#10『薄明』第二章崩壊⑤
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茉莉はスマートフォンを握りしめ、画面に向かってほとんど叫ぶように稜真の名を呼んだ
「稜真さん!?稜真さん、よかった……!!!心配してたの、何があったの?」
「……茉莉さん。……ごめん、今まで連絡できなくて」
スピーカー越しに聞く久しぶりの稜真の声はひどく重苦しく掠れていて、まるで生気を失っている
「君に伝えなければならないことがある。
……今日の16時に、いつもの場所で会えないだろうか。……直接、話がしたい」
心臓がドクッとイヤな音を立てる。
思い詰めた声
聞きたいことも、話したいことも山ほどあるのにそれを許さない雰囲気が滲み出ていた
「………わかりました」
茉莉が震える声でやっとそれだけ言うと
稜真は「ありがとう」と一言残してブツリ、と通話が切れた。
茉莉は音のしなくなったスマートフォンを力なく落とし、血の気を失った白い顔で櫂に告げる。
「……出かけるわ。準備が終わったら車を出してちょうだい」
櫂は事態を察し、「かしこまりました」と言う他になかった。
稜真との待ち合わせ場所へと向かう車内。
窓の外を流れる晩冬の街並みは、何事もなかったかのように平穏で、それがかえって茉莉の絶望を際立たせていた。
櫂は、拳を握りしめた。
茉莉が稜真を想い不安な顔を見せるたび、櫂の心は千々に乱れる。
彼女には笑っていてほしい。
たとえその笑顔の理由が自分ではなく、あの「九条稜真」という男のためであったとしても。
茉莉の幸福を壊すことは、自分自身の存在意義を否定することに等しい。
だが、その聖者のような願いのすぐ真下に、どす黒い粘り気のある感情が、鎌首をもたげていた。
(このまま、あの男が彼女の手を離してくれれば……)
彼女が居場所を失えば
真っ先に彼女を拾い上げ、この腕の中へ再び隠してしまえる
そんな醜悪な想像が、茉莉への深い慈しみと表裏一体となって、櫂自身の身体を蝕んでいた。
(私はなんと愚かでおぞましい人間だ…)
「お嬢様。……着きました」
櫂は、自責の念を押し殺しながら茉莉を促した
茉莉が向かったのは、二人がよく待ち合わせをしていた、静かな教会の裏手にある庭園。
そこに、稜真は立っていた。
いつも完璧だったはずの稜真がこの半月程で驚くほどやつれて痩せこけている。
稜真は茉莉に気づくと、濁流の中にあっても気高く一点の曇りもない光を宿した瞳で茉莉を見据えていた。
「茉莉さん……。来てくれて、ありがとう」
「…稜真さん……大丈夫?何があったの?私……」
茉莉が駆け寄ろうとするのを、稜真は微かな、しかし決定的な身振りで制した
「……ごめん、茉莉さん。……ニュースに上がっている通りだ。東都キャピタルは、終わる。」
茉莉はそこに立ち尽くした。
「…え……でも…
でも稜真さんは、何も知らなかったんでしょう?ニュースでそう言ってた……そうなんでしょう?」
正義感の強い稜真が、不正なんかするはずがない。茉莉はそう信じていた。
「…ああ…その通りだ。知らなかった。それが、僕の最大の罪だ。」
稜真は苦悶の表情で声を絞り出した
「父と兄は、長年、海外事業への巨額の資金流出を隠蔽していた。実体のないペーパーカンパニーへの不正送金……。それを二重帳簿で誤魔化し、粉飾決算を繰り返して、挙句の果てには政治家への不透明な資金提供まで……」
稜真の拳はわなわなと震えるほど握りしめられている。
茉莉は稜真の側に寄ることさえ躊躇われた
「でも…でもそれはあなたがやったことじゃないわ、お父様とお兄様が……」
「親族は、みんな『隠し通せ』と言っていた。海外へ逃げろ、と。
でも、僕は……僕だけは、それを許せないんだ。
僕はこの汚れた金で君に贈る指輪を買おうとしていた。……その事実が、耐えられない。」
稜真は苦しげに息を吐いた
「僕はこれから、検察の取り調べに全面的に協力する。父と兄が隠してきた全ての不正を、僕が白日のもとに晒すよ。
……身内を売る裏切り者だと罵られても、それが僕の選ぶべき『償い』だ。」
「…………」
「茉莉さん……。君をこの泥沼に連れて行くわけにはいかない。
僕の人生は、これから何年も、醜い裁判と罵声の中に置かれることになる。
……別れよう。
……この前のプロポーズも、…すまないが…ここで白紙に戻させてほしい。」
稜真がその言葉を言い終わらないうちに、茉莉は弾けるように叫んだ
「待って稜真さん、私の話を聞いて!
父に掛け合ってみる。西園寺グループなら何とか出来るかもしれない、私と結婚すればもしかしたら──」
「僕が嫌なんだ!」
稜真の叫びが、凍てついた空気を震わせる。
「……父や兄にも懇願された。西園寺の力を借りれば…このまま隠蔽し、再建することも可能かもしれない、と……
でも、茉莉さん……そんなことをして、君を地獄に引きずり込みたくない
君を、九条家を救うための道具になんて、死んでもしたくないんだよ!」
それは、稜真の持つ高潔さゆえの、きっぱりとした拒絶だった。
稜真にとっての愛とは、相手を守ること。そのために自分自身を犠牲にし、彼女を安全な場所へ突き放すことだった。
けれど、茉莉にとっては違った。
自分という存在が、彼の正義やプライドという天秤にかけられ、そして、切り離されたのだ。
「……。」
視界が揺らぐ
茉莉は溢れ落ちる涙もいとわず、絶望で唇を戦慄かせながら稜真を責めた
「この前……あなたは私に、弱くてもいい、みっともなくてもいいって……全部見せてほしいって言った。……なのに
あなたは私に、……自分の弱みを、…ひとかけらも預けてくれないのね」
稜真は黙ったままこちらを見ない
「私には、あなたを支えることさえ許されないのね」
「……君を愛している。
………愛しているからだ」
「そんなの愛じゃない!」
茉莉は叫んだ。
涙が溢れる
「………今、分かってもらおうとは思わない。
君を九条の泥沼に引きずりこんで汚したくない。
でも必ず、僕は会社を再建してみせる。…、必ず……」
稜真はもう茉莉を見ていなかった
茉莉にはその瞳がどこを見据えているのかもわからない
どんなに言葉を尽くしても稜真の決意に届かないことを悟ると、
茉莉はほとんど倒れそうになりながら櫂の待つ車へと足を引きずりながら戻っていった
頭がガンガンして、自分が息をしているのかさえわからなかった
「……お嬢様」
車の側でその様子を見守っていた櫂は茉莉の元へ走り、彼女を支えた
かろうじて立っていた茉莉は櫂に抱きとめられると、堰を切ったように大声で泣き出した。
それはこれまでの人生で信じてきた愛という名の幻想が、音を立てて崩れ去る瞬間だった。
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