古参問題としての「哲学を名乗るな」シリーズ――入口を閉じるな、名乗るならリングに立て

All eyes on 古参問題.


1. 小椋藍の勝利から、バイク時代を思い出す

2026年6月28日に行われたMotoGP第10戦オランダグランプリで、小椋藍が優勝した。

それ自体は、素直にめでたい。

日本人ライダーが世界最高峰で勝つ。しかも、いまのMotoGPで勝つ。それは、バイクに少しでも関心があった人間なら、かなり大きい出来事である。

だが、それを見てぼくが思い出したのは、自分がバイクに乗っていたころのことだった。

正確に言えば、ただ街乗りをしていたころではない。サーキットに行き始めたころである。モトクロスをやり始めたころである。二輪ジムカーナの練習会に行っていたころである。

ぼくは本格的な競技者ではなかった。

レースや大会に出ることに、強い興味はなかった。チームに入り、シリーズを追い、競技者として上を目指す。その方向には行かなかった。

ぼくは基本的にヒトリストだった。

だが、入口で文句を言っているだけのニュービーでもなかった。

サーキット走行も、モトクロスも、それなりに深く遊んだ。モトクロスでは、川越のオフロードヴィレッジで一通りのジャンプセクションをクリアし、中級クラスで走れる程度にはなっていた。サーキット走行でも、エビスサーキット東コースを1分前半で走っていた。正確な秒数はもう曖昧だが、63秒か65秒くらいだったと思う。体感としてはサーキット走行者の上位1割くらい、自走で年に数回サーキットを走る層まで母集団に含めるなら、上位1%以下と見てもよい水準だった。

実際、Twitter経由で知り合った速いライダーと、何度か一緒に走ったこともある。その人は自走で筑波2000をかなり速いタイムで走るような人だった。エビス東へ一緒に遠征したときには、ぼくが彼のバイクも積んで行った。同じリッターSSで走り、その場ではぼくの方が速かった。

つまり、競技者ではなかったが、ただの初心者でもなかった。

その位置から見ると、趣味や競技の入口にある壁がよく見えた。

ヒトリストにも、ヒトリストなりのつながりはある。当時、Twitterで絡むようになったライダーがいた。彼もモトクロスを始め、モトクロス場で会ったとき、一緒にサグ出しをしたことがある。

サグ出しは、オフロードバイクでは基本的なセッティングである。ライダーが乗った状態でサスペンションがどれだけ沈むかを見る。だが、一人ではやりにくい。誰かに測ってもらう必要がある。

チームに入らなくても、ヒトリスト同士がつながれば、そういうことはできる。

この小さな経験は、いま思うと象徴的だった。

必要なのは、村に入ることではない。

必要な知識と作業にアクセスできることである。

ここでいう「村」とは、単なる仲間集団のことではない。

ある趣味や競技の周囲に形成された、常連、紹介、暗黙知、ローカルな序列、身内の作法、言わなくても分かる前提の束である。

村は、必ずしも悪ではない。

人が集まり、長く続ければ、そこには自然に村ができる。常連ができる。顔見知りができる。暗黙知ができる。道具の扱い、練習の段取り、危ない動き、やってはいけないこと、最初に覚えるべきことが共有される。

それ自体は悪ではない。

問題は、村がその領域の核への入口を握るときである。

2. 二輪ジムカーナは、古参問題の極北だった

ぼくにとって、この構造がいちばん見えやすかったのが、二輪ジムカーナだった。

二輪ジムカーナは、たぶん英語圏ではほとんど一般的な競技ではない。動画を見れば分かる。たとえば、Ramkhana というYouTubeチャンネルは、日本発祥のモータースポーツとして MotoGymkhana の動画を多数公開している。

狭い舗装空間にパイロンを並べ、バイクで細かく旋回し、タイムを競う。低速から中速域での車体操作、フロントの使い方、切り返し、ライン取り、ブレーキング、旋回、加速を極端に煮詰める競技である。日本でこの方向に進化したのは、たぶん空間の狭さとも関係している。

これは、競技としては非常に面白い。

バイクの操作能力を上げるという意味でも、かなり有効である。サーキットのように高速域まで持っていかなくても、車体操作の精度を鍛えられる。モトクロスのようにジャンプや荒れた路面に入らなくても、旋回と切り返しを煮詰められる。公道で速い気になるより、はるかに健全である。

だが、入口が厳しい。

理由は単純で、練習場所と練習時間が有限資源だからである。

二輪ジムカーナは、広い舗装空間が必要になる。パイロンを置き、コースを作り、反復練習する必要がある。公道ではできない。駐車場を勝手に使うわけにもいかない。安全管理も必要になる。騒音や近隣対応もある。つまり、練習環境そのものが希少資源である。

その希少資源にアクセスするために、チーム練習会、紹介、常連関係、暗黙知が絡んでくる。

ここで古参問題が発生する。

もちろん、練習会には安全管理が必要である。初心者が危ない走りをすれば事故になる。バイクは重い。転べば怪我をする。人にぶつかれば重大事故になる。だから、参加条件やルールがあること自体は当然である。

