#70『薄明』12章:惑い③
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翌朝早く──まだ6時前だというのにもう櫂はいなかった。
彼が発ったあとの家は、耳が痛くなるほど静かだ。
キッチンのラックにひとつ残された洗われたグラス。
おそらく櫂は起きて水を飲み──それだけで出かけて行った
朝食さえ、移動中に取るのだろう。
急ぎ足の余韻をかすかに残したまま、テーブルの上には何ひとつ残っていない。
茉莉はそのテーブルにそっと手を添え、届いたばかりの経済紙を手に取った。
パラパラとページを捲る指が、ある箇所で止まる。
『若き実業家、東都キャピタル破綻からの逆襲――新会社レガリアの勝算』
そこには、あの夜、まばゆいスポットライトを浴びていた九条稜真の記事と写真があった。
自信に満ち、以前より深みを増した瞳。その端には、彼を支えるメンバーたち──凛と微笑む麗奈の姿も写り込んでいる。
稜真の会社レガリアはあの設立記念パーティーで投資家たちの心を掴み、ベンチャーキャピタルの支援を数件獲得、順調なスタートを切ったらしい。
「……すごい」
思わず、独り言が漏れた。
稜真は戦い、築いている。
一度すべてを失い、それでもなお、自分の足で荒野を切り拓こうとしている。
櫂も──今必死で会社のために身を削りながら、それでも充足の日々を過ごしている。
翻って、自分はどうだろう。
西園寺の令嬢として生まれ、最高の環境を与えられ、高い教育を受けながら、今は櫂という強固な城壁に守られ、狭いこの部屋で何不自由ない暮らしを呑気に送っている。
新聞をバサリと閉じ、茉莉は立ち上がって窓の外を見つめた。
初春の陽光が、東京の街を照らし始めている。
(私は、何をしているの。……この家で、たったひとり)
誰からも、何も求められていない。
今のようにただ美しく、穏やかに、誰かの帰りを待つことだけが自分の役割なのだろうか。
昨日会ったあの青年の、感謝に満ちた瞳が忘れられない。
まだ見ぬ人たちを、救う力が自分にあるのだとしたら──
……やりたい。
いや、やるべきだ。
その言葉が、熱い塊となってせり上がってくる。
自分の手のひらをじっと、見つめる。
それはまだ、誰にも――父はおろか愛する櫂にさえ打ち明けられていない、自分だけの小さな火種。
……反対…されるだろうか
わざわざ荒波に飛び込んで行くような真似をしなくてもいいと。
でも──
心の中の羅針盤は、すでに「ここではないどこか」を指して激しく震え始めていた。
「……行ってきます」
誰に言うでもなくそう呟くと、茉莉は花冷えの空気の中、薄手のコートを手に取った。
今日、また行かなければならない場所がある。
その場所に、今の自分だからこそ届けられる光があるのだと、茉莉は信じていたかった。
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稜真や櫂と関わりながら
茉莉は自分の人生に疑問を持ち、自分の人生を生き始めようとしています
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