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主体、客体、身体(「客」小説を求めて・06)

「顧客になる(「客」小説を求めて・05)」の続きです。

 今回は、『雪国』の汽車の中の場面を題材にして、文字の読み書きにおける、以下の三つの要素の働きについてお話しします。

・目、指、画面
・目、指、紙面

     *

 以下は、手もとにある辞書に載っている「客」の語義です。

*「きゃく・客」
 ・訪問してくる人、まろうど。
 ・旅人。家から離れ、旅館などにとまる人。
 ・自己や主たるものと別にあって対立するもの。←→主。
 ・商売で、料金を払う側の人。
 (以上、広辞苑より)

*「きゃく・客」
 ・霊(たま)祭などの、祭の場に来る死霊・霊魂。
 (以上、日本国語大辞典より)

 この記事では、上の太文字の語義についての話になります。


不思議な世界、閉じた世界


 世界に主語があるのだろうか。

 そんなふうに考えることがあります。そう言うと難しく聞こえるかもしれませんが、暇なときにぼーっとした状態で考えているのですから、とりとめのない夢想のようなものです。

 世界に主語があるのだろうか。

 この思いは、私の場合には、川端康成の『雪国』の冒頭に出てくる汽車のガラス窓の話と重なります。

     *

 島村がガラス窓に向っている場面の話なのですが、島村はある意味、おかしな行動を取っています。

『雪国』の冒頭には、不自然というか、不可思議なことばかりが描かれているのです。

 葉子が、島村を無視し、て傍若無人にも通路を隔てた向かい側の席にいる島村のそばまで、ずかずかとやって来る。「失礼します」とか「ごめんなさい」とも声を掛けずに、いきなりガラス窓を開ける。

 そして、駅長さんと大声で話を始めるのです。これだけでも、十分に唐突で変な話ではありませんか?

 それだけではありません。国境の長いトンネルを抜けてわざわざやって来た雪国なのに、まるである種のお芝居のようにお国訛りのない、お上品とも言える言葉で、駅長さんと会話をしているのです。

 そうした不可解な展開については、「「観客」小説(「客」小説を求めて・04)」に書きました。

     *

 私に言わせると、この作品の冒頭では視点的人物である島村が目だけの存在になっているのです。しかもただ、一方的、一方向的に、ひたすら見ているだけ。

 そうなっているのですから、読者はそう読むしかないのです。もちろん、読むのをやめるという選択肢もありますが。

 大切なのは目だけの存在になっている人物のその目から世界が描かれていることです。世界と言っても、この小説で描かれている世界であって、それ以上でもそれ以下でもありません。

 文学作品は閉じた世界のなのです。外の世界とは切り離されたものとして読むべきでしょう。

目だけの世界、主体だけの世界、客体だけの世界


 その閉じた世界には何があるのかと言えば、島村の目だけがあります。同時に、島村の目の前で葉子が閉めたガラス窓だけの世界でもあります。

 葉子は、島村に挨拶することもなく、通路の向こうの席にもどります。ひとり残された島村は、真っ暗な外を背景に鏡と化した窓ガラスに向います。いいですか? 窓の外には何も見えないのですよ。

 ときどき、明かりがちらちら見えるくらいですが、普通、そんなものをじっと眺めるでしょうか?

     *

 島村の目だけの世界、自分だけの世界、主体だけの世界
 島村の目の前のガラス窓に映る世界、対象だけの世界、客体だけの世界

 主語のある世界、主体がある世界、主(あるじ)が統率している世界
 述語だけの世界、客体だけの世界、うつろいだけのあるかりそめの世界

 島村は、目の前にある鏡と化した窓ガラスに映る世界に同化している。こう言えば、分かりやすいかもしれません。

 主と客のさかいが曖昧になっている。曖昧どころか、おそらくない。

うつくしいうつしとうつろいだけがある


 目だけの存在になった島村の目に映るのは、客体だけの世界です。これを主体だけの世界と言い換えても、事態は変わりません。

 そこには、うつくしいうつしとうつろいだけがあるのです。美しい写しと移ろいの世界が。

 うつくしいうつしとうつろいだけ
 美しい写し映しと移ろいだけ

 世界は、映っている・写っているからこそ美しいのです。鏡(ガラス)は現実世界の悲しさや貧しさ(島村の向かい側の席にいる葉子と男の関係を想像してください)はうつさないのです。

