依存症を経験した私が、禁煙治療に感じた違和感
7月25日に禁煙外来を受診した。
チャンピックス(禁煙補助薬)を処方され、その日から飲み始めた。
準備期間を経て、一週間後の8月1日から禁煙を始めた。
その禁煙の結果は、以下のとおりだ。
禁煙外来を受診し、禁煙アプリも使ってみた。
その過程で、どうしても拭えない違和感があった。
禁煙治療は、なぜ、これほどまでにオール・オア・ナッシングなのだろう。
吸うか、吸わないか。
ブラックか、ホワイトか。
その中間にあるグレーは、なぜ認められないのだろうか。
ニコチンは、ヘロインやコカインに匹敵する依存性をもつ薬物
禁煙外来で見せられたチャンピックスの広報ビデオでは、ニコチンにはコカインと同等とも表現されるほど強い依存性がある、と説明されていた。
WHO(世界保健機関)も、同様のことを述べている。
WHOは、ニコチンを「ヘロインやコカインに匹敵する依存性をもつ薬物」だとしている。
他の研究も見るに、ニコチンとコカインの依存性が完全に同じだと断定できるわけではない。
ただ、どちらも非常に依存性の高い薬物であることは共通している。
さらにWHOは、ニコチン依存が国際的な診断基準において、ひとつの「疾患」として分類されていることにも触れている。
禁煙治療への違和感
禁煙外来や禁煙アプリは、禁煙を医療の対象として扱っている。
それ自体は、ありがたい。
意志の力だけに頼らず、薬や専門家の力を借りられるからだ。
一方で、私が実際に触れた禁煙支援は、こういう設計が中心だった。
禁煙開始日を決める。
その日から、一本も吸わない。
吸わなかった日数を、積み重ねる。
完全禁煙を目指す以上、それは当然なのかもしれない。
それでも、私は引っかかった。
前の章で見たように、ニコチンはヘロインやコカインに並ぶとまで言われる。
依存症として、疾患としても位置づけられている。
それほど手強い依存を相手にするのに、治療の評価は「吸ったか、吸わなかったか」に寄りすぎているように感じたのだ。
これこそ、私が最初に抱いた、あのオール・オア・ナッシングである。
何というか、依存症と捉えているようで、依存症を舐めている。
しかも、喫煙に含まれるのは、ニコチン依存だけではない。
手持ち無沙汰に火をつける行動の依存も、一服で一息つく心理的な依存もある。
(私自身の依存症の経験については、こちらに書いた)
依存症として扱うなら、もっと依存症治療らしく考えてもいいのではないか。
診察を受け、薬を処方され、呼気の一酸化炭素濃度を測る。
そうした内科的な治療だけでは、この依存は扱いきれない気がする。
禁煙治療には、精神科や依存症治療の視点も必要なのではないか。
ハームリダクションという考え方
この疑問を考えているうちに、「ハームリダクション」という言葉に行き着いた。
ハームリダクションとは、薬物やアルコールを直ちに完全にやめることだけを目標とせず、その使用によって生じる健康上・社会上・経済上の悪影響を、まず少しでも減らしていこうとする考え方である。
使用量が減ったかどうかだけでなく、その人や周囲が受けるダメージが減ったかどうかを重視する。
使用が続いている人も支援から排除せず、孤立させないことを大切にする。
つまり、0か100かではない。
完全にやめられなくても、害を減らせたなら、それを前進とみなす。
この考え方を日本で長く発信してきたのが、薬物依存症治療の第一人者として知られる精神科医・松本俊彦医師だ。
松本医師は、薬物の使用量ではなく、使用によって個人や社会に生じるダメージを減らすことにこそ意味がある、と説いている。
興味深いのは、そう説く松本医師自身が、喫煙者だということだ。
しかも、「やめられない」というより「そもそもやめる気がない」と公言している。
共著のタイトルからして、『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』である。
タバコの害も、ニコチンの依存性も、この人は誰よりよく知っているはずだ。それでも、吸い続けている。
一見、皮肉に見える。
だが私は、むしろここに本質があると思う。
依存とは、正しい知識や強い意志だけで解決できるものではない。
それを誰より知る専門家自身が、依存と折り合いながら生きている。
その事実こそが、「完全にやめられない人を切り捨てず、まず害を減らす」というハームリダクションの思想に、当事者としての説得力を与えている。
ひとつ、断っておきたい。
松本医師が、禁煙について「少量なら吸い続けてよい」と主張しているわけではない。
松本医師が論じているのは、主に違法薬物やアルコールをめぐる依存症治療と支援である。
ここから先は、その考え方をニコチン依存にも当てはめてみた、私自身の考えだ。
ニコチン依存もまた、依存症である。
ならば、禁煙にもハームリダクションの視点を持ち込めるのではないか。
吸うか、吸わないか。
ブラックか、ホワイトか。
でも、その間にグレーがあってもいいはずだ。
一本も吸わないことだけが正解ではなく、本数を減らす、害の少ない形に変える——そうやって少しずつダメージを減らしていく道も、認められていいのではないか。
禁煙のゴールは0本でいい
私は、禁煙の最終目標を否定しているわけではない。
目標は0本でいい。
ただし、そこへ至る過程まで、ブラックかホワイトかで評価する必要はないと思う。
一本吸ったからといって、それまで吸わなかった時間が消えるわけではない。
一本吸ったあと、次の一本を吸わずに立て直せたなら、それも回復への一歩である。
一回目で成功しなければ、二回目に挑戦すればいい。
二回目でも難しければ、方法を見直して三回目に進めばいい。
禁煙にはグレーがあってもいい。
グレーは、喫煙を正当化するための言葉ではない。
完全禁煙を諦めるための言葉でもない。
ブラックへ戻らず、ホワイトへ向かい続けるための場所である。
禁煙のゴールは0本でいい。
しかし、依存症からの回復過程までオール・オア・ナッシングである必要はない。
私は禁煙を一度きりの勝負ではなく、ハームリダクションを重ねながら依存から離れていく過程として捉えたい。
正直に言えば、私がこの先やめるのか、やめないのかは、まだ分からない。
でも、それでいい。
0か100かを迫らないというのは、その答えを今すぐ出さなくてもいいということでもあるはずだから。
