白と「白」、黒と「黒」|blank page、black page|白い余白/空白、黒い余白/空白
今回は「「白と黒」の誘惑(文字をうつす・05)」の続きですが、連載の枠を外してお届けします。コラージュ形式の文章にします。
まえがき
小説にあって物語にないものがあるとすれば、それは「空白」と「余白」ではないかと私は思います。小説を印刷術が発明された後に生まれたという新しい文学形式、そして口承文学が写本や口伝を経て印刷物として残っているものを物語として考えた場合の話です。
印刷されるのを前提として作者が紙面に白地に黒の文字で書くのが小説だということになります。草稿であろうとゲラ刷であろうと、余白と空白があるはずです。もちろん、印刷された書物のかたちでも。
最初から最後まで、つまり執筆開始から印刷物になるまで、小説は白地に黒の文字として存在します。黒の文字以外の部分が余白であり余白なのです。当たり前と言えば当たり前の話ですけど。
小説の作者にとっての余白と空白とは、どんなものなのでしょう? ひょっとすると、白く暗い淵ようなものではないかと私は想像せずにはいられません。作者にとって「作品の完成」があるとは考えられないからです。人それぞれなのでしょうけど。
(拙文「「白と黒」の誘惑(文字をうつす・05)」より)
白と「白」、黒と「黒」
白ではなく、白にぜんぜん似てもいないのにもかかわらず、白だとされて、白としてまかりとおっている。それは白という文字。たとえば、「白」と書いて、白という色と区別することもできるだろう。
黒ではなく、黒にぜんぜん似てもいないのにもかかわらず、黒だとされて、黒としてまかりとおっている。それは黒という文字。たとえば、「黒」と書いて、黒という色と区別することもできるだろう。
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白という文字は白くはない。ただし、黒の点と線からなる白という文字には白い部分(隙間/透き間)はある。かと言って、白という文字は灰色ではない。白という文字は真っ黒でも真っ白でもない。
黒という文字は黒い。詳しく言うと、黒の点と線からなる黒という文字には白い部分(隙間/透き間)はある。かと言って、黒という文字は灰色ではない。黒という文字は真っ白でも真っ黒でもない。
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白の地に黒の字は真っ黒でも真っ白でも灰色でもない。
黒の地に白の字は真っ白でも真っ黒でも灰色でもない。
白の地に黒の字は真っ黒でも真っ白でも灰色でもない。
黒の地に白の字は真っ白でも真っ黒でも灰色でもない。*
ローレンス・スターン作『トリストラム・シャンディ』には真っ黒なページがある。
ローレンス・スターン作『トリストラム・シャンディ』には真っ白なページもある。
真っ黒なページを black page と、真っ白なページを blank page と言うことがある。
black page
blank page
くろいページ
しろいページ
前代未聞の黒いページと白いページに、当時の読者は目を白黒させたにちがいない。紙はもちろん、インクも高価だった時代に、真っ黒なページを印刷するように依頼された印刷業者は顔面蒼白になったにちがいない。
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白の地に黒の字
黒の地に白の地
しろのじにくろのじ
くろのじにしろのじ
しろくくろいふち
くろくしろいふち
くろいからしろい
しろいからくろい
(拙文「『白暗淵』/「黒暗淵」」より)
しろいふち
くろいふち
くらいふち
白い淵・白い縁
黒い淵・黒い縁
暗い淵・暗い縁
白い空白に黒の余白のふちどり
黒い空白に白の余白のふちどり
まとめ
黒の点と線からなる文字が白地にしるされるのが標準的になっています。例外はありますが少ないです。身のまわりにある各種の紙面や画面をご覧ください。圧倒的に多いのが、白の地に黒の字ではないでしょうか。私たち(みなさんと私です)がいま目にしている画面も例外ではありません。
これは、どういうことなのでしょう?
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白の地に黒の字
黒の地に白の字
しろのじにくろのじ
くろのじにしろのじ
しろにくろ
くろにしろ
じにじ
じにじ
*
へ へ
の の
も
へ
じ
へ へ
の の
も
へ
じ *
なぜ「しろのじにくろのじ/くろのじにしろのじ」なのか問題は、はっきりと白黒を決めなければならないたぐいのことではない気がします。
というか、どちらの「じ」の「じ」にしろ、この二色のみを「じ」と「じ」として用いることで、白黒/黒白の差違(差異)がはっきりと見える、つまりグレー(灰色)がない/グラデーション(階調)がない(例の曖昧さを許さない「1か0かとかonかoffとか白か黒かという仕組み」)、という視認性の問題であるとは言えそうな気がします。
それよりも、もっとゆゆしい問題があります。
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いわば「一本化/同一視」問題です。
・白という色と白という字を一本化し同一視している。
・白という色と白という字に同じ語と字を当てている。
・黒という色と黒という字を一本化し同一視している。
・黒という色と黒という字に同じ語と字を当てている。
・そのために混同が起きている。
・そのために混乱も起きている。
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その結果、次の事態が起きています。状態が常態化しているのです。
・白ではなく、白にぜんぜん似てもいないのにもかかわらず、白だとされて、白としてまかりとおっている。それは白という文字。
・黒ではなく、黒にぜんぜん似てもいないのにもかかわらず、黒だとされて、黒としてまかりとおっている。それは黒という文字。
以上のことは、当然のことながら、すべての色について言えます。
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こうした事態は色だけではありません。例を挙げます。
・猫ではなく、猫にぜんぜん似てもいないのにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかりとおっている。それは猫という文字。
猫だけではありません。世界がそうなのです。
・世界ではなく、世界にぜんぜん似てもいないのにもかかわらず、世界だとされて、世界としてまかりとおっている。それは世界という文字。
お察しのとおり、世界だけでなく世界地図も、地球だけでなく地球儀も、人間だけでなく人間もどきも、宇宙だけでなく宇宙人も、森羅万象だけでなくシーラカンスも、そうなのです。
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すごいではありませんか。何がって、文字がです。
文字ではなく、文字にぜんぜん似てもいないのにもかかわらず、文字だとされて、文字としてまかりとおっている。それは文字という文字。
文字であり、文字にそっくりであるために、文字だとされて、文字としてまかりとおっている。それは文字という文字。
文字(letter)だけが例外(じつは、文学(letters)もそうなのですが(さらに言うと文字列も文章も))なのですけど(何事にも例外があると言うじゃありませんか)、話をすっきりするために(言辞/修辞を弄するために)一本化/同一視します。
文字の独り勝ちではありませんか?
