理念型は自覚された藁人形である――「藁人形論法」という批判停止語について

「それは藁人形論法だ」。
この言葉は、本来ならかなり限定された誤謬を指す。相手の実際の主張を、それより弱い、極端な、あるいは反論しやすい主張へ置き換え、その置き換えた主張を攻撃することで、元の議論を論駁したことにする。英語でいう straw man argument である。
ところが現在、この言葉はずいぶん安く使われている。
自分はそんな言葉を使っていない。
すべての人がそうだとは言っていない。
例外がある。
実際の事情はもっと複雑である。
自分の立場には、まだ多くの留保がある。
そのどれかを指摘すれば、「藁人形論法」と言えてしまうかのようになっている。
だが、批判とは、対象の全文をそのまま複製することではない。何が中心的な主張で、何が周辺的な留保なのかを選び、議論の構造を取り出し、ある程度単純化して提示する。批評でも社会科学でも、対象を一度組み直さなければ、分析は始まらない。
対象を単純化したというだけで批判を無効にできるなら、ほとんどすべての批判が藁人形論法になる。
ここで、現在では少し古びた社会学用語に見える「理念型」を持ち出したい。
理念型と藁人形論法は、一般に思われているほど遠くない。むしろ、構成物としてはかなりよく似ている。
挑発的に言えば、理念型とは、自覚された藁人形である。
1.理念型とは何か
理念型、Idealtypusは、マックス・ヴェーバーの社会科学方法論を代表する概念である。
ヴェーバーによれば、理念型は、現実に存在する多様な現象のうち、ある一つまたは複数の観点を一面的に強調し、現実にはばらばらに、濃淡を伴って存在する特徴を、一つの統一的な思考構成物へ組み上げたものである。
重要なのは、理念型が現実を忠実に写したものではないことだ。
それは平均でもない。多数の事例を集め、その中心値を取った「典型例」でもない。道徳的な意味での理想でもない。ある制度や人物が「こうあるべきだ」と示す規範でもない。
理念型は、現実に存在する特徴を選び、強調し、純化して作られる。
そのため、概念的に純粋な理念型は、経験的現実のどこにもそのままでは存在しない。ヴェーバー自身、それを一種の「ユートピア」と呼んでいる。理念型は、一面的な強調によって作られた思考像であり、現実から切り出された人工物である。
たとえば「合理的官僚制」という理念型を考える。
職務権限が明確に区分され、上下関係が階層化され、決定が文書によって記録され、職員が専門能力に基づいて採用され、個人的な好き嫌いや血縁ではなく一般的規則によって業務が処理される。
現実の官僚組織が、この純粋型に完全に一致することはない。実際の組織には、派閥も情実も属人的判断も非公式な慣行もある。
しかし、それによって合理的官僚制という理念型が反証されたことにはならない。
理念型は「現実の官僚制はすべてこの通りである」という記述ではないからだ。むしろ、現実の組織がこの型とどこで一致し、どこで逸脱し、家産制的な関係やカリスマ的支配とどのように混合しているかを分析するための比較項である。
理念型は、現実を分類箱へ押し込むためにあるのではない。
現実との距離を測るためにある。
2.平均的な人間を作るものではない
「理念型」を「典型的な人」と理解すると、かなりの部分を取り逃がす。
理念型は、ある集団に最も多く見られる人物像ではない。実在する人々の共通属性を集計して作った平均像でもない。
たとえばヴェーバーのいう目的合理的行為、価値合理的行為、感情的行為、伝統的行為は、人間を四種類に分類する性格診断ではない。
一人の人間の一つの行為にも、複数の要素が混在しうる。目的に対する手段を計算しながら、特定の価値への信念に従い、習慣にも引きずられ、感情にも動かされる。
理念型は、その複合した行為から、ある原理を純粋に取り出して考えるための道具である。
同じことは、合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配にも当てはまる。
