現代思想はどこでスピるのか――ニーチェ以後のスタイルウォーズ【哲学を名乗るな 2/3】
All eyes on…
哲学を名乗るな。
これは「哲学を名乗るな」三部作の第二部である。
第一部では、哲学史をPFPの格闘履歴として見た。哲学史とは、真理が自然に勝ち残った記録ではない。世界、自然、神、魂、国家、善、真理、知識、言語をめぐって、誰がどのリングで、どの技を使い、誰を倒し、誰に倒されたのかという履歴である。哲学史とは、pound for pound の格闘記録である。
だが、ニーチェ以後、そのリングは壊れた。
正確に言えば、小さなリングは残っている。論理、言語、科学、制度、権力、身体、文学、政治、公共性。そうした領域には、それぞれ小さなリングがある。技術戦もある。読解もある。批評もある。制度分析もある。公共的再記述もある。身体的実践もある。
しかし、大文字の哲学が世界全体を裁く統一リングは、もうない。
それがニーチェ以後である。
では、リングが壊れた後に、哲学はどうなったのか。
それが今回の問いである。
ニーチェ以後、哲学はどこへ行ったのか
ニーチェは、道徳、真理、主体、理性、善悪、キリスト教、近代、哲学そのものを、身体、力、ルサンチマン、生、解釈、価値創造の側から切り裂いた。ハイデガーはニーチェを西洋形而上学の完成者として読んだが、ぼくはそこには乗らない。ぼくにとってニーチェは、形而上学を完成させた者ではなく、リングを壊した者である。
ただし、ハイデガーほど哲学史に深く潜った者が、ニーチェを西洋哲学史の決定的地点として読まざるをえなかったことは重要である。ハイデガーは、ニーチェを無視できなかった。
では、ニーチェ以後に残るものは何か。
一つは、分析哲学の道である。世界全体を一つの体系で裁くことはできない。ならば、論理を精密にし、言語を分析し、意味を問い、科学の構造を問い、認識の条件を問い、命題の形を問う。
もう一つは、現象学の道である。世界そのものを大文字で語るのではなく、世界がどのように経験されるのか、意味がどのように構成されるのかを記述する。意識、志向性、身体、他者、時間、世界内存在。
さらに、系譜学の道がある。真理は純粋なものとして降ってくるのではない。知は制度の中で作られる。身体は規律される。狂気、犯罪、性、医療、学校、監獄、国家。そこに知と権力の配置がある。
さらに、脱構築の道がある。意味は正しく宛先へ届くわけではない。署名は揺れる。発話は反復される。宛先はずれる。テクストは制度の中で保存され、翻訳され、引用され、誤読される。
さらに、公共的再記述の道がある。真理という名の最終審級をあきらめる。哲学を、文化の裁判官ではなく、公共的会話の一部として見る。概念を再記述し、語彙を組み替え、連帯の条件を作る。
そして、身体的実践の道がある。大文字の哲学が失効した後、残るのは身体であり、行為であり、変性意識であり、トレーニングであり、極みである。須原一秀の言葉を借りれば、「体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」。この問題は、別稿で扱った須原論に接続する。
つまり、ニーチェ以後の哲学には、いくつかの小さなリングがある。分析哲学のリング。現象学のリング。系譜学のリング。脱構築のリング。公共的再記述のリング。身体的実践のリング。
だが、ここで問題が起きる。
リングが壊れた後、人は簡単にスピる。
スピるとは何か
ぼくは「スピる」という言葉を、単にオカルトやスピリチュアルの意味では使っていない。
スピるとは、概念が現実から浮くことである。
制度から浮く。身体から浮く。責任から浮く。検証可能性から浮く。他者との議論から浮く。歴史的な反論から浮く。
その結果、言葉が大きくなる。
存在。真理。生命。自然。宇宙。身体。共同体。本当の自分。世界とのつながり。生々しい存在証明。
もちろん、こうした言葉を使ってはいけないということではない。問題は、その言葉がどの制度、どの身体、どの責任、どの検証可能な文脈に接続されているのかである。
接続が切れたとき、概念はスピる。
哲学は、スピりやすい。
なぜなら、哲学はもともと大きな言葉を扱ってきたからだ。存在、真理、善、神、魂、国家、自由、主体、世界。哲学の語彙は、最初から危ない。だからこそ、哲学にはリングが必要だった。反論が必要だった。概念史が必要だった。他者との議論が必要だった。
リングが壊れた後、その危険はさらに増す。