何のって、一本化ごっこ(プレイ/play)と同一視ゲーム(プレイ/play)と「同じ語と字の当てっこ」遊戯(プレイ/play)での、文字の独り勝ちです。
・play・プレイ:演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play・プレイ:演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ごっこ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。
文字恐るべし。文字は世界を、いや宇宙を、いや森羅万象を制す。
これをもって、今回のまとめといたします。
なお、上で触れた、文字をめぐっての「ゲーム・ごっこ・遊戯・演技・賭け」といった広義の「play/プレイ」については、近いうちに記事に書きます。
あとがき
以上、半分冗談はさておき(半分は本気です)、私の愛読書はローレンス・スターン(Laurence Sterne)作の『トリストラム・シャンディ』(原題:The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)です。
小説を読むというよりも眺めるのが好きな私は、原著でのブックデザインとタイポグラフィ(私はタイポグラフィやレイアウトにはわりと凝るほうです、たとえばこの記事の本文では文字数を揃えるのに苦労しました)を眺めて楽しみたいために、ウェブ上で公開されている複数の full text を閲覧しています(もちろん、ところどころを読んではいますけど、おもに眺めています)。
脱線(逸脱)だらけで物語が進むこの長い長い作品を、正直言って、全体を読み通したことはありません。読み通した人はあまりいないと思いますし、読み通す必要もないでしょう。
とはいえ、確実に読み通した(文字どおり/字義どおり、一字一句です)、日本人をひとりだけ知っています。朱牟田夏雄さんです。この小説の邦訳者ですから(原文を文字どおり/字義どおり一字一句読まないと翻訳はできませんから、読むのが苦手な私には向かないし無理な作業のようです)、当たり前ですけど。
それにしても、個人訳とは、すごすぎます。マルセル・プルースト作の長い長い『失われた時を求めて』よりも読み通した人は少ないのではないでしょうか。
『トリストラム・シャンディ』も『失われた時を求めて』も『源氏物語』も、長時間の読書に向いた作品ではなく、長期間の読書に適した作品だと私は思います。
未だに全体を眺めてもいないのに、こんなふうに数年かかって楽しめる芸術作品は、ほかにはないのではないでしょうか。その意味で、白と黒だけの世界である小説というジャンルはすごいとつくづく思うこの頃です。
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いや、そうではないかも。
どんなジャンルの芸術作品でも、全体など眺められないし、全貌などつかめない気がしてきました(そもそも全体とは観念ではないかとすら思えます、誰も見たことがないのですから、ヒトは短命で小さな生き物なのです)。一枚の絵でも、一曲の楽曲でも、一体の彫像でも、一編の詩でも、日本の短い定型詩一句(または一首)でも、です。
作品の時間的な長さ、語数や文字数、平面であれば面積、立体であれば重さや体積――。そういった数や量の問題ではないはずです。
(始まりと途中と終わりがあったとしても、それを分断すれば、その断片には、また始まりと途中と終わりがあるではありませんか。)
たとえば、ある一句が大好きで、なんどもなんども口にしたり、文字として眺めたりする。ときには自分で書き写すこともある。それが長年にわたっての鑑賞であったりする。こういうのは、大いにありうるのではないでしょうか?
(※五・七・五というきわめて短い定型詩(定型ということは長い伝統があると同義です)には先行する無数の句が連鎖をなしているはずです。しかも長さ(短さ)だけではなく複数のルールがある定型という連鎖を前提とし、その連鎖の中でつくられている。
ですから、「俳句が短い」というのは事実誤認だと言うべきでしょう。言葉(語)では追いつけない現実や事実があります。私の好きな言い方をすると、現界の辻褄合わせは言界ではできません。それが限界なのです。現界、言界、幻界、限界、これら全部を「げんかい」と読むなんて荒唐無稽なことが「ありうる」し、げんに「ある」のが言界なのですから。
じつは「げんかい」は全部で10ヶあるのです。よろしければ、⇒「自分語について」――。脱線(逸脱)が多くて申し訳ありません。あと、誤字脱字がありましたら、ごめんなさい。)
私なんか、まだ文字の読み書きを知らない幼い頃に歌い覚えた歌謡曲や唱歌を、未だにふいに思いだして口にして楽しんでいます。寝入り際の夢うつつや、昼間の夢うつつのさなかにも、なぜか浮んでくるがあるのです。はっきりと。
話が飛躍しましたが、芸術作品とは呼ばれていないもの(それでいて個人にとっては掛け替えのないもの)でも、そうやって長年楽しむことがある。そう言いたかったのです。
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冒頭で、今回はコラージュ形式の文章にすると書きましたが、とりとめがないというか、脱線(逸脱)だらけの記事(師と仰ぐスターン師の文章に擬態したかったのです、「勝手にそこで擬態していろ」ですよね、私もそう思います)をここまでお読みくださり、どうもありがとうございました。また、来てくださいね。
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