黒白か白黒にかかわらず、じはじであり、じはじである。

     *

 今回は、以上のような話をしました。

 古井由吉『白暗淵』(『白暗淵』所収)講談社文芸文庫)は、じつに刺激的な作品です。決して読みやすくはありませんが、そこにある文字たちを眺めているとスリリングな体験ができます。

 古井の他の作品とおなじく、正解、つまり正しい解などはない作品だと思います。「読む・詠む」よりも、むしろ「見る・眺める」のに適した作品――これが私の感想です。

 この小説は次のように終わります。筆者である古井由吉が、白く暗い淵にほかならない白い紙を目の前にして、鉛筆やペンで黒の点と線からなる文字たちをつづり終わった瞬間です。

 あなたの子を産みます、と坪谷は女に宣告されていた。
(p.121)

 始まりを予感させる感動的な終わり方だと思います。しろとくろとの区別さかいめと同じく、はじめとおわりに区別わかれめなどあるのでしょうか。

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