#42『薄明』第8章:出発④
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櫂はゲートを通過する直前、一度だけ振り返り、稜真の絶望をその瞳に焼き付けた
九条稜真。
かつて茉莉が愛した男──
あんなことが無ければ今頃茉莉は彼と結婚式の準備でもしていたことだろう
自分とて茉莉の人生を預ける相手として一度は認めた男である
不思議なものだ
執事という立場から這い上がり、彼女を最高の未来へ導こうと藻掻く自分と、
何もかも整えられた場所から地に落ちてなお彼女を追いかけようとする男。
運命の歯車が狂い、立場は逆転した
自動改札が「ピッ」と鳴り、二人を別世界へといざなう。
自分はもう二度と茉莉を離さない
稜真がどんなに這い上がってきたとしても。
どんなに追いついてきたとしても。
茉莉という宝を、命を、この腕から絶対に離す気はない
ファーストクラスの重厚なシートに身を沈めた瞬間、茉莉の膝が目に見えて震え出した。
先ほどまで稜真の前で見せていた凛とした姿は、愛する男を守るために張った精一杯の虚勢だった。
機体が静かに地上を離れ、安定飛行に入った頃、隣に座る櫂が、祈るような手つきで茉莉の冷たい手を包み込んだ。
「……茉莉」
その声は、掠れて震えていた。
「……すみません。私の……私の過去のせいで、あなたにまであんな汚い言葉を浴びさせてしまった。……『私の罪だ』なんて、あんなこと、二度と言わないでください。……悪いのは、すべて私です」
櫂は痛みに耐えるように目を伏せ、絞り出すように言葉を続けた。
「……九条様が言ったことは、事実です。
……私は、あなたへの想いに狂いそうになるたび、最低な方法で心を麻痺させてきた。……ですが、誓って……隠し子などという存在はおりません。
……そんな……、そんな不手際は、……していません」
その言葉に、茉莉は青ざめた顔で小さく笑った。
「……ふふ、そうね。……あなたは、慎重で、用心深くて、……自分の痕跡を消すことに関しては、誰よりも長けているものね」
冗談めかして言ったものの、茉莉の瞳には涙が溜まっていた。
「……分かってるわ。……あなたがどれほど孤独に、私への想いを殺そうとしてきたか。
……でも、櫂。……私は、稜真さんの言葉を聞いて、……自分がどれほどあなたを傷つけてきたか、突きつけられた……」
「茉莉……?」
茉莉の喉がひゅうと小さく鳴る
「……私を迎えに来ると言った、彼の真っ直ぐな愛。
……それに比べて、私は……。
……あなたを側に置きながら、他の誰かに救いを求めていた。
……あなたの絶望を、自分の安心材料にしていた……。
……最低なのは、……私……」
稜真の「愛している」という悲痛な叫びと、自分の犯してきた無意識のエゴイズムが、一気に心臓を握りつぶした。
息が。
呼吸が、
うまく出来ない。
(苦しい……)
茉莉の様子に櫂は異変を察知し、顔を覗き込む
「茉莉…?
茉莉…!顔色が悪い…大丈夫ですか?……しっかりしてください、茉莉!」
視界が白く点滅し、呼吸が荒くなり茉莉の身体がガタガタと震え出す。
──過呼吸だ。
櫂は瞬時にシートのパーティションを閉じ、彼女を自分の膝の上へ引き寄せた。
「……いいですか、私の目を見て。……ゆっくり、吐いて。……吸わなくていい、……吐くだけでいいんです」
櫂は彼女の背中を、大きな、一定のリズムでさすり続ける。
「……大丈夫。……あなたは何も悪くない。……私を選んだことを、絶対に後悔させない。……だから、……今はただ、私の鼓動だけを感じてください」
櫂の胸板。その奥から聞こえる、力強い鼓動。
茉莉はその鼓動に縋り付くように顔を埋め、何度も、何度も、過ちを、許しを乞うように息を吐き続けた
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