問題は、安全や競技性に必要なルールと、村の作法が混ざることである。

どこに行けば練習できるのか。

どうすれば参加できるのか。

誰に声をかければいいのか。

最初に何を覚えればいいのか。

どのくらいの技量なら参加していいのか。

どの車両で、どの装備で、どういう段取りで行けばいいのか。

本来なら、こういう情報は外から見えるべきである。

もちろん、全部をオープンにする必要はない。安全管理上、参加人数や経験を制限する必要はある。だが、それでも入口は明示できる。

ところが、入口が村に寄ると、話が変わる。

知っている人だけが知っている。誘われた人だけが入れる。常連の中で情報が回る。初心者はどこまで入っていいのか分からない。大会はある。動画もある。速い人もいる。だが、そこへ至る練習経路が閉じている。

これは、形式上は開かれているが、実質的には閉じている状態である。

大会にエントリーできるから開かれている、という話ではない。

競技は、大会だけでは成立しない。

上達するためには、練習が必要である。練習するためには、場所が必要である。場所に入るためには、情報が必要である。情報にアクセスするためには、何らかの接続が必要である。

この接続を村が握ると、入口は閉じる。

ぼくが二輪ジムカーナに感じた違和感は、ここだった。

競技の核は分かる。

バイク操作の精度を競う。狭い空間で、速く、正確に、無駄なく走る。これは分かる。面白い。技術としても価値がある。

だが、その核へ近づくために、なぜ村を通らなければならないのか。

練習したいだけなのに、なぜチーム、紹介、常連、暗黙知、身内の作法に絡め取られなければならないのか。

ここで、古参問題ははっきりする。

古参が悪いのではない。

古参しか持っていない経験はある。速い人は速い。上手い人は上手い。危ない動きも知っている。初心者が何を間違えるかも知っている。

だからこそ、古参は核を開くべきである。

危ないことは危ないと言えばよい。

必要な練習は必要だと言えばよい。

装備が足りないなら足りないと言えばよい。

この技術から始めろと言えばよい。

この段階まではこの練習をしろと言えばよい。

入口を明示すればよい。

だが、村の作法を通過条件にしてはいけない。

それは、競技の核ではない。

3. その他のアンチパターン事例――似た構造は他にも観察できる

二輪ジムカーナは、ぼくにとって中心事例である。

だが、似た構造は他にも観察できる。

このあたりは、AIにも横展開させて確認した。趣味共同体、競技共同体、遊びの共同体、専門知の共同体には、かなり似たアンチパターンがある。

TRPGにもある。

TRPGの核は、ルール理解、合意形成、シナリオ進行、他者とのプレイ、キャラクターの運用、場の安全、楽しさの共同構築である。初心者がルールを知らないことは当然である。だから、最初はルールを説明すればよい。分からないところを補えばよい。セッションの進め方を共有すればよい。

だが、そこに内輪ノリ、過去卓の引用、身内だけが知っている冗談、特定GMの作法、特定コミュニティの空気、古参プレイヤーの序列が絡むと、入口が村になる。

「この卓ではこうだから」
「それは昔からそうだから」
「このノリが分からないなら厳しい」
「そのプレイは浅い」
「このシステムを分かってない」

もちろん、プレイの質はある。合わないプレイもある。場を壊す振る舞いもある。だが、核を教えるのではなく、村の作法を先に要求すると、TRPGは閉じる。

サバゲーにもある。

サバゲーの核は、安全管理、銃口管理、レギュレーション遵守、ヒット判定、フィールドルール、周囲への配慮である。これは厳しくてよい。むしろ厳しくなければ危ない。

だが、装備マウント、常連チームの序列、初心者を試す空気、特定の銃や装備への蔑視、身内で固まる空気は核ではない。

安全管理と古参の快適性は違う。

危ないから止めるのは正しい。

だが、初心者が場に慣れていないことを、訂正ではなく屈辱化するなら、それは古参問題である。

格闘ゲームにもある。

格闘ゲームの核は、コマンド入力、フレーム、確反、立ち回り、対空、起き攻め、コンボ、キャラ対策である。負けた理由がある。通された択がある。ガードすべきところがある。暴れてはいけないところがある。反撃できる技がある。

それを教えればよい。

格闘ゲームは日本ローカルではない。英語圏にもFGC cultureがあり、Evoのような巨大な場もある。日本のゲーセン文化にも、英語圏のarcade / FGC cultureにも、それぞれの古参問題はある。

