#53『薄明』第10章:道程①
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夢のようなバカンスが終わった。
10日間という、長くて短い束の間の休息が終わり、通常の業務が始まると櫂の日常は目に見えて加速していった。
西園寺グループの後継者候補、そして経営戦略室のトップとしての道程がスタートする。
虎視眈々と失脚を狙う役員たち、シビアな数字を突きつける株主。
彼らを黙らせるには、圧倒的な実績を掴んで晒すしかなかった。
「この地方の不採算部門、お前ならどうする」
社長、征嗣はわざと腐敗しきった現場や、赤字垂れ流しのプロジェクトを櫂の前に放り込む。
正解は無い。覚悟を見られている。
本社ビルの廊下を歩く櫂の背中に、社員たちの好奇と嫉妬が入り混じった視線が突き刺さる。
「……見ろよ。あれが例の『社長のお気に入り』か」
「学費から何から、全部社長が面倒を見て育てたっていう……そんなもん実力というより、ただの飼い犬だろ」
「しかも社長の娘を手駒にしたらしいぜ。お嬢様さえ世襲の道具だよ、すげえな」
「ひぇ〜エグ。出世のためにそこまでやるかねぇ…」
ひそひそと交わされる下世話な囁きを、櫂は一瞥もせずに聞き流した。
何とでも言うがいい
レベルの低い噂話に目くじらを立てるほど櫂は暇ではなかった
自分が「右」と言えば、現場の数百人が右へ動く。
何十億という資金が、自分の指先一つで、死に金にも活き金にもなる。
その全能感。
(……面白いな)
深夜、誰もいないオフィスで、複雑に絡み合った貸借対照表を睨みつけながら、唇が不敵に歪んだ。
櫂は自分でも驚くことに、この過酷な状況を楽しんでいた
難解なパズルを解き明かし、最善の一手を打ち込む快感。
一筋縄ではいかない案件ほど、彼の心の奥底にある、飢えが満たされていくのを感じていた。
そして何より、その先には──
九条稜真の背中があった。
空港で会った稜真の目は全く死んでいなかった。
そして麗奈が言っていた言葉──
「新しく立ち上げるベンチャー企業」
「パワフルで意欲に満ちあふれた代表」
あいつは口だけじゃない
茉莉を諦めていない。
『いつか絶対にそいつから君を奪い返す…僕が君を幸せにする!』
空港で彼が叫んだ声が頭をよぎる
茉莉を絶対に離さないという強い覚悟が自分にはある
だがなぜか茉莉が自分を捨てて、稜真のもとに行ってしまうのではないかという恐れはいつまでも消えない
自分の、根のない出自がそうさせるのか
何もかも持っていて何もかも失ったのにまた這い上がってきた稜真への脅威なのか。
茉莉をこの手中に収めてなお、余裕なんてまるでない
少しでも油断すると足元がガラガラと崩れ落ちていくような感覚に陥る
しかし櫂はその影には意識して目をくれず、静かな、そして猛烈な闘志だけを燃え上がらせていた。
一方で静まり返ったマンションのリビングで、茉莉は一人、注いだまま減らないワイングラスを眺めていた。
「……今日も、遅くなるのかしら」
時計の針は、すでに日付を越えようとしている。
帰国してから、櫂とゆっくり言葉を交わした記憶がない。
だが、こうなることはわかっていたことだ。
たまに自分が起きている時に帰宅すると櫂は清浄な空気の中で深呼吸をするように夜を共にし、変わらず自分を大切にしてくれている。
誰よりも美しく、何不自由ない場所で、光の中にいられるようにと自分を守ってくれている。
けれど。
(……私は、このままでいいのだろうか)
高層マンションの窓に映る自分の姿が、どこか現実味のない、空虚な幻のように見えた。
彼が死に物狂いで新しい世界を切り拓き進んでいる間、自分はただ、整えられた鳥籠の中で羽を休めている。
ふと、あのマレのマーケットで、店主とバリバリと交渉していた麗奈の、逞しくも眩しい後ろ姿が脳裏をよぎった。
茉莉は、自分の白く柔らかな掌を見つめる。
この手は、誰かを支えるためにあるのではないのか。
愛する人の隣に立ち、共に歩むためにあるのではなかったか。
「……私に、できること……」
その呟きは、静かな夜に虚しく吸い込まれていった。
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別々の道を歩みだし始めた櫂と茉莉…