現実の国家や組織を、三つの箱のどれかに入れれば終わるわけではない。どの原理によって命令が正当なものとして受け入れられているのか、それぞれの原理がどのように組み合わされ、どこで衝突しているのかを見る。
理念型は、現実を単純化する。
しかし、その単純化は、現実を単純だと断言するためではない。複雑な現実を、どの原理がどの程度構成しているのか分解して見るために行われる。
3.理念型は反証されるのか
ここで、理念型に「反証可能性」があると言ってよいかは、少し注意が必要になる。
理念型そのものは、経験的仮説ではない。
「合理的官僚制という純粋型が現実に存在する」という命題ではない以上、現実に完全な合理的官僚制が見つからなくても、その理念型が偽になったことにはならない。
したがって、理念型に必要なのは、単純な意味での反証可能性ではない。
必要なのは、経験的現実との比較に開かれていることである。
理念型を置いて現実を調べた結果、その型では重要な違いを捉えられない、別の原理を導入しなければ現象を説明できない、どの事例に当てても同じ結論しか出ない、ということはありうる。その場合、理念型の構成や、それを使って立てた因果仮説を修正しなければならない。
つまり理念型は、それ自体が事実命題として反証されるというより、理念型を用いた分析全体が、現実から抵抗を受ける。
ここを「修正可能性」と呼ぶことはできる。
ただし、個別事例が型から逸脱するたびに、理念型を書き換えるわけではない。逸脱は失敗ではなく、しばしば分析の成果だからである。
理念型は、現実に一致するほど優れているわけではない。
現実との違いを、意味のある形で見えるようにするほど優れている。
もっとも、「これは理念型である」と宣言すれば、どんな単純化でも正当化されるわけではない。
理念型を用いた分析には、少なくとも、その構成目的、特徴の選択根拠、適用範囲を示すことが求められる。型を構成する特徴は、対象となる資料や事例によって根拠づけられていなければならない。具体的事例との一致だけでなく、不一致も記述できなければならない。競合する理念型や、別の因果説明との比較にも開かれていなければならない。
どの事例に適用しても同じ結論になり、反例を示されても「その反論自体がこの型の証明である」と内部へ回収するなら、それは分析装置ではない。
自己封鎖的な寓話である。
理念型の有効性を機械的に判定する単一の基準はない。最終的には、事例との比較、代替モデルとの競争、研究共同体における批判を通じて評価される。
だが、少なくとも、人工的構成物であると自己申告しただけでは理念型にならない。
何を、なぜ、どの資料から構成し、その型によって何が見え、何が見えなくなるのかを示す必要がある。
4.ヴェーバー以後、理念型はどう使われたか
理念型という言葉は、以前ほど社会科学の表面に出てこなくなったように見える。
しかし、理念型が消えたわけではない。別の名前や方法に組み替えられながら、比較社会学、歴史社会学、組織論、福祉国家研究、質的研究、統計的類型分析の中に残っている。
第一に、理念型は比較社会学と歴史社会学の道具として使われてきた。
福祉国家、資本主義、企業統治、家族制度、支配構造などについて、複数の純粋型を作り、各国や各時代の制度がどの型にどの程度近いか、どの型の混合として理解できるかを分析する。
ここでも、現実の国家を一つの型へ完全に一致させることが目的ではない。
むしろ「自由主義型」「保守主義型」「社会民主主義型」といった構成物を置くことで、各国の制度がどの次元では近く、どの次元では外れるかを見る。
第二に、理念型は、科学におけるモデルや理想化の一種として再解釈されてきた。
科学的モデルは、現実のすべてを再現しない。摩擦を無視したり、完全合理的な行為者を仮定したり、複雑な制度を少数の要素へ還元したりする。現実にそのまま存在しない人工的構成物を作り、それと現実を比較する。
この意味では、理念型は社会学だけに孤立した特殊概念ではない。
近年には、理念型の構成を、既存の曖昧な概念を分析目的に適した人工的概念へ置き換える「概念置換」や、概念工学の一種として読む議論もある。理念型は現実の縮小コピーではなく、特定の問いに答えるために意図的に設計された概念装置だという理解である。