問題は、強くなるための情報を出すかどうかである。

「ここは確反がある」
「ここは暴れてはいけない」
「この状況は投げと打撃の択」
「このキャラにはこの距離で立て」
「この技は見てから落とせる」

こう言えば、核へ導いている。

だが、「昔はみんなゲーセンで殴られて覚えた」「動画勢は黙れ」「このキャラを使うやつは浅い」「初心者狩りされてからが本番」となると、それは核ではなく村である。

ミニ四駆にもある。

ミニ四駆の核は、レギュレーション、モーター、ギア比、ローラー、ブレーキ、電池、重量、重心、コースアウト対策、コースごとのセッティングである。初心者のマシンが遅いのは当たり前である。飛ぶのも当たり前である。完走しないのも当たり前である。

そこを見て、どこが悪いのか教えればよい。

だが、常連店の空気、初心者マシンへの嘲笑、内輪の改造作法、常連だけが知っているコース攻略、店内序列が前面化すると、入口は閉じる。

フェスやライブハウスにもある。

音楽を聴くこと、現場の安全を守ること、周囲に迷惑をかけないこと、最低限のマナーを理解することは核である。

だが、いつから知っているか、どの箱に通っていたか、どのTシャツを着ているか、どの曲でどう動くか、古参しか知らない合図や身内ノリに乗れるかは、核ではない。

音楽が好きで来た人間が、音楽ではなく古参の空気で裁かれるなら、それは古参問題である。

カメラにもある。

写真の核は、露出、シャッタースピード、絞り、ISO、焦点距離、構図、光、被写体との距離、現像、出力である。機材の知識も必要になる。

だが、機材マウント、メーカー宗派、古いレンズを分かっているか、フィルム経験の有無、撮影会やギャラリーの内輪空気が前面化すると、写真ではなく村になる。

碁会、雀荘、将棋道場にもある。

ゲームの核は、ルール、定石、読み、判断、手筋、場況、相手との対局である。

だが、常連席、暗黙の順番、話しかけ方、初心者への圧、古参の機嫌、負け方の作法、地域の序列が入口を握ると、ゲームではなく村になる。

登山にもある。

登山の核は、体力、技術、読図、天候判断、装備、リスク管理、撤退判断、ルート理解である。危険がある以上、ここは厳しくてよい。

だが、山岳会の序列、昔ながらの根性論、装備への過剰な儀礼、特定の山行スタイルだけを正統とする態度、ソロや新しい道具への一律蔑視は核ではない。

音楽にもある。

演奏の核は、音、リズム、アンサンブル、楽曲理解、身体性、耳、練習である。シーンの核は、音源、ライブ、演奏者、聴衆、場の運営である。

だが、古参ファンの年季、特定レーベルへの忠誠、昔の現場を知っているかどうか、誰とつながっているか、どの界隈の人間かが前に出ると、音楽ではなく村になる。

学問にもある。

学問の核は、読解、文献処理、データ、方法、論証、引用可能性、研究史への接続、反論可能性である。

だが、所属、師弟関係、研究室内序列、学会内の空気、授業内評価の語彙、業界符牒が前面化すると、専門知は村になる。

このように、古参問題は二輪ジムカーナ固有の問題ではない。

二輪ジムカーナは、ぼくにとって最初に強く見えた中心事例である。

しかし、そこに見えた構造は、領域を横断している。

核はある。

だが、その核の周囲に村ができる。

やがて、村の作法が核のふりをする。

新規参入者は、核を学ぶ前に、村を通らされる。

これが古参問題である。

4. 古参問題のアンチパターン――村の作法が核を偽装する

ここまでを一般化する。

古参問題とは、経験者がいることではない。

古参問題とは、古い人が詳しいことでもない。

古参問題とは、初心者に注意することでもない。

古参問題とは、基準を置くことでもない。

古参問題とは、村の作法を核に偽装することである。

この定義で見ると、何が問題なのかがはっきりする。

第一に、有限資源の囲い込みである。

練習場所、参加枠、情報、道具、文献、研究室、推薦、査読、発表機会、仕事、引用可能性、評価。こうした有限資源を、古参共同体が握る。

もちろん、有限資源には管理が必要である。場所には定員がある。安全管理もある。研究室にも収容能力がある。査読や推薦にも基準がある。

問題は、管理が透明でないときである。

どこが入口なのか。何を満たせば入れるのか。何が危ないのか。どの水準が必要なのか。何を学べばよいのか。誰が判断しているのか。

ここが見えないと、資源管理は村の支配になる。

第二に、入ってから学べばよいことを、入る前の資格にすることである。

初心者は、最初から分からない。分からないから入ってくる。

それなのに、「それくらい知っていて当然」「自分で調べろ」「空気を読め」「その程度なら来るな」となると、学習経路が閉じる。

もちろん、すべてを手取り足取り教える必要はない。

最低限の準備は必要である。危険を伴う領域なら、入口前に要求される知識や装備もある。学問にも前提知識はある。

だが、本来は入ってから学ぶべきことを、入る前から知っていて当然にすると、入口は村になる。

第三に、核と村の作法の混同である。

安全管理は核である。

競技性は核である。

読解は核である。

論証は核である。

検証可能性は核である。

反論可能性は核である。

だが、常連ノリ、所属、師弟関係、教室内評価、業界符牒、身内の冗談、研究室内の序列は核ではない。

古参問題は、ここで起きる。

