「白と黒」の誘惑(文字をうつす・05)
今回の記事は「引用の織物」でお届けします。
文字の世界の話です。一般的な「白地に黒の文字の世界」と、一般的ではないけれど珍しいわけでもない「黒地に白の文字の世界」では、次のようなことが起きます。
・白が黒い/黒が黒い
・白が白い/黒が白い
・赤が黒い
・赤が白い
このように書くとややこしいですが、こんなことが当たり前のように起きています。太文字に注目してください。黒か白しかないのです。
文字の世界では、白も黒も赤も緑も青もピンクも白と黒の文字であって、色ではないから、こうなります。
*
文字の世界では、「白と黒が反転しようと黒と白しかない」し、「黒と白以外のどんな色も黒と白として書かれる」、と言えば分かりやすいかもしれません。
赤を例に取ると、「赤という色」と「赤という文字」は別物なのです。これはどんな色についても言えます。
当たり前と言えば当たり前、当たり前すぎて気にも留めない。だから、ややこしそうに感じられる――。そんなことがよくあります。今回は、そのありふれた当たり前のことがテーマです。
*
もう一度「赤」を例に取ります。
・「赤」という色
・「赤」という字
・「赤」という音
上の三つの「赤」を区別しないのが、日常生活であり学問の世界です。三つの「赤」を区別してそれぞれの違いにこだわるのが、たとえば文学や文芸と呼ばれる世界です。あと、デザインや色彩の科学の分野もそうにちがいありません。
色と字と音が別なことくらい誰でも知っているし分かっています。でも、たとえば「赤」という色の場合には、そのどれにも「赤」という字と音が当てられています。
色も字も音も「赤」で「一本化されている」のが「文字の世界」なのです。別のものに「同じ文字を当てている」わけですから、問題や無理が生じるのは当たり前だとも言えます。
「一本化されている」と「同じ文字を当てている」は「文字の世界」では珍しいことではありません。どんな事物についても、そうなっています。
色は感覚に訴えます。感覚のうちでも視覚に訴えるのですから、文字という視覚でとらえるものでは「一本化されている」と「同じ文字を当てている」がややこしい問題を引き起こします。
錯覚するのです。同一視と混同が起こるのです。
*
できるだけ具体的な話にするために、引用文を中心に構成します。以下の目次にある各見出しは、引用先の文章の著者の氏名です。どれもがこれまでに私が刺激を受けてきた書き手の名前です(敬称は省略させていただきます)。
蓮實重彥
(……)すなわち、「フィクション」には言説としての純粋形態といったものは想定しえないし、しかるべき言説を「フィクション」たらしめる「フィクション」性の最小単位というものも存在していない。だから、「フィクション」をめぐる必要にして十分な定義など、そもそも「理論的」に不可能だとまではいわぬにせよ、途方もなく困難である。
そこに、ふらりと迷いこんできたのが「赤」である。どこから舞い降りたのか知るよしもないその「赤」は、みずからのおさまるべき文脈などいっさい記憶にないといいたげに、「『赤』の誘惑」こそ「フィクション」を招きよせるにふさわしい記号だと口にしながら、「理論」の不毛地帯を心地よさそうに移動してまわる。この「赤」のときならぬ登場を天佑を受けとめ、「赤」とは何かなどとしかめつらしく問わずにおこう。その語の意味論的な考察や、比喩としての文化的な意味の拡がりの究明もここでの急務ではないとおのれにいい聞かせ、とりあえず「『赤』の誘惑」に身をまかせてみてはどうか。(……)
(蓮實重彥『「赤」の誘惑 ――フィクション論序説』(新潮社)pp.13-14・丸括弧とリーダーを用いての省略は引用者による)
上の引用文にある鉤括弧を施された「赤」が、赤という語であり文字であることは明らかでしょう。赤という色でも、赤という色をめぐって人が抱く概念やイメージでもないという意味です。
「フィクション」、「理論的」、「理論」といった語/文字列を挟む鉤括弧は、その語/文字列をとりあえずのものとしてしるすという、いわば宙吊りのしるしだと私は受けとめています。この宙吊りは、著者特有の語/文字列に対するいわば振り付けなのです。
「『赤』の誘惑」に施された鉤括弧も、宙吊りの振り付けのしるしにほかならず、読者はそのフレーズをとりあえずのものとして、とりあえず読むしかなさそうです。というか、そのように読むように誘っているように私には見えます。
