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#11『薄明』第三章:深淵①

前回のお話はこちら

稜真と別れ、教会から帰り着いた夜、茉莉は糸が切れた人形のように倒れ込み、そのまま意識を失うように深く眠り込んで寝室のベッドから一歩も動かなくなってしまった

カーテンを閉め切り、昼も夜も分からない暗闇の中で、ただただ眠り続けている

「稜真に会うまでは、彼の声を聞くまでは」と、気力だけで持たせていた細い糸がプツンと切れてしまった


「お嬢様…入ります」

ドアをノックして櫂が部屋に入る

ほとんど飲まず食わずで3日目に入っていた

「お嬢様…飲んでください…。このスープはあなたが子供の頃、風邪を引いた時に好きだったものです」

拒む気力もない茉莉の体を支え、スプーンを口元へ運ぶ

「……? 熱い…。
お嬢様……!?」

茉莉の身体が火のように熱い。
どれだけ呼びかけても、茉莉は虚ろな目をしてぐったりとしている。

心と身体が限界を超え、高熱が彼女を襲っていた。

​櫂は急いで医者を呼んだ

──医師の診断は極度の心労と過労だった。
安静にして、水分と栄養を摂らせるしかない。

点滴の処置をしてもらい、茉莉は再び眠り始めた

櫂はそれ以降
片時も彼女のそばを離れなかった

「……一口だけでもいい。お願いです……飲んでください…。」

拒絶されても、無視されても、彼は一日に何度も温かいスープや果汁を運び、彼女の喉を湿らせ、わずかな栄養を摂らせ続けた。

(このままでは死んでしまう)

大袈裟かもしれないがそう思うとゾッとした

うなされる茉莉の、汗で濡れた髪をタオルで拭い、冷えた指先を自分の熱い掌で包み込んで温める。

それは櫂にとって、生への執着が極端に薄くなっている今の彼女を、無理やりこの場に繋ぎ止める執念でもあった

茉莉は綺麗すぎるのだ
普通の人間が避けたり、逃げたり、壁を作って守る術も持たず、
まっさらな心を預け、まともに傷ついてしまう

夜、櫂は眠る彼女のベッドサイドに座り込んで毛布をかぶり、カーテンの隙間から見える三日月をぼんやりと眺めていた

「……行かないで…」

白く、薄い月明かりに照らされて茉莉がうなされながら苦しげにこぼす

稜真の拒絶する声と、櫂の必死な呼びかけが夢と現実の狭間で混濁しているようだった

櫂は額の汗を冷水で絞ったタオルで拭きながらその手をしっかりと握りしめる

「……ここにいます。私はここにいますよ」

その呼びかける声の相手が例え、私ではなかったとしても

あなたを一人にしない
絶対に

(だから…、戻ってきてください…お嬢様…)

時々漠然とした不安が櫂を襲う

しかしそれを彼は瞬時に振り払う

しっかりしろ
側にいる自分がつぶれていたら、
この人が起きたときに寄りかかるものがなくなる

両手で握りしめたその手を自分の額に押し当て、櫂は心の中で茉莉の回復を何度も何度も繰り返し祈り続けた



翌日櫂のスマホが鳴る

茉莉の父、征嗣からだった

『櫂…、茉莉の様子はどうだ…』

東都キャピタル破綻のニュースが出てから、征嗣も美智子も茉莉のことをひどく心配していた

「旦那様…退院されたばかりで、ご心配をおかけしております。
先日大まかに九条家との経緯をご説明させていただいた通りですが…
お嬢様は…今、非常に不安定で……正直まだ誰かに会える状態ではありません。
……はい、大丈夫です、私が見ております…。」

しばらく征嗣と状況を話し電話を切った

美智子からも心配のメールが何度も届いていた

「………」

櫂は天井を仰ぎ、ひとつため息を着くと、無言で茉莉の寝室へと戻った

茉莉は今は落ち着いて眠っている

櫂の献身的な看病の甲斐があり、熱は上がったり下がったりしながら緩やかに落ち着きを取り戻し始めていた

茉莉の頰にそっと手の甲を触れる

(良かった…熱が引いている)

「………」

そのかすかな刺激に茉莉の睫毛が震え、瞳がゆっくり薄く開く

「…お嬢様」

茉莉は櫂の手に触れると、彼の名を呼んだ

「……櫂…?」

「…はい。…ここにいます…。」

茉莉はわずかに首をこちらに傾けてぼうっとした焦点の合わない目で櫂を見つめた

彼女の記憶の中に、熱に浮かされながら握りしめていた「温かい手」の感触が、ゆっくりと蘇っていく。

やがてその眼差しに光が宿り、自分を認識したのを櫂は確認する

「……櫂」

「はい…。お嬢様。」

茉莉は握られた手に少しだけ力を込めて、櫂がこの数日望んで望んで止まなかったひと言を発した

「……おなか…、すいた」

弱々しい声ではあったが、何日かぶりに聞く、茉莉の食への欲求だった

櫂はこみ上げるものを抑えながら、「わかりました、少し、お持ちください」と伝えると急いでキッチンへと走った

連日の不眠で一瞬ふらついたが、その消耗が帳消しになるほどの安堵と喜びに包まれていた──


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