村の作法が、核のふりをする。

第四に、品質・安全・専門性を口実にした古参の快適性防衛である。

安全は必要である。

品質も必要である。

専門性も必要である。

ここを否定すると、空き地になる。

だが、安全、品質、専門性は、古参の快適性を守る口実にもなる。

初心者が来ると面倒である。説明しなければならない。質問に答えなければならない。失敗を訂正しなければならない。場が乱れる。既存の空気が変わる。

それを「安全のため」「品質のため」「専門性のため」と言い換えると、古参の快適性が核のふりをする。

第五に、暗黙知の非明示化である。

暗黙知はある。

完全に消すことはできない。身体で覚えることもある。場に入らないと分からないこともある。経験しないと分からないこともある。

だが、暗黙知を暗黙知のまま残し、「分からないやつが悪い」にすると、入口は閉じる。

本来は、できる限り明示するべきである。

ここまでは説明できる。

ここから先は経験が必要である。

ここは安全に関わるから事前に覚えろ。

ここは最初は分からなくてよい。

ここを区別すればよい。

第六に、新規のミスの屈辱化である。

初心者は間違える。

異分野から来た人間も間違える。

AIを使えば、さらに間違える。

だから訂正すればよい。

「それは違う。理由はこれだ」
「その引用は使えない。理由はこれだ」
「その手順は危ない。こう直せ」
「その概念は広げすぎている。範囲を限定しろ」

これは訂正である。

だが、「そんなことも知らないのか」「学部生レベルだ」「自分の授業なら落とす」「向いていない」「恥ずかしい」となると、それは訂正ではない。

屈辱化である。

屈辱化は、核を開かない。

序列を見せるだけである。

第七に、身分・所属・経歴による切断である。

誰が言っているかは、完全には無視できない。

専門性はある。実績もある。所属も文脈になる。学部生の文章と査読済み研究書は同じではない。専門家と素人の発言は同じ重みではない。

だが、最終的に問うべきなのは中身である。

その主張は何を言っているのか。

どこが間違っているのか。

どの根拠が弱いのか。

どの引用が使えないのか。

どの概念が暴走しているのか。

どの制度、身体、責任、因果を飛ばしているのか。

ここを見ずに、身分で切るなら、それは専門知ではなく村の序列である。

この七つが、古参問題の基本的なアンチパターンである。

5. 古参問題チェックリスト

以上を、自己検品用のチェックリストにすると、次のようになる。

  1. 有限資源へのアクセスを、古参共同体が握っていないか。

  2. 入ってから学べばよいことを、入る前の資格にしていないか。

  3. 領域の核と、村の作法を混同していないか。

  4. 安全・品質・競技性に必要なルールと、古参の快適性を混同していないか。

  5. 暗黙知を明示せず、「分からないやつが悪い」にしていないか。

  6. 新規のミスを、訂正ではなく屈辱化していないか。

  7. 相手の中身ではなく、身分・所属・経歴・作法で切っていないか。

これは、趣味共同体のチェックリストである。

だが、それだけではない。

専門知のチェックリストでもある。

むしろ、専門知にこそ、そのまま使える。

人文学には、専門性が必要である。原書を読むこと。古典を読むこと。史料を読むこと。翻訳すること。注釈すること。概念史を追うこと。研究史を整理すること。制度や宗教や思想や文学を長い時間軸で読むこと。

それらは必要である。

切ればいいという話ではない。

だが、その専門性が、村の作法に変わることがある。

どこの大学か。

どの研究室か。

誰の弟子か。

どの学会か。

どの雑誌か。

どの原語が読めるか。

どの専門用語を使えるか。

どの文献を当然のように知っているか。

どの業界内冗談が通じるか。

それらは、専門知の周囲に自然に発生する。

完全に消すことはできない。

だが、それらは核ではない。

核は、概念である。読解である。論証である。反論可能性である。文献処理である。研究史への接続である。制度、身体、責任、歴史への接続である。他者が検証し、継承し、再利用できる形にすることである。

専門性が、この核を支えるならよい。

しかし、専門性の周囲にできた村の作法が、核への入口を握るなら、それは古参問題である。

人文学の古参問題である。

では、このチェックリストで、ぼく自身の「哲学を名乗るな」シリーズを検品するとどうなるのか。

ここから先は、人文学批判を逆からやり直す作業である。

6. 自己検品――「哲学を名乗るな」シリーズは古参仕草なのか

ここで、ぼく自身をチェックリストにかける。

ぼくは「哲学を名乗るな」シリーズを書いた。

タイトルだけ見ると、入口を閉じているように見えるかもしれない。

では、古参仕草なのか。

結論から言えば、セーフである。

第一に、有限資源へのアクセスを握っていない。

ぼくは、哲学を名乗るために、大学院、学会、専門誌、研究室、指導教員、学位、所属へのアクセスを要求していない。哲学村への入村を求めていない。

第二に、入ってから学べばよいことを、入る前の資格にしていない。

「哲学史を全部読んでから来い」とは言っていない。「原語で全部読め」とも言っていない。むしろ、ぼく自身が、すべての哲学者を読み込んでいるわけではないと明示している。

