#54『薄明』第10章:道程②
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11月の終わり
西園寺邸の庭にある銀杏が鮮やかな黄金色に染まり、乾いた冬の風が時折窓を叩く。
「まあ、茉莉さん。来てくれて助かるわ。私一人ではどうにも大変で」
父の後妻の美智子が、上品な仕草で老眼鏡を直し、困ったように微笑んだ。
テーブルの上には、厚みのある顧客名簿と、百貨店の最高級カタログ、そして特注の便箋が並んでいる。
「いいえ。私もこの時期の作業は、母の隣で見ているのが好きだったんです。」
茉莉は慣れた手つきで、一通一通の住所録に目を通していく。
今や西園寺グループの公式なお歳暮はすべてデータ管理され、会社で最小限、事務的に発送されている。
だが、数字や記録には残らない縁というものもある。
この「西園寺家の個人的な付き合い」だけは、今もこうして女主人の手作業による細やかな配慮が守られていた。
「こちらの近衛様は…お茶のお家元夫人でいらっしゃるから、お席でお菓子を召し上がる機会が多いかと…。
甘味は控えめで、口どけのよい和三盆の特注干菓子にいたしましょう。
流行にも敏感な方ですから、老舗の新作ならきっとお喜びいただけますわ」
「まあ……。そんなところまで。本当によく覚えてるのね」
美智子が感心したように声を漏らす。
茉莉の指先は、迷いなくカタログのページをめくっていく。
「羽鳥家は、去年はお昆布を喜んでくださいましたが、お孫さんがお生まれになったと伺いました。
皆様でお過ごしのひとときがより華やぐよう、軽やかな甘味に、やさしいお品をひとつ添えましょうか。
……それから、昨年旦那様を亡くされた高梨様には、お一人でも手軽に本格的な味が楽しめるお吸い物と、香りの良いお茶をセットで。お仏壇にもお供えしやすいですから」
それは単なるマナーではない。
茉莉は相手の家族構成、最近の慶弔、そして言葉の端々に隠された好みを完璧に把握し、一筆箋に添える言葉を選ぶ。
美智子は、そんな茉莉を眩しそうに見つめ思う。
(本当にこの子は素晴らしいわ…。
人の心に寄り添い、それを形にするという、得難い才能を持っている…)
大方の作業を終え、美智子がキッチンへお茶の用意に向かった後
茉莉は一人、亡き母の部屋へと足を向けた。
身体が弱ってから、母が一番長く過ごしていた、白檀の香りが微かに残る日当たりのいい部屋。
今は書斎として使われているその部屋の壁際の戸棚を開けると、そこには母が個人的に続けていた慈善活動の資料が、色褪せた紙のまま大切に保管されていた。
現在ではその全てをデータ化し茉莉が細々と引き継いでいるが、母の筆跡が残るこの紙の束を茉莉は捨てられずに時々こうして眺めにくる。
支援先の養護施設の子供たちから届いた、たどたどしい文字のお礼の手紙や折り紙。
茉莉は微笑みながらそれらの古い紙の束を、宝物に触れるようにめくっていく。
そしてひときわ古いファイルに目をやる。
茉莉はこれまで何度も眺めてきたそれを手に取った。
すると中から写真が滑り落ちてしまった
「あ、いけない…」
慌ててその写真を取ろうとして──
一瞬手が止まる
(……櫂)
それは茉莉の父が、急死した親友の息子──櫂を引き取り、個人的に支援を始めた初期の記録だった。
櫂を引き取ってからあと、父は思うところがあったのか、数年の間、他にも数人の交通遺児の支援をしていた
名簿の「第一号」に記された櫂の記録。
まだあどけなさを残した少年の顔。
写真は、糊が劣化して剥がれ落ちてしまったのだろう。
ふとその写真の裏に何か書いてあるのに気づいた。
今まで何度も見てきた写真だが、こんなところに文字が書いてあるなんて知らなかった。
──それは母の字だった。
『征嗣さんの親友が遺した、たった一つの希望。
この子の目が、いつか穏やかな光を宿しますように。あの子が背負う孤独の半分を、いつか誰かが分かち合ってくれますように』
「……。……」
茉莉は、震える指先で、写真の中の少年の頬を撫でる。
母が願った、櫂の孤独を癒し、分かち合う誰か。
それが奇しくも自分であった不思議な運命
(お母様……)
他の子どもたちの写真も、ぺりぺりと剥がしてみる。
やはり。
そのひとりひとりの写真の裏に
母の字で深い祈りの言葉が綴ってあった
(お母様…あなたは…)
茉莉の目に涙が浮かぶ。
何て優しい…慈しみ深い方なの…
茉莉はその写真たちを胸に抱き、ひとり静かに涙を流した
冬の午後の光が、茉莉の頬を照らしている。
自分の冷たかった掌が明確な熱を帯びてき始めているのを感じた。
抑えても抑えても、あたたかい涙が
身体の奥を染み渡りながらとめどなくこみ上げてくる
この手は、かつて母がそうであったように、誰かの孤独に触れ、救うためにあるのではないか
自分には…そのための力が
あるはずだ────
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