*
いぜれにせよ、私は引用文をふくむこの著作の言葉(語)と文字たちに促されながら、本記事を書いていこうと思っています。記事のタイトルにある「『白と黒』の誘惑」とは、そういう意味です。
「白と黒」とは何かを保留し、以下に引用する文章に見える「白と黒」に身をまかせてみます。
*
以上、軽率かつ的外れな引用をお許し願います。また、引用先である書物の表題と似たタイトルを本記事に付けた無礼についても深くお詫びを申し上げます。
古井由吉
以下は、私がよく眺める小説の一節です。読むと言うよりも、むしろ眺めます(私は小説を読むのが苦手なのです)。
はじめに神は天地をつくった、と女教師が創世記の冒頭のことを話した。「元始」という厳しげな文字を黒板に書いて、「はじめ」と仮名を振った。端正な楷書だったが、坪谷の記憶の中で年を経るにつれて、その白墨の文字にあどけない、無防備のようなものが見えてくる。
(古井由吉『白暗淵』(『白暗淵』所収)講談社文芸文庫)・pp.109-110・太文字は引用者による)
「黒板」に「元始」と書かれたにちがいない「白墨の文字」を思い浮かべてみてください。黒字に白の文字であるはずです。
白いチョークを、あえて「白墨」(文字どおり読めば「白い墨」です)という語を選んでしるされているところが、じつに興味深いです。この表記に私はぞくぞくします。
*
地はかたちなくむなしくして、と女教師は続く箇所を暗誦した。「定形」と黒板に書いて、「曠しく」とそれに並べた。つぎに「黒暗淵」とまず板書してから。「やみわだ」と読んだ。神の霊が水の面を覆っていたという。(……)
(古井由吉『白暗淵』(『白暗淵』所収)講談社文芸文庫)・p.110・丸括弧とリーダーを用いての省略と太文字は引用者による)
「黒板」に「白墨」(白いチョーク)で書かれた「黒暗淵」(やみわだ)を思い描いてみてください。当たり前のことですが、「黒暗淵」は白い文字であるはずです。
ここで、この短編小説のタイトルの『白暗淵(しろわだ)』(黒い文字として印刷されています)と、この小説を収めた短編集のタイトルである『白暗淵』を思いださずにはいられません。
それだけではありません。この「白暗淵」という文字列が小説の本文には出てこないことに気がつき、はっとしないではいられないのです。これは何かの間違いではではないか、と本文の文字列に隈なく目を走らせたことを覚えています。
「白暗淵」はいわば「空白」なのです。「白く暗い淵」とか「白い深淵」と読んでしまう人がいても不自然ではないでしょう。
私が連想するのは、書く前の書き手が目の前にする白い紙面上の「空白」です。同時に、書き終えた書き手が目にする文字列の後につづく「空白」です。書く最中の文字列の上下と左右にある「余白」でもあります。
*
小説にあって物語にないものがあるとすれば、それは「空白」と「余白」ではないかと私は思います。小説を印刷術が発明された後に生まれたという新しい文学形式、そして口承文学が写本や口伝を経て印刷物として残っているものを物語として考えた場合の話です。
印刷されるのを前提として作者が紙面に白地に黒の文字で書くのが小説だということになります。草稿であろうとゲラ刷であろうと、余白と空白があるはずです。もちろん、印刷された書物のかたちでも。
最初から最後まで、つまり執筆開始から印刷物になるまで、小説は白地に黒の文字として存在します。黒の文字以外の部分が余白であり余白なのです。当たり前と言えば当たり前の話ですけど。
小説の作者にとっての余白と空白とは、どんなものなのでしょう? ひょっとすると、白く暗い淵ようなものではないかと私は想像せずにはいられません。作者にとって「作品の完成」があるとは考えられないからです。人それぞれなのでしょうけど。
では、物語にあって小説にはないものがあるとすれば、それは何でしょう? 私は間(ま)だと思います。空白でも空間でもなく間です。
たとえば、本として読む、つまり印刷された『遠野物語』の紙面を見ると、タイトルがなくぶっきら棒に漢数字が振られただけの各「断片」に見られる改行のない、つまり空白のない書かれ方というかレイアウトに、私は「物語にあって小説にはないもの」を感じます。