ただし、哲学を名乗るなら、自分の問いがどの履歴に接続するのかは考えろ、と言っている。これは入村資格ではなく、看板使用の責任である。

第三に、核と村の作法を混同していない。

ぼくが要求している核は、所属でも、師弟関係でも、業界符牒でもない。概念を定義すること。反論可能にすること。歴史的な問いへ接続すること。制度、身体、責任へ接続すること。他者が使える形にすること。

これは、村の作法ではない。

第四に、安全・品質・専門性を口実に、古参の快適性を守っていない。

「哲学を名乗るな」シリーズで守っているのは、哲学学者の快適性ではない。ぼくは哲学学者でもない。大学制度の中にいるわけでもない。守っているのは、哲学という看板の最低限の競技性である。

人生訓を人生訓として語ることは自由である。市民が対話することも自由である。AIと対話することも自由である。高校生が自分の悩みを書くことも自由である。

だが、それを哲学と呼ぶなら、概念を作れ。反論可能な場所に出せ。そこを言っている。

第五に、暗黙知を明示せず、「分からないやつが悪い」にしていない。

むしろ逆である。

「哲学を名乗るな」シリーズでは、何が哲学で、何が哲学ではないのかを、PFP、スタイルウォーズ、スピる、AI対話哲学、人生訓、市民哲学といった形で明示しようとしている。

暗黙の哲学村の空気ではなく、どこで言葉が壊されるのか、どこで概念が反論可能になるのかを見える形にしようとしている。

第六に、新規のミスを、訂正ではなく屈辱化していない。

ここは一番厳しく検品する必要がある。

ぼくは、高校生の「私を見て」を批判した。だが、高校生個人を責めているのではない。青春の文章として書くことは自然だと認めている。問題は、それを大人が「哲学」として持ち上げることである。

ぼくは、市民哲学を批判した。だが、市民が語り合うことを否定していない。安全な対話にも意味はある。ただ、それを哲学と呼ぶなと言っている。

ぼくは、AI対話哲学を批判した。だが、AIを使うこと自体は否定していない。ぼく自身が使っている。問題は、AIが哲学者名を貼ってくれたことをもって、哲学した気になることである。

つまり、初心者や高校生や市民やAI利用者の存在を屈辱化していない。

線を引いているのは、名乗りである。

第七に、相手の中身ではなく、身分・所属・経歴・作法で切っていない。

「哲学を名乗るな」シリーズでは、相手が大学教授か、院生か、市民か、高校生か、AI利用者かで切っていない。問うているのは、その言葉が概念として機能しているか、反論可能か、制度や身体や責任へ接続しているかである。

したがって、チェックリスト上の判定は明確である。

「哲学を名乗るな」シリーズは、古参仕草ではない。

ぼくは、哲学村に入れと言っていない。

ぼくが言っているのは、名乗るなら壊される場所に出てこい、である。

入口を閉じているのではない。

入口と看板を分けている。

そして、看板を使うならリングに立てと言っている。

7. では、ぼくは何をしているのか――実践としての哲学

では、ぼく自身は何をしているのか。

大文字の哲学を再建しているつもりなのか。

違う。

ぼくがやっているのは、実践としての哲学である。

たとえば、「スピるとは何か――批判語彙としての『スピ』」がそうである。

「スピる」という言葉は、もともとは若者語であり、普通に使えば、占い、引き寄せ、波動、宇宙、前世、魂のようなものへ寄っていくことを揶揄する言葉である。

だが、ぼくはそれを、単なる悪口として使わない。

定義する。

スピるとは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばして、抽象的で大きな意味や理念に逃げることである。

そのうえで、チェックリストにする。

概念を実体化していないか。

汎化が暴走していないか。

レイヤーを混同していないか。

制度・身体・責任・因果を飛ばしていないか。

その批判語彙自身に、同じ検査をかけられるか。

こうして、「スピ」は単なる罵倒語ではなくなる。

検品道具になる。

そして、その道具を使う。

八百万の神々はスピっていない。『トイレの神様』はドスピである。ニーチェは非スピである。後期ハイデガーはスピっている。EQは組織人事におけるスピである。心理的安全性の誤読もスピる。コスモポリタニズムも、日本共和制論も、天皇制をめぐる右と左の誤読も、この語彙で検品できる。