     *

 次のようにも言えるでしょう。

 うつつのうつしはうつろなだけにうつくしい
 現の写し映しは虚ろなだけに美しい

 こうも言えるでしょう。

 うつつのうつしはうつろ、虚ろ、空ろ、洞ろなのです。

 現の写し・映しである鏡の像を思い浮かべてください。そこにうつっているのは、からっぽの器なのです。

 川端はその空虚を哀しいくらいに美しく描いています。鏡像と虚像に見入って実体(実態でもあります)と実像に目を向けていないからにほかなりません。

     *

 作者である川端と、その作品の登場人物である島村を同一視することはできませんが、島村は実像に背を向けて、目をつむるのではなく、ガラス窓に見入っているのです。

 川端は「盗見」(盗み見)という言葉をつかっています(p.11)が、車内での島村の様子を思い描くと、ある意味滑稽ですらあります。

 話を戻します。

     *

 写しだけがうつろう世界、客体だけがうつる世界、鏡像だけの世界、です。そこでは主体・自分・目は、意識から消えています。そこでは、意識こそがすべてなのです。

 目 ⇒ ガラス窓・窓ガラス ⇒ 映像
 主体 ⇒ 対象 ⇒ 客体

 主客転倒 主が客に転じ、客が主に転じ、それがくり返される

     *

 今回の記事のテーマを確認します。

・自己や主たるものと別にあって対立するもの。←→主。
・霊(たま)祭などの、祭の場に来る死霊・霊魂。

うつる・うつす


 見るだけの存在となった島村の身体は抜け殻になり、その魂は、鏡と化した窓ガラスに映る像の世界に移っているのです。

 殻・から、空・から、器・うつわ、うつお・空・虚・洞、うつろ、うつろい
 うつる、写る・映る、移る、遷る

     *

「遷」:「もとの場所・地位をはなれて、中身だけが他にうつる」「魂が肉体からぬけて、自在に遊ぶようになった人。仙人。」(漢字源・学研)

 遷移、変遷、左遷
 司馬遷
 遷都、遷宮

 都、宮 

 中身だけが他にうつる――。遷が、客と重なって見えます。うつろなうつわを借りてうつるというイメージです。

     *

『雪国』は「うつる・うつす」が主要なテーマとなっている作品なのですが、「うつる・うつす」は川端康成にとって終始重要な意味を持つテーマだとも言えます。

 以下の川端関連のマガジンにざっと目を通していただければ、それがお分かりになるかもしれません。

移・写・映・遷


「うつる・うつす」が好きな私は、以前に漢和辞典で「遷」を調べていて、以下の記述を見掛けたことがあります。
「遷」:「もとの場所・地位をはなれて、中身だけが他にうつる」「魂が肉体からぬけて、自在に遊ぶようになった人。仙人。」(漢字源・学研)
(拙文「場を移りながら生きるものたち」より)

 うつる、写る・映る、移る、遷る 
 うつす、写す・映す、移す、遷す

 うつるのは主体でしょうか、それとも客体なのでしょうか。
 うつすのは主体でしょうか、それとも客体なのでしょうか。

 うつる/うつす、うつす/うつる、そうしたさかいが曖昧になり、消えてしまった世界が、『雪国』の冒頭では描かれているかのようです。

目、指、面


 島村は目だけの存在になっています。その目は何を見ているのでしょう? その目には何が映っているのでしょう?

 見ている、映っている、写っている、移っている、遷っている

 島村の心は、そこではないどこかへ、そしてその時ではないいつかへと移っているのです。

・これから会いにいく女(駒子)との過去の出来事
・ガラス窓に映った(川端は「写」と表記しています)向こうの世界の出来事

 その過去と向こうの世界をつなぐのが、指なのです。ここでは島村の指が重要な役割と意味を担っています。

 今と過去、そして、こちらと向こうをつなぐのが指であることに注目しましょう。

 島村は目だけの存在です。

 目に指があるの? なんてツッコまないでくださいね。この点だけに限れば不自然でも変でも不可解でもないのです。

 これからお話しします。

     *

 目だけの存在――。

 あなた。そうです、そこにいる、あなたですよ。

 あなたが、そうではないでしょうか? あなたは、今、目だけの存在になっていないでしょうか?