読み慣れた小説とは字面(視覚的な印象)がぜんぜん異なるのです。その「物語」を読むさなかに、私は知らず知らずのうちに呼吸を合わせて読んでいる自分に気づきます。「物語」の文字に目を注ぎながら黙読するさいには、語り手の声に耳を傾け、空白ではなく「間・ま」を感じ取りながら読んでいる自分がいるのです。
*
小説(散文)という新しい文学形式に見られる「余白」については、蓮實重彥による「散文は生まれたばかりのものである――『ボヴァリー夫人』のテクストに挿入された「余白」についての考察」という、雑誌「群像2024年3月号」の論考(講演の活字化)に触れないわけにはまいりませんが、ここではその内容に立ち入る余裕がありません。
【次号予告4】蓮實重彦さんの小特集は、「ミシェル・フーコー『The Japan Lectures』をめぐるインタビュー」と「散文は生まれたばかりのものである――『ボヴァリー夫人』のテクストに挿入された「余白」についての考察」の二本立てでお届けします。お見逃しなく。#群像3月号 pic.twitter.com/rNX643anp9
— 群像 (@gunzou_henshubu) February 6, 2024
古井由吉の『白暗淵』には本文中に一行を空けた空白が二つあります。あと、当然のことながら、作品冒頭の行の前の空白と作品最後の行の後の空白があります。
その空白にじっと見入ることがあります。私の場合には、白い深淵に見入るなんてものではありません。その顔はさぞかし間が抜けていることでしょう。
*
話を戻します。
白地に黒でしるされない文字は珍しいことではありません。黒板と呼ばれるものが緑の板であるのも珍しくはありません。いくら白地に黒が主流だとしても、それ以外の地に字がしるされるという文字のありようは当たり前になっているのです。
その当たり前にいちいち目を留めたり注意を払ったり、こだわったりするのは、たとえば、印刷業者やタイポグラフィに関心のあるデザイナーや編集者だったりするでしょう。
いずれにせよ、地と字はきわだった対照をなしていなければなりません。私たちのまわりにある文字は、コントラストによってくっきりはっきりと見えるように、そして読めるように設計(デザイン)されているちがいありません(こうした工夫を「視認性・可読性・判読性を高める」と言う場合があるそうです)。
*
そんなわけで、「白が黒い/黒が黒い・白が白い/黒が白い・赤が黒い・赤が白い」という「文字のありよう」は「ありうる」し、むしろ「ありふれている」と言えそうです。よく考えると当たり前のことを言っています。
白地に黒の字の場合で見てみましょう。
〇白が黒い/黒が黒い
X白が白い/黒が白い
〇赤が黒い
X赤が白い
〇白という文字が黒い/黒という文字が黒い
X白という文字が白い/黒という文字が白い
〇赤という文字が黒い
X赤という文字が白い
地と字を反転させてみましょう。
〇白が黒い/黒が黒い
X白が白い/黒が白い
〇赤が黒い
X赤が白い
〇白という文字が黒い/黒という文字が黒い
X白という文字が白い/黒という文字が白い
〇赤という文字が黒い
X赤という文字が白いもちろん、さきほど上で述べたように、「白地に黒の字」と「黒地に白の字」以外の組み合わせの色で、「〇地に〇の字」がしるされることも、当たり前のこと、つまりありふれたこと、としてあります。
いぜれにせよ、
このように文字について、または文字のありようをめぐって観察したことを文字にしようとすると、同語・同義・同音・同字・同イメージを反復するという事態におちいります。
(拙文「同語・同義・同音・同字・同イメージを反復する(文字をうつす・01)」より)
ということです。
*
なお、なぜ「白と黒」なのかについては今回は問わずにおき、あくまでも引用文における「白と黒」のありよう、つまり「白と黒」が引用文でどのようにしるされているかに目を向けます。
とは言うものの、なぜ「白と黒」なのかは私にとって魅力的なテーマなので、今後別の記事で思うところをお話しするつもりではいます。
ルイス・キャロル
たったひとつ、確かだったのは、白い子ネコにはなんの関係もなくて、なにもかも黒い子ネコのせいだったということです。(……)
(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』河合祥一郎訳・角川文庫・p.13・丸括弧とリーダーを用いての省略は引用者による)
