深淵を呪文にするな――ニーチェ、後期ハイデガー教、人文知の失敗【哲学を名乗るな 補論】
All eyes on...
哲学を名乗るな。
これは「哲学を名乗るな」三部作の補論である。
第二部「現代思想はどこでスピるのか――ニーチェ以後のスタイルウォーズ」では、ぼくはニーチェ以後の哲学を、壊れた統一リングの後に残ったスタイルウォーズとして見た。大文字の哲学はもう世界全体を裁けない。残るのは、小さなリングである。分析哲学のリング。現象学のリング。系譜学のリング。脱構築のリング。公共的再記述のリング。身体的実践のリング。
だが、リングが壊れた後、人は簡単にスピる。
概念が現実から浮く。制度から浮く。身体から浮く。責任から浮く。検証可能性から浮く。すると、言葉だけが大きくなる。存在。真理。自然。生命。身体。共同体。本当の自分。世界とのつながり。
今回は、その問題を、たった一文から見る。
ニーチェの有名な一文である。
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」。
この言葉は、もはやニーチェの一文というより、ネットミームである。Pixiv百科事典にも項目が立つほど、日本語ネットでは流通している。炎上、ネットウォッチ、メンヘラ観察、オカルト、アングラ、狂人観察。そうした文脈で、「ヤバいものを見すぎると自分もヤバくなる」という便利な警句として使われる。
現象としては分かる。
だが、ニーチェ理解としては浅い。
そして、この浅さは、単なるネットミームの問題ではない。英語圏でも、この一文はかなり似た形でミーム化している。さらに原文に戻ると、この一文は後期ハイデガー批判としても読める。つまり、これは人文学擁護であり、人文学批判でもある。
人文知とは何か。
それは、深そうな言葉をありがたがることではない。ニーチェを引用して賢そうにすることではない。ハイデガーを担いで深そうな顔をすることでもない。
人文知とは、ちゃんと読むことである。
1. ネットミームとしての「深淵」
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」。
この言葉は、日本語ネットではかなり早い時期から流通していたように思う。少なくとも、現在では完全にネットミームである。ネットウォッチ、炎上、オカルト、メンヘル、アングラ、怪談、創作、サブカル。そうした場所で、この言葉は「ヤバいものを見続けると、自分もヤバくなる」という意味で使われる。
痛い人を観察する。狂ったアカウントを覗く。炎上を追う。陰謀論者を見る。精神的に壊れた人間のログを読む。そういうことをしているうちに、観察している側も粘着し、攻撃的になり、対象から目を離せなくなる。気づけば、自分もネットの怪物になっている。
だから、この言葉がネットウォッチ界隈で愛された理由は分かる。
ネットウォッチとは、他人の深淵を覗く行為だからである。
他人の承認欲求。他人の狂気。他人の自己欺瞞。他人の破綻。他人の思想の壊れ方。他人の人生の歪み。そうしたものを、安全な観察席から見ているつもりになる。だが、見続けているうちに、こちらも変わる。冷笑する。粘着する。晒す。攻撃する。自分が観察対象より正気であることを確認し続ける。
その時点で、もうかなり怪しい。
だから、「深淵を覗くとき」というネットミームは、ネットスラングとしては機能している。ネットウォッチの自虐としては分かる。炎上観察の戒めとしても分かる。狂気に触れ続けることの危険を言うには、たしかに便利である。
だが、それはニーチェではない。
ニーチェの言葉を借りた、匿名掲示板的な処世訓である。
問題は、そこで何が落ちているかである。
2. 英語圏でもミーム化したニーチェ
この一文は、日本語だけでミーム化したわけではない。英語圏でも非常に有名である。
よく流通している形は、だいたいこうである。
He who fights with monsters should be careful lest he thereby become a monster. And if thou gaze long into an abyss, the abyss will also gaze into thee.
怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。そして、君が長く深淵を覗くなら、深淵もまた君を覗き込む。
英語圏では、日本語ネットミームよりはまだマシである。なぜなら、long が残っているからである。日本語ネットでは、「深淵を覗くとき」となりがちだが、英語では “gaze long into an abyss” の形で流通することが多い。つまり、「長く」という要素は比較的保存されている。
だが、それでも問題は残る。
英語圏でも、強く流通しているのは monsters と abyss である。
怪物。深淵。
分かりやすい。かっこいい。引用しやすい。暗い。中二病的に強い。だから流通する。
とくに後半の “gaze into the abyss” は、それだけで使われる。怪物の一文よりも、「abyss を覗く」というイメージの方が強く独立する。英語圏でも、「ニーチェのあの深淵のやつ」として思い出される程度には、abyss の部分が有名である。
つまり、日本語でも英語でも、かなり同じことが起きている。
ニーチェの一文が、引用しやすい暗黒警句になる。
日本語では「深淵」。英語では abyss。日本語では「怪物」。英語では monster。どちらも、絵面が強い。だから、読者はそれを哲学として読む前に、イメージとして消費する。
だが、ここで人文知が必要になる。
定訳や定番英訳をただありがたがるのではなく、原文に戻る必要がある。
3. 原文に戻る――lange、Ungeheuer、Abgrund
原文はこうである。
Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.