 あなたは、今、この文章を目にしています。目だけの存在として、目の前の画面に映って(写って)いるこの文章を読んでいるはずです。

 そして、この文章を画面に呼び出したのは、あなたの指であるはずです。キーボードのキーとマウスを、あるいはタッチパネルを指で撫でたり、軽く叩いて操作したにちがいありません。

 パソコンであっても、スマホであっても、タブレットであってもです。

・目、指、画面:パソコン、スマホ、タブレットでの読み書き。キーボード、マウス、画面。指でタイプ、ロール(くるくるまわす)、タップ、スクロール、スライド。
・目、指、紙面:紙とペンとインクをもちいての読み書き。指でページをめくる、ペンを握る。

     *

 実は、指は、身体のうちで「うつす」と最も親和性のある部位なのです。「移す、写す、移す」のすべてとです。話がとても大きくなるので、このことについては、あらためて記事にするつもりでいます。

     *

 話が抽象的になってしまいました。

 以上述べたことを説明するために、以下では『雪国』の冒頭から引用してみます。

過去と今、向こうとこっちをつなぐ指


 もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かしていろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけていく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今もれていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけてにおいをいでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼かためがはっきり浮き出たのだった。
(川端康成『雪国』(新潮文庫)p.8・以下同じ)

 これで一センテンスです。意識の流れとか心理描写という言葉がうかびます。「この指だけは」からは巧みな描写と言えるでしょう。 

・「鼻につけてにおいをいでみたりしていたが」、「ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼かためがはっきり浮き出たのだった。」:指が過去と今、そして向こうとこっちをつなぐ役割を果たしているのが見て取れます。

 整理します。

 *過去と今をつなぐ指:触媒は匂いの残っている指、対象となるのは駒子
 *向こうとこっちをつなぐ指:触媒は鏡と化した窓ガラスに線を引く指、対象となるのは葉子
 (とはいえ、この二人の女性は、後述するように、「二重写し」になっているのです。写しですから、どちらでもあり、どちらでもない。)

・「れて」、「においを」、「いで」、「片眼かためが」:川端は意味深なルビの使い方をすることがあります。ここは、まさに、それです。

 というか、この長い一センテンスで、ルビはこの四箇所しかないことを見逃してはなりません。煽っているのです。扇情にほかなりません。読みとばすのではなく、その文字に目をとめてほしいのです。

 なぜ、「片眼かため」なのでしょう? なぜ、片目ではないのでしょう? なぜ、両目・両眼ではないのでしょう? 

 眼はひとつでなければなりません。目のようにすかすかした字面では駄目です。眼のように、画数の多い、ひだひだした文字のほうが扇情的だからにほかなりません。

 濡れる、開く、閉じる、蓋がある、締まると襞がよる――。

 ほのめかした言い方で申し訳ありません。お察しください。川端はエロいのです、とっても(深読みするほうが川端先生への礼儀だと私は思うのです)。たぐいまれな文字の振付師でもあります。

     *

 ところで、さきほど「指は、身体のうちで「うつす」と最も親和性のある部位なのです」と書きましたが、上の引用箇所に出てきた「指」が「うつる」とかかわっていることにお気づきになりましたでしょうか?

 そうです、「匂い」です。そうなんです、「移る」です。「移り香」と言いますね。

 似たものに「残り香」がありますが、これは「その人がいなくなったあとまで残っているにおい」(広辞苑)ですから、この場面では「物に移り残った香」(広辞苑)である「残り香」と言うべきでしょう。

 きわどい話で、大変失礼しました。私の最も苦手とするたぐいの話なのです。本当ですよ。

     *

 いずれにせよ、残り香と移り香はいい言葉ですね。

 匂い(におい・匂い・臭い)や香り(かおいり・香り・薫り)は、

・立つ
・消える
・残る
・移る

のいずれかの道をたどるわけです。

 いつか「におい」と「かおる」について書いてみたいと思います。

目移り、二重写し、移り気


 上の続きを引用します。

彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向かい側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明りがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムのぬくみでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指でくまでその鏡はなかったのだった。
(p.8)

 向こう(「向側の座席」)とこちら(島村の目)をつなぐのはガラスを拭く指だと書かれています。それはガラスが鏡と化しているからだと、やや過剰なほど説明的な記述になっています。

 ここで注目したいのが、「水蒸気で濡れている」鏡と化したガラスを指で拭くという描写です。

・このだけは女の感触で今も濡ぬれていて、(駒子)
・ふとそので窓ガラスに線を引くと(葉子)
・スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、で拭くまで(葉子)

 このように「指」という文字が執拗にくり返されています。「指」が変奏されているのですが、その対象が「駒子⇒葉子⇒葉子」と変化しています。

 移っているのです。移り気ということです。

 大切なのはっていながら「二重し」(後述します)でもある点です。「移る」と「写る・映る」が合体し、移と写・映のさかいが不明になっています。

     *

(忘れるところでしたが、この文章は「「客」小説を求めて」という連載の記事なのです。

 汽車の乗「客」であり、汽車の中にいて一方的に見るだけのいわば観「客」でもある島村が、駒子と葉子にとって、「客」(顧「客」・おとくいの「客」)であることを思いだしましょう。まもなく島村は旅館の長期宿泊「客」にもなります。やがてこの雪国をあちこち歩き回っての観光「客」にもなります。