上で引用したのは、読者が現実の世界から白と黒の世界へと「うつる・移る」、小説の出だしのセンテンスです。
白と黒だけの世界というか、白地に黒の文字からなる世界である『鏡の国のアリス』が上のように始まるのは、とても興味深い書き方だと感心しないではいられません。
まるで文字の書き方/書かれ方が文字のありように擬態しているかのような印象を私は受けます。
『鏡の国のアリス』は『不思議の国のアリス』と同様に、多種多様な読みが可能な楽しい本です。ルイス・キャロルの作品は英語の原文(私はネット上にあるジョン・テニエルの挿絵付きの原文を利用しています)で読むのが理想ですが、なかなかそうはいきません。
私は邦訳を複数持っていますが、個人的には角川文庫にある河合祥一郎訳が好きです。ジョン・テニエルの挿絵が用いられていることと、原文にある洒落やライムなどの言葉遊びや文字を用いた視覚的な遊びが無理のない日本語に移されていて、読むたびにすごいなあと唸っています。素晴らしい出来栄えの翻訳だと思います。
*
『鏡の国のアリス』では、ほかにも
・「黒と白」や、
・「白」と「黒」や、
・ほかの色の語/文字
の出てくる興味深い箇所が多数あります。今後、別の記事で紹介するつもりですが、今回は作品の冒頭に出てくる「赤」に注目します。
まず、チェスボードの絵が登場し、そこではボードの上に「RED」(赤)、そしてボードの下に「WHITE」(白)と黒でしるされているのです。
大切なのは「赤」が黒であることです。当たり前ですが、本記事ではその当たり前を問題にしています。
さらに、チェスボードが描かれているページの次には(邦訳によっては前のページには)、白の歩(アリス)と他の駒の動きを説明した、先手1~11と後手1~10の文が並んでいます。
私はチェスにはぜんぜん詳しくないのですが、以下のサイトにはチェスの駒について詳細な解説が載っているので、興味のある方はご覧ください。
ここで私の目を引くのは、とにもかくにも、「白」と「赤」という文字なのです。駒の動きを示すページの「白」と「赤」が白地に黒の文字でしるされている、それだけが、ここでの私の関心事だと言えます。
白が黒い/黒が黒い・白が白い/黒が白い・赤が黒い・赤が白い
〇白が黒い/黒が黒い
X白が白い/黒が白い
〇赤が黒い
X赤が白い
〇白という文字が黒い/黒という文字が黒い
X白という文字が白い/黒という文字が白い
〇赤という文字が黒い
X赤という文字が白い
反転させてみましょう。
X白が黒い/黒が黒い
〇白が白い/黒が白い
X赤が黒い
〇赤が白い
X白という文字が黒い/黒という文字が黒い
〇白という文字が白い/黒という文字が白い
X赤という文字が黒い
〇赤という文字が白い白と黒の世界、白と黒だけの世界、白と黒しかない世界は、反転させても、白と黒の世界、白と黒だけの世界、白と黒しかない世界なのです。
*
くり返します。
ここで私の目を引くのは、とにもかくにも、「白」と「赤」という文字なのです。駒の動きを示すページの「白」と「赤」が白地に黒の文字でしるされている、それだけが、ここでの私の関心事だと言えます。
上でも述べましたが、小説を読むのが苦手な私は、ストーリーよりも、そうした文字のありように目が行くので、文字どおり小説の文字と文字列を眺めていることがよくあります。
そんな私は、ウィキペディアでの「駒 (チェス)」の解説にある以下の記述を読んでいると気が遠くなりそうなくらいの感動を覚えます。
通常チェスのゲームでは先手を「白」、後手を「黒」と呼び、それぞれの駒を識別するため異なった色・種類の駒が用いられる。今日において標準的な「スタントン式」と呼ばれるタイプでは両者の駒は同じ形状で、黒の駒が白の駒より濃い色になっている。このような標準的なタイプの他に、白と黒とでまったく異なった形状の駒を用いるセットも存在する。
(※太文字は引用者による)
白と黒の世界、白と黒だけの世界、白と黒しかない世界――チェスというゲーム、チェスというゲームのおこなわれる場であるボード、文字という記述の体系、文字という記述の体系がしるされる場である紙面・画面。
そこには共通して「例の1か0かとかonかoffかという仕組み」が働き機能しているように思えてなりません。拙文からの引用をお許しください。
じっさいには白の地に黒の模様以外の組み合わせもある。あちこちに見られる。いずれにせよ、二色が基本。