これは、大文字の哲学ではない。

世界全体を一つの体系で裁くつもりはない。

だが、単なる人生訓でもない。自己開示でもない。安全な対話でもない。AIに哲学者名を貼ってもらっただけの言葉でもない。

俗語を拾い、定義し、検品手続きにし、自分自身にも適用可能にし、複数の現実領域へ接続する。

これが、ぼくの言う実践としての哲学である。

哲学を名乗るなら、この程度のリングは作れ。

ぼくは、そう言っている。

実践としての哲学とは、現実の言葉を拾い、定義し、検品手続きにし、反論可能にし、他の領域へ接続し、再利用可能な批判語彙にすることである。

経験を、愚痴のまま終わらせない。

言葉を、罵倒のまま終わらせない。

概念を、飾りのまま終わらせない。

使える道具にする。

それが、実践としての哲学である。

今回の古参問題チェックリストも、同じ形式である。

趣味共同体の違和感から出発し、古参問題を、単なる老害批判ではなく、「村の作法を核に偽装すること」として定義する。そして、その定義をチェックリストにし、専門知にも適用する。

これも、実践としての哲学である。

そして、ここから人文学の問題に入る。

8. アカハラは、専門知における古参問題である

アカハラも、基本的には古参問題である。

もちろん、アカハラは制度的な問題である。大学、研究室、指導教員、院生、単位、進学、学位、推薦、就職、研究テーマ、研究費、業界内評判。そこには明確な上下関係と評価権限がある。

だから、趣味共同体の古参問題と同じだと言い切って終わらせるわけにはいかない。

だが、構造はかなり近い。

アカハラとは、専門知の核を示す代わりに、評価権力で相手を支配することである。

研究室、師弟関係、評価権限、進学、推薦、就職、研究テーマ、文献リスト、業界内評判。こうした有限資源を、古参側が握っている。これは二輪ジムカーナの練習場所と練習会に似ている。

練習場所とノウハウを握られれば、競技に入れない。

研究室と評価権限を握られれば、学問に入れない。

しかも、人文学では、核が見えにくい。

自然科学なら、少なくとも実験、データ、再現性、手法、成果物といった核を外部化しやすい。もちろん、自然科学にもアカハラはある。実験室にも、研究室にも、ボス支配にも、査読にも、業界内政治にも、いくらでも問題はある。

だが、何が問われているのかは、比較的見えやすい。

人文学ではそうはいかない。

読解力、文献処理、語学、概念史、研究史、解釈の妥当性、問いの立て方、文体、引用の厚み。どれも重要である。だが、外部からは見えにくい。

だから、その見えにくさに乗じて、専門家は簡単に門番化する。

「お前は分かっていない」
「それは学部生レベルだ」
「自分の授業なら落とす」
「その文献は価値がない」

そう言うことはできる。

だが、そのとき本当に中身を見ているのか。

読解のどこが弱いのか。引用のどこが不十分なのか。先行研究との関係で何が足りないのか。議論上、その文献はなぜ使えないのか。そこを示さず、身分や授業内評価の語彙で切るなら、それは学問的批判ではない。

アカハラ的な古参仕草である。

この話は、さっきの七項目で十分に検品できる。

アカハラは、有限資源へのアクセスを古参側が握る。だから一番目に触れる。

アカハラは、学問の核と研究室の村の作法を混同する。だから三番目に触れる。

アカハラは、暗黙知を明示せず、「分からないやつが悪い」にする。だから五番目に触れる。

アカハラは、新規のミスを訂正ではなく屈辱化する。だから六番目に触れる。

アカハラは、相手の中身ではなく、身分、所属、経歴、作法で切る。だから七番目に触れる。

つまり、アカハラは、古参問題の強権化・制度化された形である。

ここで、人文学批判は逆からやり直される。

人文学を外から雑に叩くのではない。

専門性は必要だと認める。

読解も必要である。文献処理も必要である。語学も必要である。研究史も必要である。専門家も必要である。

だが、その専門性を踏める形にしているのか。

外部者が検証できる形にしているのか。

どこが核で、どこからが村の作法なのかを示しているのか。

それを示さず、専門性を養生された芝として守るなら、それは天然芝の人文学である。

踏めない。検証できない。外部者は怒られる。だが、どこが核なのかは示されない。

この天然芝の人文学が、共同体内で強権化するとアカハラになる。

そして、その発話形式は、公共空間にも漏れ出す。

それが次の話である。

9. ダンテ研究者はアウトである

この観点から見ると、ダンテ研究者の原基晶氏の件は、かなり悪い事例である。

以前、ぼくは「天然芝の人文学――専門性は誰のために養生されるのか」で、この件を叩いた。

今回、それを古参問題として再定義する。

原氏は、X上で Tsuyoshi Miyakawa 氏、すなわち宮川剛氏と応答していた。

https://x.com/motoakihara/status/2048014092884185565


宮川氏は、神経科学者であり、藤田医科大学教授であり、日本学術会議連携会員であり、学術誌編集長クラスの理系研究者である。少なくとも、一般人ではない。異分野の一流研究者である。