 客とは、人と人のあいだにあって演じる役割なのです。

 演じながら客はうつろっていく、つまり、ずれていくものでもあると言えるでしょう。客から客へと。)

     *

 話を二人の女性に戻します。

 川端の小説では、ある女性があらわれると、それに重なるというか、かぶる形で、もう一人の女性がいる場合が多い気がします。ある意味二股です。

 この小説では、駒子と葉子ですが、駒子に会いに行く目的で乗った汽車に葉子がいるという冒頭の設定からして、すでに二股を予告しています。

 その葉子が闇を背景に鏡と化した汽車の窓にうつって、二重写しになる美しいシーンがありますが、写し(コピー・片割れ)のイメージが、この作品の基調をなしているようです。

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つがけ合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。ことに娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふるえたほどだった。
(p.10)

 この段落も説明口調に感じられますが、レトリックの面で興味深い部分があります。

・「鏡の底には夕景色が流れていて」:

 窓ガラスは移動中の汽車のものであり、ここには「写る」だけでなく、「移る」もあることに気づかされます。単なる景色ではなく、横へ後ろへと「流れてい」る、つまり移り動いている景色なのです。作者は「映す・映る」ではなく「写す・写る」と表記していますが、この汽車の場面には「写・映」だけでなく「移」があることは、注目していいでしょう。汽車のうごき・うつる(移動)という運動の中で、鏡と化したガラスの中での二人の人物のうつる・うごき(映写)が見られる。モーターで駆動する映写機にかけられたフィルムが光を受けて流れ駆ける。比喩を駆使した「二重写し」の「象徴」的な景色なのです。

 さきほども書きましたが、「二重写し」とは「写し」である以上、どちらでもあり、どちらでもないのです。うつつとは異質な世界(それが「世界」と呼べるなら)にあるからです。

     *

 うつる、写・映る(窓ガラス)、映・写る(映画)、移・動る(汽車)
 映写機、移動機

 怪しげで妙な日本語の表記になっていることをお許しください。言い訳をさせてもらいます。

 象徴とは、本来かかわりのない別のもの同士が同時に同居することなのであり、同じに見えながら別個のものなのです。

 象徴は分析的な散文では優遇されていないもようです。象徴とは広義の歌と物語で多用されていたレトリックなのです。今述べたことは寓意や擬人や比喩についても言えると思います。

 その意味で、『雪国』の冒頭の文章はすぐれて詩的な散文だとも言えるでしょう。

     *

 ここで、映画について考えてみます。

 光源、フィルム、レンズ、銀幕――。フィルムとレンズをとおった「かげ」が銀幕にさえぎられてうつる。詳しく言うと、「ひかり」がフィルムとレンズによって「さえぎられる」、フィルムとレンズを「とおる・ふるいにかけられる」、銀幕によって「さえぎられる」、銀幕に「ひかり」と「かげ」が模様を織り成しながら「うつる」わけです。

 映画においては、フィルムとレンズもスクリーンの役目を果たしていることがわかります。目で言えば、うつす網膜だけでなく、「さえぎりつつふるいにかけてとおす」レンズ(角膜と水晶体)もまたスクリーンだということでしょうか。そうなら意識もまだらでまばらなスクリーンだと言えそうです。

     *

 話を「鏡と写し」に戻します。

 ストーリーはかなり違いますが、『古都』では鏡と写しのイメージが頂点に達している気がします。

     *

 いま述べたイメージについて『雪国』を論じ、『古都』にも触れた「夢のからくり」という記事があります。このアカウントをつくって初めて投稿した文章です。よろしければ、お読みください。

主体、客体、身体


 この作品の冒頭における指の象徴性と役割には看過できないものがあります。

 指は伸びた目であり、尖った目であるとも言えそうです。触角(アンテナ)に似ています。

 指は主体と客体と身体をつなぐ、指令・司令・使令の役割をつとめているとも言えそうです。

 一方で、そのありようは分けることが難しく、指は主であり客であり身でもあると言いたくなります。

 いずれにせよ、指が「うつす・移す・写す・映す」と「とる・取る・捕る・執る・撮る・録る」と親和性のあるのは日々誰もが体感していることなのではないでしょうか。

 指に移った匂いにうながされて島村が移動(移る)――。この展開に動物や植物のいとなみを感じないではいられません。

     *

 目を閉じる、あるいは真っ暗な闇のなかで、一時的に視覚を失ったときに人が頼るのは、聴覚、嗅覚、触覚、味覚なのでしょうが、そのなかで最も外界との接触に直接的にかかわっているのは触覚であり、とりわけ指の感覚ではないでしょうか。