さもなければ、点と線の模様も、その模様からなる列も、くっきりはっきりと人の目にうつらない。二色のあいだのグラデーションは許されない。
点と線からなる個々の模様の区別は、例の1か0かとかonかoffかという仕組みのように明確でなければならない。無数どころか無限にありうる濃淡の階調などという曖昧さは許されない。
その意味で、白地に黒の点と線からなる模様の連なる世界は、自然界も現実も反映していない。うつつをうつしてなどいないのだ。その意味で、人はうつつのうつろなうつしにうつつを抜かしている、うつけ。
(拙文「いまそこにうつっているもの(文字をうつす・02)」より)
『鏡の国のアリス』を読んでいると、私は川端康成のある作品を連想しないではいられません。
川端康成
チェスというゲームとチェスボードが重要な位置を占めるルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の文章(翻訳でも原文でもかまいません)を眺めていて私の連想するのは、川端康成の『雪国』よりも、むしろ『名人』です。
いわば白と黒の世界(白と黒しかない世界)である碁が描かれているからにほかなりません。しかも「鏡」(鉤括弧でくくったのには理由があります)が出てきます。
以下に引用する箇所では、さまざまな色と色を連想させる言葉(語・音)と文字が出てくるので、そこに目を注ぎながら読んでみましょう。
二日目の対局室は、明治時代のさびのついたような二階で、襖から欄間まで紅葉づくめ、一隅に廻した金屏風にも光琳風のあてやかな紅葉であった。床の間に八つ手とダリアが活けてある。十八畳の次の間の十五畳まで明け通しなので、大振りの花も目に障わらない。そのダリアの花は少ししおれていた。稚児髷の少女が花かんざしをして、ときどき茶の入れかえに来るだけで、人の出入りはない。名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。
大竹七段は黒羽二重の一重に絽の羽織の紋服だが、今日の名人は少しくつろいでか、縫い紋の羽織だった。盤は昨日のとはちがう。
(川端康成作『名人』新潮文庫・p.35)
注目すべきことは、この「色彩」に満ちた文章が「白地に黒の文字で書かれている」という「文字のありよう」です。ふだんはそんな当たり前のことは誰も考えないし意識しません。
その文章が、白と黒の世界、白と黒だけの世界、白と黒しかない世界であることなど、誰でも知っているし分かっているにもかかわらず、読むときの私たちは、その知っていることと分かっていることを忘れてしまい、そこに色彩を感じてしまうのです。それが「読む」です。
私がいちばん気になる「名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。」を詳しく見てみます。
・「白い扇」、「黒塗りの盆」:
ここにある白と黒は碁石を連想をさせますが、川端の計算であることは間違いないでしょう。川端はしばしば細部にさりげなく冴えた技巧をしのばせます。
うつってうつろう扇の白、それをうつして構える盆の黒――。こうした趣向の文章を書いているのも名人なのです(もちろん川端のことです)。
・「氷水をのせた黒塗りの盆に写って」:
「写って」いるのは影、つまり映った像です。黒塗りの盆が鏡に転じています。
こう考えると、『雪国』の冒頭の汽車の場面を思いださずにはいられません。その場面では、外の闇を背景にして窓ガラスが鏡に転じています。
「氷水をのせた」がさらに『雪国』の寒い夜を連想させもします。車外の寒さをさえぎり、車内との温度によって曇った窓ガラスが、ここ(『名人』のこの一節)に「二重写し」(『雪国』にある言葉です)されているかのような錯覚を覚えます。
どうしてここで『雪国』の一場面を取りあげたのかと言いますと、『名人』のこの一節と『雪国』の汽車の場面とには、
・鏡に転じた鏡ではない物(闇を背景にした窓ガラスと黒塗りの盆)と、
・そこに「うつる」影(男女の姿と扇子の姿)が共通してある
からにほかなりません。
共通するのは、「鏡」とそこに(うつる)影です。
*
川端には「うつる・うつす」を巧みに文章化(文字化)します。その「うつる・うつす」は、あたかも「写・映」を超えて「移」にまで達するかのようです。現実には「移」の代償行為として「写・映」があるにもかかわらず、です。