ここで見るべき語は三つある。
lange。Ungeheuer。Abgrund。
まず、lange である。
日本語ネットミームでは、ここが落ちる。「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」。だが、原文は「覗くとき」ではない。「長く見つめるなら」である。
これは決定的である。
ニーチェが言っているのは、一瞬ヤバいものを見たらヤバいものに見返される、というホラー演出ではない。問題は、持続である。凝視である。没入である。戦い続けること。見つめ続けること。その過程で、こちらの足場そのものが変わってしまうこと。
次に、Ungeheuer である。
これは「怪物」と訳される。英語では monster になる。もちろん、それは誤訳ではない。現代語としては自然である。
だが、「怪物」と言った瞬間、読者は外部にいる化け物を想像する。角や牙を持った敵。倒すべき悪。人間の外側にいるモンスター。
しかし、Ungeheuer はそれだけではない。
geheuer には、安心できる、親しい、穏やかである、不気味でない、という含みがある。Ungeheuer はその反対である。つまり、単なる怪物ではなく、親しめないもの、安心できないもの、安住できないもの、不気味なものでもある。
ここで、ハイデガーの Unheimlichkeit との接続が見えてくる。
もちろん、Ungeheuer と Unheimlichkeit は同じ語ではない。そこを雑に同一視してはいけない。だが、どちらも heim、つまり家、故郷、親しさ、安住可能性をめぐる語圏に響いている。問題は、単なる怪物ではない。人間が家にいるように安住できる世界を破るもの、あるいは人間自身を安住不能なものへ変えてしまうものなのである。
そして、Abgrund である。
これは「深淵」と訳される。英語では abyss になる。これも誤訳ではない。むしろ自然である。
だが、Abgrund には Grund がある。
Grund とは、地面であり、根拠であり、理由であり、土台である。Abgrund は、単なる暗い穴ではない。底なしであり、根拠のなさである。英語で言えば、abyss であると同時に groundlessness である。
ここまで読まなければならない。
ニーチェが問題にしているのは、闇を覗いたら闇に見返されるという怪談ではない。
根拠を求めて底なしを長く見つめる者が、根拠のなさによって自分の足場まで奪われるという事態である。
ここで、背後世界批判が見えてくる。
ニーチェは、真の世界、背後世界、究極根拠、形而上学的保証を壊した。プラトン的なイデア。キリスト教的な彼岸。道徳の絶対的基礎。真理の保証。そうしたものを壊した。
Abgrund を見つめるとは、根拠を求めて底なしを見ることである。そこに根拠などないことを知ることである。だが、それだけでは終わらない。根拠のなさは、見ている者自身の足場も奪う。自分は安全な主体として、それを観察しているつもりだった。だが、観察している自分自身もまた、根拠のないものとして見返される。
だから、これは「ミイラ取りがミイラになる」だけの話ではない。
それはあまりに浅い。
問題は、悪を見すぎると悪に染まることではない。怪物を叩いているうちに怪物になることだけでもない。根拠を求める者が、根拠のなさによって自分の立つ場所を失うこと。背後世界を破壊する者が、その破壊のあとに何をするのか。それが問題である。
ここから、後期ハイデガーが見えてくる。
4. 後期ハイデガー教――Unheimlichkeitに捕まった哲学者
ハイデガーは、ニーチェを西洋形而上学の完成者として読んだ。
ぼくはそこには乗らない。
ぼくにとってニーチェは、形而上学を完成させた者ではなく、リングを壊した者である。Grund を壊した者である。真の世界、背後世界、究極根拠、形而上学的保証を壊した者である。
今回の論点は、そこから先である。
ハイデガーは、その Abgrund を見ていた。しかも、浅く見たのではない。長く、深く見た。ニーチェ以後の根拠喪失、形而上学の終わり、存在忘却、技術の支配、近代の行き詰まり。そうした問題を、ハイデガーは長く、深く見つめた。
だからこそ、後期ハイデガーは危ない。