第三に、理念型は質的研究の方法として再構成されている。
複数の事例を詳しく読み、それぞれの事例構造を再構成し、共通する特徴をまとめ、複数の純粋型を作り、各事例をその型との関係で記述する。理念型分析を、再現可能な手順を備えた質的研究法にしようとする試みも進んでいる。
第四に、理念型は統計的方法とも接続されている。
潜在クラス分析やクラスター分析を使えば、観測された回答や行動のパターンから、背後にある複数の類型を推定できる。ファジー集合を使えば、ある事例が一つの型に属するか属さないかを二者択一で決めず、複数の理念型へどの程度近いかを連続的に示すこともできる。
実際、福祉国家研究などでは、理論的に定めた理念型に対する各制度の所属度を数量化するファジー集合理念型分析が用いられている。
ただし、統計的なクラスとヴェーバー的理念型は同じではない。
統計的類型は、データ内に実際に存在する集団構造や頻出パターンを推定する。理念型は、現実に頻出する必要も、純粋な集団として存在する必要もない。
理念型は分析目的から構成される。統計的類型は観測データから抽出される。
両者は接続できるが、同一ではない。
5.理念型は自覚された藁人形である
ここまで来れば、理念型と藁人形論法の距離が、思ったほど遠くないことが分かる。
どちらも複雑な対象から、ある特徴を選択する。
どちらも一部を強調し、他の部分を捨象する。
どちらも現実そのものではない、単純化された構成物を作る。
どちらも、対象となる本人から見れば、「自分はそんなに単純ではない」「そこまで一貫していない」「その特徴だけで自分を説明できない」と言いたくなるものを作る。
その意味で、理念型は自覚された藁人形である。
もちろん、これはヴェーバー自身の定義ではない。
理念型を藁人形論法と同一視するためでもない。
両者が、対象を選択的に再構成するという同じ操作から出発していることを明らかにするための定式である。
理念型も、対象に対して忠実ではない。
むしろ意図的に不忠実である。
一面的に特徴を強調している以上、理念型に対して「現実はもっと複雑だ」と反論しても意味がない。現実より単純になるように作られているからだ。
「そんな純粋な人間はいない」も反論にならない。
最初から、現実には純粋な形で存在しないものとして作られている。
「すべての人がそうではない」も反論にならない。
理念型は、ある集団の全員に共通する属性を列挙したものではない。
したがって、単純化されていること、現実の人物と完全には一致しないこと、それ自体は、藁人形論法の証明にはならない。
6.理念型と藁人形論法を分けるもの
では、理念型と藁人形論法は何によって区別されるのか。
精密さではない。
理念型は精密で、藁人形は雑だ、と考えるのは間違いである。精巧な藁人形はいくらでも作れる。大量の文献を引用し、細部まで論じながら、相手の中心的主張だけを弱い命題へ置き換えることもできる。
引用の量や説明の長さは、藁人形論法でないことを保証しない。
区別は、構成物をどのように扱うかにある。
理念型は、自分が人工的な構成物であることを開示する。
その型を、現実そのものだとは言わない。
具体的な事例と比較し、どこが一致し、どこが違い、何がその違いを生んでいるかを見るために使う。
藁人形論法は、自分が作った構成物を、相手の実際の主張として帰属する。
そして、その構成物を倒すことによって、相手本人の議論を倒したことにする。
だから、最も簡潔にはこう言える。
理念型は、対象との差を露出させる。
藁人形論法は、対象との差を隠す。
理念型にとって、対象との不一致は分析材料である。
藁人形論法にとって、対象との不一致は隠さなければならない欠陥である。
7.「藁人形だ」は反論ではない
この区別に立てば、「藁人形論法だ」と言う側にも立証責任がある。
単に「ぼくはそんな言葉を使っていない」と言うだけでは足りない。
批判者は、本人の文章を一字一句そのまま繰り返す義務を負っていない。別の言葉で要約し、論理構造を取り出し、暗黙の含意を示すことは、批判の通常の作業である。