大文字の哲学はもう成立しない。だが、大文字の言葉だけは残る。すると、人は壊れたリングの残骸を拾い、それを呪文のように振り回す。
これが現代思想のスピ化である。
後期ハイデガーはどこでスピるのか
ハイデガーは、ニーチェ以後の問題を誰よりも深く見ていた。
だからこそ、ハイデガーは重要である。
だが、ぼくは後期ハイデガーに乗らない。
『存在と時間』には、まだ強い緊張がある。現存在、世界内存在、不安、死、世人、時間性。そこには、日常性、身体、世界、他者、死に接続された分析がある。もちろん、それ自体にも問題はある。だが、少なくともそこには、哲学を現実の経験へ引き戻す力があった。
しかし後期ハイデガーでは、「存在」が大きくなりすぎる。
存在が語る。存在が呼ぶ。技術が世界を覆う。ゲシュテルが人間を支配する。詩人が近づく。思索が待つ。
このあたりで、ぼくには危険信号が点く。
もちろん、後期ハイデガーを丁寧に読む人間は、ここに複雑な意味を見出すだろう。技術論としての深みも、詩と思索の関係も、存在史の構想もあるのだろう。
だが、ぼくはそこに乗らない。
なぜなら、そこで主語が大きくなりすぎるからだ。
存在が語る。技術が命じる。歴史が開示する。世界が立ち現れる。
これはもう、かなりスピに近い。
少なくとも、ぼくのスピ論の基準では危ない。概念が制度、身体、責任、具体的な検証可能性から浮き始めている。日常性との連続が切れ、大文字の主語が人間の上を飛び始めている。
ニーチェが壊したリングの後で、ハイデガーはもう一度、大文字のリングを作ろうとした。
ぼくはそう見る。
そして、そこに失敗を見ている。
ソーカル事件とは何だったのか
現代思想のスピ化を考えるうえで、ソーカル事件は避けられない。
ソーカル事件とは、物理学者アラン・ソーカルが、一九九六年、ポストモダン風の用語と科学・数学の語彙を混ぜたパロディ論文を学術誌に投稿し、それが掲載された事件である。
この事件は、雑に使うと危ない。
ソーカル事件を、「ポストモダンは全部インチキだった」と言うための棍棒にしてはいけない。デリダもフーコーもローティも全部まとめて処刑する道具にしてはいけない。それは雑である。
だが、ソーカル事件が暴いたものは確実にある。
それは、難しい言葉を使っているから思想が深いとは限らない、ということだ。
科学用語。数学用語。量子論。カオス。トポロジー。非線形性。相対性。無限。多様体。
こうした語彙が、元の文脈から切り離され、思想の深さを演出するための呪文として使われるとき、そこにはスピが発生する。
これは、ぼくのスピ論で言えば、レイヤーの混同である。
ある領域で厳密に定義され、手続きと検証可能性を持っている言葉を、別の領域へ持ち込み、その厳密性だけを借りる。だが、元の手続きは持ち込まない。検証可能性も持ち込まない。反論可能性も持ち込まない。ただ、権威だけを借りる。
これは知的な密輸である。
そして、知的な密輸はスピる。
ソーカル事件の意味は、ここにある。
ラカン、ドゥルーズ、そして呪文としての理系語彙
ここで問題になるのが、ラカンやドゥルーズである。
もちろん、ラカンやドゥルーズをすべてインチキとして片づけるつもりはない。そんな雑なことはしない。ラカンには精神分析の文脈があり、ドゥルーズにはベルクソン、スピノザ、ニーチェ、差異、生成変化をめぐる独自の体系がある。
だが、それでも言わなければならない。
ラカンやドゥルーズの受容は、しばしばスピる。
数学や科学の語彙が、呪文のように使われるからである。
ラカンの数式。トポロジー。メビウスの帯。ボロメオの結び目。ドゥルーズの多様体。リゾーム。器官なき身体。強度。生成変化。
これらは、きちんと読めば、それぞれの体系内で意味を持つのだろう。だが、受容の場面では、それらがしばしば、意味を持つ以前に雰囲気を作る。読者は、理解したというより、深そうだと感じる。概念は検証されるのではなく、感応される。
ここで思想はスピる。
ぼくが問題にしているのは、難しい語彙そのものではない。
難しいことを難しく言う必要がある場合はある。精密な概念には精密な語彙が必要である。問題は、言葉の難しさが、概念の検証可能性や反論可能性の代わりになることである。
わからないものを、わからないまま深いと思う。
これは思想ではない。
これはスピである。
デリダは同じなのか
では、デリダも同じなのか。
ぼくは、そうは思わない。