Abgrund を長く見つめる者は、Abgrund に見返される。根拠のなさを見つめる者は、その根拠のなさによって、自分の足場まで奪われる。ハイデガーは、ニーチェが壊した Grund のあとで、Abgrund を見た。だが、その底なしを底なしのまま地上へ戻すのではなく、存在、開け、隠れ、秘義、故郷、詩、住まうことへ上げてしまった。
ここで、初期ハイデガーの Unheimlichkeit が効いてくる。
Unheimlichkeit は、単なる不気味さではない。家にいられなさ、安住できなさ、故郷ならざることでもある。人間は日常世界の中で、自分が家にいるように生きている。見慣れた道具、見慣れた仕事、見慣れた他人、見慣れた言葉、見慣れた社会。その中で、人は自分が安定していると思っている。
だが、不安において、その安住は剥がれる。
世界は親しい場所であると同時に、根本的には不気味な場所でもある。人間は、家にいるようで、家にいない。
ここまでは強い。
問題は、後期ハイデガーが、その Unheimlichkeit を最後まで地上に留められなかったことである。
後期ハイデガーでは、その非故郷性、不気味さ、安住不能性が、別の方向へ回収されていく。
存在。開け。隠れ。秘義。故郷。詩。住まうこと。出来事。神。
このあたりで、ぼくには危険信号が点く。
もちろん、後期ハイデガーを丁寧に読む人間は、ここに複雑な意味を見出すだろう。技術論としての深みも、詩と思索の関係も、存在史の構想もあるのだろう。
だが、ぼくはそこに乗らない。
なぜなら、そこで主語が大きくなりすぎるからである。
存在が語る。存在が呼ぶ。技術が世界を覆う。ゲシュテルが人間を支配する。詩人が近づく。思索が待つ。故郷へ向かう。神だけが救いうる。
これは危ない。
ニーチェ的に言えば、Abgrund を見た者は、根拠などないことを知ったうえで、地上へ戻らなければならない。背後世界を作ってはいけない。底なしを、もう一度「より深い根拠」にしてはいけない。
だが、後期ハイデガーは、底なしを底なしのまま保持しない。
根拠のなさを、存在の秘義に変える。故郷ならざることを、故郷への道に変える。不気味さを、詩と思索の問題へ上げる。住まうこと、待つこと、聴くこと、開け、隠れ。そうした語彙によって、壊れた形而上学の後に、もう一度、大文字の場所を作る。
これは、背後世界の破壊ではない。
背後世界を「背後世界ではない」と言い換えた再建である。
もちろん、ハイデガー本人は、背後世界を再建しようとしたつもりではなかっただろう。むしろ、形而上学を超えようとしていたはずである。存在者の背後に、もう一つの存在者を置くな。究極根拠を対象化するな。西洋形而上学の忘却を超えろ。そういう仕事をしていたのだろう。
だが、結果としてはどうか。
後期ハイデガーは、ニーチェが壊した Grund のあとで、Abgrund を新しい Grund のように語ってしまったのではないか。
根拠のなさを、もう一度、根拠にしてしまったのではないか。
ここで、後期ハイデガー教が生まれる。
ハイデガーは、ただの宗教家ではない。そんな雑なことを言うつもりはない。『存在と時間』を書いた哲学者であり、西洋形而上学の歴史を深く掘った思想家であり、ニーチェ以後の哲学的危機を長く、深く見ていた思想家である。
だが、後期ハイデガーには、信者が集まる構造があった。
概念が検証されるのではない。聴取される。批判されるのではない。待たれる。制度へ降ろされるのではない。詩へ上げられる。身体へ接続されるのではない。故郷へ回収される。公共的反論可能性へ置かれるのではない。存在の歴史へ預けられる。
これが危ない。
ハイデガー本人が、自分を宗教家だと思っていたとは言わない。むしろ、本人の意識としては、形而上学を壊し、存在者中心の思考を超え、別の思索の道を開こうとしていたのだろう。
だが、結果として、その語彙は宗教化しうる構造を持っていた。そして、ハイデガー自身は、その構造を十分に拒絶しなかったように見える。
ここに、ナチ関与の問題も重なる。
ハイデガーはナチズムに関与した。大学総長になり、時代の「覚醒」を見た。戦後、そのことについて語りはした。だが、総括はしなかった。あえて左翼運動の用語で言えば、彼は自分の政治的過去を総括しなかった。
ここで言う総括とは、単なる反省や回顧ではない。英語で言えば self-criticism に近い。中国共産党や新左翼運動における自己批判、あるいは赤軍派的な意味での「総括」である。自分が何をしたのか。その行為はどの思想的構造から出てきたのか。自分の言葉は何を可能にしたのか。自分の周囲にどのような信者構造を作ったのか。それを、自分自身の思想の問題として引き受け、解体すること。
