#86『薄明』15章:荒野へ①
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その日を境に、当たり前だが茉莉の生活は一変した。
朝、いつものように玄関で櫂を見送る。
これまでなら、彼が仕事へと向かった後の静かな家は、茉莉にとって自分だけの時間だった。
しかし今は、彼がドアを閉めたその瞬間から、茉莉の試練が始まるのだ。
ダイニングテーブルの上に広げられたノートパソコンを開き、画面を見つめる。
そこには、これからクリアしなければならない膨大なタスクがリスト化されていた。
まずは、父から命じられた一週間以内の『完全版』起案書の作成。
そして、それを元にした理事会や役員会での正式な決議の獲得。
それが通って初めて、具体的な専任チームの結成と事務局スタッフの招集へと進むことができる。
同時進行で、人事部や外部のコンサルタントと共に、支援した子どもたちを現場へ送り出すための「本社の徹底した事前研修プログラム」を開発しなければならない。
そして何より最大の難関は――各現場への説明行脚だ。
ただでさえ人手不足で疲弊している現場の部門長たちに、この事業の意義を説き、「なぜこれをやるのか」「どう評価に繋がるのか」を納得させなければならない。
息つく暇もない。やらなければならないことが、山のようにそびえ立っている。
「……やるしかないわね」
茉莉はぺちぺちと頰をたたいて小さく自分を鼓舞し、タイピングを始めた。
数週間後
企画が通ると茉莉は、西園寺グループの主要な関連部門への挨拶回りを開始した。
「西園寺茉莉と申します。この度、次世代育成支援事業の立ち上げを担当することになりました。どうぞよろしくお願いいたします」
新調した名刺を差し出す。
これまでは「西園寺茉莉」という名前を口にするだけで、すべての扉が魔法のように開いた。
誰もが彼女に微笑みかけ、敬意を払ってくれた。
だが、名刺一枚を持って外の世界――シビアなビジネスの現場へ飛び出した今、その魔法には「社長の娘」という悪い意味での注釈がつくようになっていた。
「おお、これは茉莉お嬢様。
……素晴らしい理念ですな。ええ、こちらとしても協力は惜しみませんよ」
ホテルの総支配人は、表面上は恭しく名刺を受け取り、満面の笑みを浮かべた。
けれど、その瞳の奥には明らかな忖度と戸惑いがある。
彼は茉莉が退室するやいなや、受け取った名刺をデスクの端に無造作に置き、重いため息をつくだろう。
時には、背後から聞こえるような声で囁かれることもあった。
『適当におだてておけ』
『どうせ、半年もすれば飽きて放り出すだろうよ』
足が、すくみそうになる。
色眼鏡で見られ、最初から道楽だと決めつけられている。
これまでは向けられることのなかった、悪意や冷笑。
(……わかっていたことだわ)
茉莉は立ち止まりそうになる足を、グッと踏みしめる。
社長の娘がいきなり現れて「社会貢献だ」と理想を語っても、現場が歓迎するはずがない。そんなことは、端から覚悟していた。
当然の評価だ。
その声を聞こえないふりをして足早に去る。
見知らぬ人々の冷たい視線より何より、自分の本気が誰にも信じてもらえないことが、胸の奥をチクチクと刺した。
(弱音を吐いている暇なんてない……そんな時間があったら、動くのよ)
「お遊び」というレッテルを剥がすには、ただひたむきに揺るぎない覚悟を見せるしかないのだ。
落ち込んでいる暇はない。立ち止まることも許されない。
実力がない自分。看板に守られている自分。
それを利用してでも、子どもたちの未来を繋ぎたい。
めそめそと傷ついている場合ではないのだ。
「よしっ、次行こう」
茉莉は上を向いて、背筋をピンと伸ばすと、次の部署のドアへと向かって歩き出した。
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健気に頑張る茉莉。えらい。
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