「例外がある」も、それだけでは足りない。
批判が理念型的な構成を使っているなら、すべての事例が完全に一致しないことは最初から織り込まれている。
「本当はもっと複雑だ」も足りない。
複雑なものから、分析に必要な要素を取り出すことが概念化だからである。
藁人形論法を指摘するなら、少なくとも次のことを示さなければならない。
元の主張のどこが、別の主張へ置き換えられたのか。
何が削除されたために、元の主張より反論しやすくなったのか。
批判された構成物と、実際の論証はどう異なるのか。
その違いによって、批判がなぜ成立しなくなるのか。
そこまで示して、初めて「藁人形論法だ」という批判になる。
藁人形論法の指摘は、対象となる問題について直接反論するものではない。
それは、批判者が相手の議論を適切に再構成したかを争う、「議論についての議論」である。
つまりメタ論証である。
だから「藁人形だ」という名称だけでは足りない。どの再構成が、元の議論をどのように歪めたのかを示さなければ、メタレベルの異議申立てとしても成立しない。
AikinとCasey "Straw Men, Weak Men, and Hollow Men"(Argumentation, 2011)は、藁人形に隣接する型として、weak manとhollow manを区別している。
weak manは、ある陣営に実在する議論のうち、最も弱いものだけを選び、それを陣営全体の代表として攻撃する。
hollow manは、実在する論者や発言を特定せず、「世間ではこう言われている」「反対派はこう主張する」と、都合のよい架空の相手を作る。
これらは通常の藁人形論法とは構成の仕方が異なる。
だが、何を誰の代表的主張とみなしたのかを隠し、自分で選択または構成した弱い対象を、批判すべき相手そのものとして提示する点では共通している。
藁人形論法は、単一の分かりやすい論理形式ではない。
相手の議論をどう選び、どう表象し、どう代表させたかをめぐる問題である。
だからこそ、「藁人形だ」というラベルを貼るだけでは、議論は一歩も進まない。
むしろ「藁人形論法」という言葉自体が、批判への回答を拒むための批判停止語になりうる。
8.理念型を具体的人物へ押しつけるな
ただし、理念型を名乗れば何をしても許されるわけではない。
理念型が藁人形論法へ変質する典型的な地点がある。
ある人物を、特定の理念型に近いと判断したとする。
そのとき、
Aは類型Tに属する。
類型Tは性質Pを持つ。
したがってAはPを持つ。
と推論してはならない。
理念型に組み込まれたすべての特徴が、具体的人物に自動的に帰属するわけではない。
たとえば「古参」という理念型を、「共同体内で既得権を持ち、新規参入者を排除し、自分たちの慣習を普遍化する者」と構成することはできる。
しかし、ある人物を古参と呼んだからといって、その人が実際に新規参入者を排除したことまで証明されたことにはならない。
具体的な人物について何かを断定するなら、具体的な発言や行為を別途示さなければならない。
理念型は、事例を見るための物差しである。
物差しに書かれた属性を、測られる対象へ移植するものではない。
理念型を現実の記述と取り違え、型の内部に埋め込んだ悪徳を具体的人物へ押しつけるなら、それは学術語で正当化された藁人形になる。
9.統計社会学は理念型を不要にしたのか
理念型があまり語られなくなった理由の一つには、社会学の統計化があるのかもしれない。
大量のデータを集め、多変量解析を行い、クラスターや潜在変数を抽出できるなら、研究者があらかじめ理念型を作らなくてもよいように見える。
しかし、統計社会学は理念型が担っていた問題を消していない。
その問題を、変数選択、カテゴリー化、操作化、モデル選択の内部へ移しただけである。
統計モデルには、データを投入する前から、多数の判断が入っている。
何を測るのか。
何を同じカテゴリーに入れるのか。
何を原因とし、何を結果とするのか。
年齢を連続変数として扱うのか、世代へ区分するのか。