・on(接触・密着):触覚
・off(隔たり):視覚、聴覚、嗅覚、味覚

 指は、なかでも人差指(食指)は別格なのです。

     *

 主体、客体、身体という「ことわけ」が曖昧になる「点」に指があるような気がしてなりません。きっと「点」であり「線」であり「面」でもあるのです。

 ここであえて「ことわけ」するなら、点は指(なでる)、線は目(たどる)、面は皮膚(ひろげる・ひろがる)だという気もします。

     *

 指が点であるというのは、触覚には基本的に「いまここ」しかないからにほかなりません。たとえ、撫でたり、まさぐったりしても、「いまここ」の絶え間のない更新なのです。

 それに対し、目は線です。目は、線をたどり、線としてたどることで、最終的にはおそらく面としての俯瞰を目指します。

 面である皮膚となると、それが感じるのは全身的なまぼろし感とか気配(空気・雰囲気)に近い気がします。隔たりと限界が前提にあるために観念的でもあります。人がパソコンやスマホの画面を相手に目指す俯瞰願望や世界との一体感に相通じるものを感じます。

「長い」から「長い」へ

     

 その信号所を通るころには、もう窓はただの闇であった。もう窓はただ闇であった。向うに風景の流れが消えると鏡の魅力も失われてしまった。葉子の美しい顔はやはり写っていたけれども、その温かいしぐさにかかわらず、島村は彼女のうちになにか澄んだ冷たさを新しく見つけて、鏡の曇って来るのをぬぐおうともしなかった。
(p.12)

「鏡の曇って来るのを拭おうともしなかった。」:ここでは、もう指という言葉さえ出てきません。

「美しい顔」、「温かいしぐさ」 ⇒ 「澄んだ冷たさ」

 この移り(展開)は伏線でしょう。この場面と章が終わるという前触れです。ここから外へと出ていくのです。

     *

 この章の最後のセンテンスと、冒頭のセンテンスをくらべてみましょう。

 やがて闇から現われて来た長い貨物列車が二人の姿を隠した。
(p12)

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。(p.5)」と共通して「長い」と「闇」・「夜」が見えます。

長いトンネルを抜けると雪国」⇒「夜の底が白くなった」(雪・白・ON)
  ↓
「闇から現われて来た長い貨物列車」⇒「二人の姿を隠した」(闇・隠・OFF)

「長い」という同一の語が、まったく異なったイメージと世界をつないでいます。

 おもむきと長さは異なりますが、Longtemps(英語では「For a long time」)で始まり、le Temps (英語では「Time」)で終わる、マルセル・プルースト作『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』という、時(temps)という言葉をふくむタイトルを持つ長い長い小説を思いだすなと言われても無理です。

     *

 川端康成とマルセル・プルーストと言えば、大学に入った年に、フランスの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)――この言葉が発せられた時には教室のあちこちで「わあ」とか「すごい」という声が上がりました――への留学を終えたばかりの若い先生の授業を受けました。

 語学としてのフランス語初級の授業です(非常勤講師として教えていらしたのです)。いつだったか、余談のなかで、川端とプルーストの文体の比較をフランスで研究していたと先生がおっしゃったのですけど、その刺激的な話を私は興味津々で聴いていました。

 で、話の結論ですが、日本語とフランス語という異なる言語で書かれているからという理由だけでなく、文章の流れというか、文章の組み立て方がまったく違っているということだったと記憶しています。

 確か、川端の文章を、随所の流れが決して一様ではない川の流れに、そして、プルーストの文章を、大枝と小枝を張って伸びる木の構造に、たとえていらっしゃいました。その時には、ピンと来なかったのですが、今になって考えるとその通りだと思います。

 最近、学生時代のこうした記憶が断片的にふいにやってきます。

 うろ覚えだったお名前をようやく思いだしました。大久保喬樹(おおくぼたかき)先生です。端正な顔立ちのお方でした。

 話を戻します。

     *

「やがて闇から現れて来た長い貨物列車が二人の姿を隠した。」というセンテンスのあと、一行の空白があり、そこから物語が始動します。

 いま、あえて「物語」という言葉をつかいましたが、物語が始まる前には何があったのでしょう? この作品の冒頭には何が書かれていたのでしょう?

 ひょっとすると「うた」とか詩なのかもしれません。濡れたガラスに何が映っているかは、見る人によって異なるでしょう。

 見る人が観客という名の客であることは間違いないと思われます。うつろう客です。

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