人は現界(現実の世界)で「移る・移す」が困難であったり不可能だからこそ、その代わりに幻界(思いや夢の世界)や言界(言葉や文字の世界)で「写す・映す」のですから。
*
川端の文章では「写る・映る」が「移る」に感じられることがあります。あっさりと書きましたが、これは「ありえない」ことです。「移る」とは、字義通りに取れば、物理的に事物や人物や生き物が「移動する」ことなのですから。
それだけでも、じゅうぶんに「ありえない」にもかかわらず、川端の文章では、「移る」が「乗り移る(とりつく・取り付く・取り憑く)」といった、さらに「ありえない」様相を帯びることがあります(たとえば『名人』で死後の名人を写した写真を描写する場面です)。
こんなことは文字の世界だからこそ「ありうる」のであって、現実の世界ではぜったいに「ありえない」――。川端の文章に接するたびに、私はそんなことを考えます。
なお、上で述べた「死後の名人を写した写真を描写する場面」については以下の記事(「「写る・映る」ではなく「移る」・その1」と「「写る・映る」ではなく「移る」・その2」)で書いたことがありますが、不満のある記事なので、体力と気力があれば、いつか書き改めたいと思っています。
*
(脱線と余談が多くて申しわけありません。)
話を戻して、次に引用文にある色を順に見てみましょう。
紅、金、紅、白、黒、黒
明るく暖かい色の中で、名人の白と大竹七段の黒が、静かに立つ気がします。イメージを喚起する紅白があるのも興味深いです。
くどいですが、「紅、金、紅、白、黒、黒」のどれもが「白地に黒の文字」であることに注目したいです。
『名人』というおびただしい数の文字から成る作品の中で、色に注目しながら白と黒を目で追うのも面白い体験になるにちがいありません。
私が目を引かれたのは、たとえば「短い口ひげにまじる白毛」(p.22)、「大きい黒子が二つ」(p.23)です。p.22からp.23には、モノクロの写真にうつった影(像)の描写が出てきます。ここは原文にあたっていただくしかありません。ぜひお読みください。
あとがき
今回は、「文字をうつす」という連載の下書きを書いているうちに気になりだした「白と黒」に絞った記事になりました。
「白と黒」に絞ったとは言え、「白と黒」・「白と黒だけ」・「白と黒しかない」という文字のありようは、見えるようで、なかなか見えてきません。
目の前に「ある/見える」はず、いまそこに「ある/見える」はずなのに「見えてこない」のです。白地に黒の文字が白と黒からなっていることなど知っているし分かっているにもかかわらず、です。
私が文字のありようの観察日記(noteの記事のことです)をつけて公開している理由を挙げます。
・文字が不思議でならない。
・文字が得体の知れない不気味なものに思える。
・文字は見えるようで見えない。
・ひょっとすると、文字はそれを用いる人には見えないように仕組まれた体系なのではないか。
(拙文「文字が文字であることを忘れない」より)
先日の記事に書いた思い(「文字はそれを用いる人には見えないように仕組まれた体系なのではないか」)は、私のなかでしだいに強くなってきています。考えすぎなのかもしれません。いや、そうにちがいありませんが、この高まる思いを静/鎮めることは容易ではない気がします。
やみをよむ やめるこころが よみをよび
*
文字を文字にする/文字を文字にうつすのは、きわめて困難な作業だといつも感じているのですが、本記事を書いて頭の整理ができたことは確かです。それにしても、読みかえすとずいぶん当たり前のことを書いていますね。
分からず屋なのでしょう、当たり前のことに納得できない自分がいます。幼いころには飲み込みが悪い子だねとよく言われたものですが、そのまま老人になってしまいました。
とりとめがないというか散漫な文章で、読みにくかったのではないでしょうか。ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。
闇をよむ 病めるこころが 黄泉をよび
#読書感想文 #熟成下書き #蓮實重彥 #蓮實重彦 #古井由吉 #白暗淵 #ルイス・キャロル #鏡の国のアリス #河合祥一郎 #川端康成 #名人 #小説 #物語 #遠野物語 #囲碁 #チェス