デリダも難しい。デリダも誤読されやすい。デリダも、日本ではかなり雑に消費されてきた。脱構築という言葉が、何でも相対化すること、壊すこと、深そうにすることのように使われたこともある。
だが、それでもデリダを、ラカンやドゥルーズ的なスピ受容と同じ箱に入れるのは雑である。
デリダの主戦場は、科学用語や数学用語の権威を借りることではない。むしろ、テクスト、署名、差異、反復、引用、宛先、制度、境界をめぐる読解の実践である。
『絵葉書』は、その問題圏にある。
誰が誰に宛てて書いたのか。言葉は正しく届くのか。宛先は固定できるのか。署名は本人を保証するのか。哲学史は、正しく伝達された思想の記録なのか。それとも、誤配、遅延、引用、編集、翻訳、制度によって作られた郵便システムなのか。
ここに、デリダの面白さがある。
哲学史は、真理が真理として自然に届いた記録ではない。誰かが書き、誰かが受け取り、誰かが保存し、誰かが編集し、誰かが講義し、誰かが翻訳し、誰かが誤読する。哲学史とは、巨大な郵便制度である。
この見方は、第一部のPFPとしての哲学史と接続する。
PFPのランキングは、試合結果だけで決まるわけではない。団体、興行、判定、映像、記録、評論、伝説、後世の編集で作られる。哲学史も同じである。デリダは、その記録と宛先の制度を疑う。
だから、デリダは使える。
もちろん、デリダもスピりうる。デリダを「すべてはテクストだ」「意味は決まらない」「だから何でもよい」と読むなら、それはスピである。だが、それはデリダそのものというより、デリダ受容のスピ化である。
デリダを読むなら、彼を大文字の思想家として担ぐのではなく、読解、署名、宛先、制度、誤配をめぐる技術として読むべきである。
デリダは、リングの外で浮くための呪文ではない。
リングそのものが、どう記録され、どう届き、どう誤配されるのかを見る技術である。
フーコーはなぜ使えるのか
フーコーもまた、現代思想の中で雑に消費されやすい。
権力。規律。監視。生政治。言説。主体化。
こうした言葉は、いまでは便利な批判語になっている。便利すぎる。何でも「権力」で説明できるように見える。何でも「言説」で片づけられるように見える。
だから、フーコーもスピりうる。
だが、フーコーには、まだ地面がある。
それは制度である。
監獄、病院、学校、軍隊、精神医学、性、人口、国家。フーコーの権力論は、単に「権力はどこにでもある」というポエムではない。権力が、身体をどう配置し、知をどう作り、主体をどう生産するかを見るための制度分析である。
ここが強い。
フーコーの権力論を本気で受け入れるなら、哲学史もまた権力ゲームであると言わざるをえない。どの問いが残るか。どの問いが消えるか。誰が大学で読まれるか。誰が教科書に入るか。誰が翻訳されるか。誰が研究費を得るか。誰が公共的発言権を持つか。
それは、真理だけでは決まらない。
だが、だからこそ、問いが無効になるわけではない。むしろ、どのような制度の中で真理が真理として扱われるのかを問う必要がある。
ここでフーコーは使える。
フーコーは、哲学を大文字の真理から制度へ引きずり下ろす。これはスピではない。概念を制度へ接続する作業だからである。
ただし、フーコーを「全部権力だから全部同じ」と読むなら、それはスピである。
フーコーの強さは、権力という言葉の大きさではない。具体的な制度、身体、知の編成を読むところにある。
ローティは哲学を降ろした
ローティも重要である。
ローティは、哲学を最高審級として守ろうとしない。真理の鏡としての哲学を捨てる。哲学は、文化全体を裁く裁判官ではない。公共的会話の一部であり、語彙の再記述であり、連帯を作るための言語的実践である。
これは、ニーチェ以後のかなり誠実な態度である。
大文字の哲学を再建しない。真理の最終審級を名乗らない。それでも、言葉を変えることで世界への関わり方を変える。
ローティは、哲学を弱くしたのではない。
哲学を、使える場所へ降ろしたのである。
もちろん、ローティにも問題はある。リベラル・アイロニストという立場は弱い。公共性の基盤はどこにあるのか。権力への抵抗はどう可能なのか。連帯はどこまで持つのか。そうした問題は残る。
だが、ローティは少なくとも、壊れたリングを大文字の呪文で修復しようとはしない。
その意味で、ローティはスピっていない。
哲学を下ろすこと。
これが大事である。
須原一秀は身体へ降りた
そして、須原一秀である。
須原は、哲学史の中心にいる人物ではない。大学制度の中心にいる哲学者でもない。おそらく、哲学学者の多くは須原を哲学者として扱わないだろう。