宮川氏は、マスプロ講義後に学生一人ひとりの広範な質問へ人間教員が延々対応することは基本的に不可能であり、AIには人間の先生を超える部分がある、という趣旨でChatGPTとの会話例を提示していた。

それに対して原氏は、宮川氏が提示したChatGPT回答内のダンテ関連文献・研究例、つまり Carlo Danelon 氏の文章について、「ただの学部生」であり、専攻はイタリア現代文学だと指摘した。そのうえで、だから学生にAIを使わないよう指導しているのだと述べ、さらに「先生が私の学部の授業でこれを提出された場合、落とします」と返した。

つまり、この発言は、異分野の一流研究者がAI教育利用の可能性を示すために提示した材料を、ダンテ研究者が自分の授業に提出されたレポートのように採点する形式へ引き込んだものである。

AIが怪しい研究例を、それらしく引用することは問題である。

そこは批判されて当然である。

AIが、学部生の文章や専門外に近い文献を、あたかも強い研究例のように提示するなら、それは危ない。学生にAI出力をそのまま使わせるな、という指導にも、一定の正当性はある。

だが、専門家が公共空間でやるべきことは、そこで終わることではない。

その論文の読解はどこが浅いのか。

引用可能性はどこで落ちるのか。

先行研究との関係で何が足りないのか。

ダンテ本文のどの箇所と合わないのか。

議論上、その文献はなぜ使えないのか。

AIはなぜその文献を誤って重く扱ったのか。

どのような文献なら、この問いに対して使えるのか。

そこを示すなら、それは専門性の公共的運用である。

だが、「ただの学部生」「自分の授業なら落とす」という方向で切るなら、それは研究上の批判ではない。

教室内の評価権力を、公共空間へ持ち出している。

ここで原氏は、AI批判としての正当な入口を持っていた。

しかし、その入口から、専門知の核を見せる方向へ進まなかった。

文献の中身、引用可能性、議論上の有効性、ダンテ研究上の位置づけを、外部者にも検証可能な形で示さなかった。

代わりに見せたのは、採点者の位置である。

「私の授業なら落とす」。

これは、核の提示ではない。

村の評価権力の提示である。

人文学では、核が見えにくい。

ダンテ研究の核は、本文読解、語学、注釈史、神学、哲学、中世思想史、イタリア文学史、受容史、先行研究処理、文献評価にあるのだろう。そこには実在する専門性がある。ぼくはそれを否定していない。

むしろ、専門性があるからこそ、外部に開くときには核を示すべきなのである。

どこが読めていないのか。

どこが研究として弱いのか。

どのレベルの文献なのか。

なぜAIがそれを出したことが問題なのか。

そこを示すべきだった。

ところが、原氏は、核を示さず、教室内の権力形式を示した。

だからアウトである。

これは、単に感じが悪いという話ではない。

第一に、これは天然芝の人文学である。

専門性を、踏める形にしていない。養生された内輪の芝として守っている。外部者が踏むと怒る。だが、どこをどう踏んではいけないのか、どこが核なのか、どう検証すればよいのかを公共的に示さない。

第二に、これは人文学の古参問題である。

ダンテ研究の核、つまり読解、文献評価、先行研究上の位置づけ、引用可能性を示す代わりに、村の評価権力を見せている。核ではなく、村を見せている。

第三に、これはアカハラ的古参仕草である。

「ただの学部生」「授業なら落とす」という語彙は、訂正ではなく、採点者の発話形式である。相手が自分の学生でなくても、その発話形式はアカハラ的である。研究者間の公共的検証を、教室内評価の形へ引き戻しているからである。

したがって、結論は明確である。

原氏の応答は、天然芝の人文学である。

その構造は、人文学の古参問題である。

その発話形式は、アカハラ的古参仕草である。

だから、ダンテ研究者はアウトである。

10. 「斉天大聖」という名乗りの問題

さらに、原氏は「斉天大聖」と名乗っている。

これも問題である。

「斉天大聖」は、単なるハンドルネームではない。

斉天大聖とは、天に斉しい大聖である。孫悟空の称号である。天界の秩序に反抗し、自分は天と並ぶと名乗る不遜な名である。

だが、それだけではない。

「斉天大聖」はセルフボーストである。

しかも、古典教養を使ったセルフボーストである。

ダンテ研究者が、中国古典由来の孫悟空称号を掲げる。そこには、自分はダンテだけでなく、孫悟空の記号も遊べる、という見得がある。不遜さ、越境性、古典教養、反権威のスタイルをまとめて引き受ける名乗りである。

それ自体は、別に悪いとは言わない。

名乗るなら名乗ればよい。

ボーストするならボーストすればよい。

だが、ボーストには実践が必要である。

「斉天大聖」を名乗るなら、その名乗りに見合った態度が必要である。天界に喧嘩を売る不遜さ。権威に従わない態度。古典記号を遊ぶだけのスタイル。制度内の序列に安住しない振る舞い。