どの変数を統制し、どの変数をモデルの外へ置くのか。
どの母集団を対象とし、誰を標本から除外するのか。
観測された値を、何の指標として解釈するのか。
数字は、これらを自分では決めない。
統計ソフトも、現実を自動的に概念化してくれない。
データ駆動型の分析であっても、何を観測項目とするか、いくつのクラスを採用するか、抽出されたクラスをどう命名するか、そのパターンにどのような社会的意味を与えるかは、人間が決める。
統計モデルの背後にも、現実から何を取り出し、何を捨てるかという概念構成がある。
理念型は、その構成を自覚的に行う方法の一つである。
すべての統計モデルが理念型を必要とするわけではない。
しかし、理念型が明らかにした「社会科学の対象は、観点によって構成される」という問題から、統計モデルも逃れられない。
10.数字になる前に、現実はすでに切られている
「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う」という言葉がある。
この言葉はしばしば、都合のよい統計だけを選ぶ、グラフの軸を操作する、相関を因果として語る、といった悪用への警告として理解される。
それは間違っていない。
しかし、問題はさらに前にある。
数字になる以前に、現実はすでに切り取られている。
何を数えるか。
何を一件として扱うか。
誰を分母に入れるか。
どの期間を比較するか。
どのカテゴリーを統合し、どれを分離するか。
どの変数をモデルに入れ、どの変数を無視するか。
この段階で、同じ現実から異なる数字が作られる。
数字そのものが嘘をつくのではない。
数字が答えている問い、その数字を作るために行われた概念構成、数字の外に置かれた現象が隠される。
そして最後に出てきた数値だけが、「現実そのもの」として提示される。
それが数字の客観性を使った欺瞞である。
理念型は、社会科学が現実をそのまま写しているのではなく、一定の観点から対象を選択し、強調し、比較可能な形へ構成していることを明示する。
統計モデルも同じである。
統計社会学は、理念型を不要にしたのではない。
理念型が可視化していた概念構成を、数式と変数の内部に見えにくくした。
11.問題は単純化ではなく、単純化を隠すことである
社会科学も批評も、現実をそのまま複製することはできない。
対象から特徴を選び、強調し、概念として組み直す。
単純化なしに概念は作れない。
概念なしに比較はできない。
比較なしに批判も説明もできない。
したがって、「単純化している」というだけで、その議論を無効にすることはできない。
理念型も藁人形論法も、対象を単純化した構成物を作る。
両者を分けるのは、現実への忠実度ではない。
理念型は、その構成性を自覚し、公開する。
何を強調し、何を捨象したかを示し、現実との不一致を分析へ戻す。
藁人形論法は、その構成性を隠す。
作った人形を相手の実際の主張として提示し、それを攻撃することで相手を倒したことにする。
良い統計モデルも、定義、変数、仮定、誤差を公開する。
悪い統計言説は、数字になる以前の選択を隠し、構成された結果を現実そのものとして提示する。
問題は、現実を構成したことではない。
構成したことを隠すことである。
ただし、開示したと宣言するだけでも足りない。
何をどの目的で構成し、どの資料に基づき、どこまで適用でき、どのような反例や競合説明に開かれているのかを示さなければならない。
自覚とは、心の中で「これは単純化だ」と思っていることではない。
構成の手続きを、他者が検討できる形で示すことである。
だから、理念型と藁人形論法を区別しなければならない。
そして同時に、「藁人形論法」という言葉を、単純化された批判をすべて無効化するための呪文にしてはならない。
理念型は、自覚された藁人形である。
藁人形論法は、自分が人形を作ったことを隠す。
その差は微妙に見える。
だが、その微妙な差を明示することこそ、概念を使うということなのだ。
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