だが、ぼくには、須原がかなり重要に見える。
なぜか。
須原は、大文字の哲学を再建しようとしないからである。
須原が見るのは、身体であり、行為であり、変性意識であり、トレーニングであり、極みである。芸術も、スポーツも、登山も、武道も、宗教も、心理技法も、身体と意識の変容という線で読む。
これは、ニーチェ以後の一つの道である。
真理の最高審級としての哲学は終わった。では、何が残るのか。概念を身体へ下ろすこと。行為へ下ろすこと。訓練へ下ろすこと。変性意識へ下ろすこと。生き方ではなく、実践へ下ろすこと。
ここで須原は、ぼくの言う「実践としての哲学」に接続する。
ただし、ここでも注意が必要である。
身体という言葉も、スピりやすい。
身体。自然。生命。感覚。気づき。ありのまま。本来の自分。宇宙とのつながり。
このあたりは、すぐにスピる。
だから、須原を読むときにも、身体を大文字化してはいけない。身体を神秘化してはいけない。身体を、制度、技法、訓練、行為、経験、失敗、反復へ接続しなければならない。
須原が使えるのは、身体を神秘化するからではない。
身体を、実践の場として扱うからである。彼の最期を知る者にはこの言葉の重さが分かるだろう。
現代思想のスタイルウォーズ
ここまで見れば、問題ははっきりする。
ニーチェ以後、統一リングは壊れた。
その後に残ったのは、スタイルウォーズである。
分析哲学は、論理と言語の技術戦へ行った。現象学は、経験の与えられ方へ行った。系譜学は、制度と権力へ行った。脱構築は、テクストと誤配へ行った。公共的再記述は、会話と語彙の組み替えへ行った。身体的実践は、訓練と変性意識へ行った。
それぞれ、小さなリングである。
どれが絶対的に正しい、という話ではない。もうPFPの統一王座はない。あるのは、壊れたリングの後で、それぞれがどこに競技面を作るかという問題である。
だから、現代思想はスタイルウォーズである。
スタイルとは、単なる文体ではない。
どこにリングを作るか。何を反論可能なものとするか。何を現実への接続点とするか。どの概念を使い、どの概念を捨てるか。身体へ行くのか。制度へ行くのか。言語へ行くのか。科学へ行くのか。文学へ行くのか。公共性へ行くのか。
これがスタイルである。
そして、スタイルにはワックがある。
ワックとは、単に間違っているという意味ではない。スタイルとして弱い、借り物である、浮いている、技が通っていない、リングに立てていない、ということである。
現代思想において、ワックとは何か。
壊れた大文字のリングを、まだあるかのように見せること。科学や数学の語彙を、検証手続き抜きで権威として借りること。身体を、訓練や行為ではなく神秘的な自己肯定へ変えること。権力を、制度分析ではなく「全部権力」のポエムにすること。脱構築を、読解技術ではなく「何でも相対化」の呪文にすること。哲学を、公共的再記述ではなく教養市場の商品にすること。
これがワックである。
そして、ここで現代思想はスピる。
では、何が残るのか
ニーチェ以後、哲学は終わったのか。
大文字の哲学は終わった。
だが、哲学的な格闘が終わったわけではない。
むしろ、リングが壊れたからこそ、どこに小さなリングを作るのかが問題になる。自然科学のような検証可能性を持てる場所では、自然科学が最強である。人文学が同じことをやろうとしても勝てない。
だから、人文学は別の競技面を作るしかない。
読解。批評。制度分析。公共的再記述。身体的実践。歴史的配置。概念の再利用可能化。
これらは、自然科学ではない。だが、だからといってポエムではない。自己開示でもない。人生訓でもない。AIに哲学者名を貼ってもらうことでもない。
必要なのは、人工芝のリングである。
踏めること。壊せること。直せること。反論できること。他者が使えること。継承できること。再利用できること。
そういう競技面を作ること。
これが、ニーチェ以後の人文学の仕事であり、哲学の残された可能性である。
哲学を名乗るな。
だが、リングを作れ。
次回は、哲学ではないものを斬る。人生訓、市民哲学、AI対話哲学、探究学習的な「哲学ごっこ」。それらは、なぜリングに立てていないのか。なぜ「私を見て」は哲学ではないのか。
哲学を名乗るな。
リングを作れ。
Word up.
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