ところが、実際に出てきたのが、「私の授業なら落とす」という採点者ポジションである。

これは、セルフボーストとしてダサい。

名乗りは不遜である。

発話は採点者である。

名乗りは孫悟空である。

発話は教授の採点である。

名乗りは天界への反抗である。

発話は教室内の評価権力である。

古典教養で見得を切っておいて、出てきたのは村の評価権力である。

それは、セルフボーストとして成立していない。

ワックである。

反権威の名を掲げながら、やっていることは制度内権威の行使である。

不遜なのではない。

権威主義が、不遜の衣装を着ているだけである。

斉天大聖を名乗るなら、天界に喧嘩を売れ。

教室内の採点者ポジションに退行するな。

専門性を公共に開け。

核を見せろ。

リングを作れ。

できないなら、それは古参仕草である。

できないなら、それは天然芝の人文学である。

できないなら、そのセルフボーストはダサい。

11. 結論――人文学批判を逆からやり直す

今回やっているのは、単なる人文学批判ではない。

「人文学は閉じている」
「専門家は偉そう」
「一般人に分かりにくい」

そういう外部批判ではない。

逆からやり直している。

まず、ぼく自身の「哲学を名乗るな」シリーズを、古参問題チェックリストにかける。

その結果、古参仕草ではないと示す。

なぜか。

哲学村への所属を要求していないからである。

大学院に行けと言っていない。

学会に所属しろと言っていない。

専門誌に載せろと言っていない。

原語が読めないなら黙れと言っていない。

求めているのは、定義、反論可能性、検品手続き、制度・身体・責任・歴史への接続、他者が使える形である。

つまり、核を示している。

次に、同じチェックリストを人文学者側に適用する。

その結果、原基晶氏の応答は落ちる。

なぜか。

専門性の核を公共的に示さず、天然芝の内輪権力として振る舞ったからである。

AIが怪しい文献を出したことを批判する入口は正当だった。

だが、その批判を、専門知の公共的運用へ展開しなかった。

文献の中身を示さなかった。

引用可能性を示さなかった。

研究上の位置づけを示さなかった。

ダンテ本文との関係を示さなかった。

外部者にも検証可能な核を示さなかった。

代わりに、「ただの学部生」「自分の授業なら落とす」という教室内評価の語彙を出した。

それは、専門性ではなく採点者権力である。

核ではなく村である。

人工芝ではなく天然芝である。

公共的批判ではなく、アカハラ的古参仕草である。

さらに、「斉天大聖」という名乗りも、セルフボーストとして失敗している。

反権威を名乗りながら、実践は制度内権威である。

孫悟空を名乗りながら、やっていることは教授の採点である。

古典教養で見得を切っておいて、出てきたのは村の評価権力である。

ワックである。

ここで、人工芝の人文学の意味もはっきりする。

人工芝化とは、専門性を薄めることではない。

天然芝を剥がして、空き地にすることでもない。

専門性を、踏める形に加工することである。

他者が検証できる形にすること。

継承できる形にすること。

再利用できる形にすること。

壊れたら直せる形にすること。

どこが核で、どこからが村の作法なのかを見えるようにすること。

天然芝の人文学は、専門性を養生する。

空き地の人文学は、専門性を捨てる。

人工芝の人文学は、専門性を踏める形にする。

「哲学を名乗るな」シリーズは、天然芝を守れという話ではない。

哲学学者だけが哲学を名乗れると言っているのではない。大学院に行けと言っているのでもない。学会に所属しろと言っているのでもない。原語を読めないなら黙れと言っているのでもない。

だが、空き地の球蹴りを哲学と呼ぶなとは言う。

人生訓を哲学と呼ぶな。

自己開示を哲学と呼ぶな。

安全な対話を哲学と呼ぶな。

AIに哲学者名を貼ってもらうことを哲学と呼ぶな。

探究学習のきれいな問いを哲学と呼ぶな。

それらは、悪ではない。

だが、それだけでは哲学ではない。

入口は開ける。

だが、看板は軽くしない。

この二つを同時にやるために、人工芝が必要である。

最終裁断はこれである。

ぼくの「哲学を名乗るな」シリーズは古参仕草ではない。

むしろ、古参仕草を解体する側である。

原氏の応答は、天然芝の人文学である。

その構造は、人文学の古参問題である。

その発話形式は、アカハラ的古参仕草である。

そのセルフボーストは、ダサい。

したがって、ダンテ研究者はアウトである。

人文学がこのままではまずいのは、まさにこういうところである。

専門性は必要である。

だが、専門性を養生しているだけでは、公共には出られない。

外から踏まれた瞬間に、怒るだけではだめである。

踏める形にしろ。

検証できる形にしろ。

壊せる形にしろ。

直せる形にしろ。

再利用できる形にしろ。

専門知を、人工芝にしろ。

入口を閉じるな。

村の作法を核に偽装するな。

専門性を天然芝にするな。

人工芝のリングを敷け。

古参仕草は捨てろ。

Word up.

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