ハイデガーは、それをしなかった。
それは、単なる道徳的失敗ではない。
問題は、後期ハイデガーの思想そのものが、責任を制度と政治の場へ降ろすのではなく、存在史、技術、時代、運命、神、詩へ上げてしまう構造を持っていたことにある。
自分が何をしたのか。自分の言葉が何を可能にしたのか。自分の周りにどのような信者構造を作ったのか。
そこへ降りない。
だから、後期ハイデガーは危ない。
形而上学という怪物と戦ったハイデガーは、形而上学とは別種の怪物になった。
それは教義ではなく、秘義として現れる怪物である。
5. 人文知とは、ちゃんと読むことである
ここで、ネットミームと後期ハイデガー教はつながる。
一見すると、両者はまったく違う。ネットミームは浅い。後期ハイデガーは深そうである。ネットミームは雑で、後期ハイデガーは難解である。ネットミームは匿名掲示板やSNSで流通し、後期ハイデガーは大学や思想界で読まれる。
だが、構造は似ている。
どちらも、言葉を呪文にする。
ネットミームは、ニーチェの一文を「ヤバいものを見すぎると自分もヤバくなる」という暗黒警句にする。lange を落とす。Ungeheuer の不気味さ、非安住性を落とす。Abgrund の Grund を落とす。背後世界批判を落とす。根拠のなさがこちらの足場を奪い返してくるという構造を落とす。
落ちたあとに残るのは、怪物と深淵の絵面である。
暗くて、かっこよくて、引用しやすい警句である。
これは浅い。
だが、後期ハイデガー教は、それより深い場所で同じことをする。
Abgrund を、底なしのまま地上へ戻さない。Unheimlichkeit を、安住不能性のまま引き受けない。存在、開け、隠れ、秘義、故郷、詩、住まうこと、神。そうした語彙によって、根拠のなさを、もう一度、根拠のように語る。
これは深そうである。
だが、深そうであることは、読めていることではない。
ここで、人文知とは何かが問われる。
人文知とは、難しい名前を知っていることではない。ニーチェを引用できることではない。ハイデガーを担げることではない。デリダ、フーコー、ドゥルーズ、ラカン、ローティの名前を並べられることでもない。
人文知とは、言葉がどこで変形されたのかを見る技術である。
どの一語が落ちたのか。どの訳語がイメージを変えたのか。どの文脈が消えたのか。どの受容が浅いミームになったのか。どの読者が、深そうな言葉を深い思想だと誤認しているのか。
これを読むことである。
だから、人文学は必要である。
人文学が必要なのは、「人文学は尊い」と言うためではない。浅い消費を止めるためである。lange を落としたまま、ニーチェを人生訓として消費する。Abgrund の Grund を見ずに、深淵という絵面だけをありがたがる。Ungeheuer の不気味さ、非安住性を読まずに、怪物という中二病的な言葉だけを拾う。そういう読めなさを止めるために、人文学は必要である。
だが同時に、人文学は批判されなければならない。
なぜなら、読めない人文学は、ネットミームより悪いからである。
ネットスラングは浅い。だが、浅いものは浅いまま消費される。しかし読めない人文学は、浅さを深さとして流通させる。ニーチェを警句にし、ハイデガーを秘義にし、後期ハイデガー教を哲学として担ぎ上げる。
ここで、國分功一郎のようなものが出てくる。
後期ハイデガー的な語彙を公共圏へ持ち込み、それを深そうな哲学として流通させる。放下。中動態。暇と退屈。公共性。民主主義。そうした語彙が、制度、身体、責任、検証可能性へ十分に降りないまま、哲学っぽい深さとして消費される。
それは、人文知ではない。
人文学の失敗である。
読める人文学は、ミームを解体する。訳語を疑う。語源を掘る。受容史を追う。概念を制度、身体、責任へ戻す。読めない人文学は、ニーチェを消費し、ハイデガーを担ぎ、深そうな言葉を市場に流す。
だから、深淵を呪文にするな。
ニーチェをネットミームにするな。
Abgrundを聖域にするな。
根拠のなさを根拠化するな。
後期ハイデガー教に入信するな。
哲学を名乗るな。
読め。
そして、リングを作れ。
Word up.
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