#20『薄明』第4章:名前を呼んで⑤
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じりじりとしたもどかしくも面映ゆい日々を過ごしながら、季節は春から初夏に移ろうとしていた
しばらくの間、茉莉は何となく2人きりの空間が気恥ずかしくて、何かと予定を詰め込んだ
スケジュール帳は、余白を埋め尽くすように細かな文字で書き込まれていく
亡き母が個人的に支援していた養護施設への寄付金の目録作成、図書の寄贈
西園寺家と親交の深い若手陶芸家の個展に向けた打ち合わせ。
新規オープンの高級ホテルのレセプション
毎日何かとやることがあって、少し疲れが溜まっていた
「そんなに詰め込まなくても、よろしいのでは?」
忙しそうに準備をしている茉莉に櫂が声をかける
「…いいの。稜真さんとのことがあって、ご迷惑をかけた先も多いから。
私に今できることをしておきたいのよ」
櫂はテーブルを拭きながらこちらを見ずに答えた
「そうですか…しかし体調にだけは気をつけて。最近夜が遅いようです」
「…わかってるわ。あなたにもまた迷惑をかけてはいけないし。」
寝込んだあの日々を思い出して少しきまりが悪そうにパールのイヤリングを付ける
「…それは構いませんけどね。
あなたの看病で1日中そばに居られますし。…最近あなたが日中あまり家に居ないから寂しいんです」
櫂はそう言うと手にしていた台拭きをキッチンに戻した
「……なんて言うと、不謹慎ですかね」
その率直な言葉に困って言葉が詰まり、黙って振り向くと、櫂と目が合ってしまった
「………」
そのまま……逸らせない
「……茉莉」
「… …。…なに?」
ドキッと胸が鳴る
「いえ。呼んでみただけです」
「え?!…っ…もぅ……!」
茉莉はからかわれたような気持ちになって頬をふくらませる
櫂は右眉を上げておかしそうに、「すみません、早く慣れたくて」と笑った
「それでは車の用意をしますので先に降ります。
今日は午後から雨予報ですね。帰りもお迎えにあがりますので」
「…わかったわ、ありがとう」
櫂が先に玄関を出ると、茉莉はリビングで1人、左胸を押さえながら、はぁ〜〜っと長いため息をついた
最近、万事がこの調子なのだ
(心臓に悪い…)
いつ、櫂に気持ちを伝えようか…
気を抜くとそんなことばかり考えるようになってしまった
櫂の言葉通り、その日は夕刻からひどい荒天になった。
幸い家に帰り着いてからだったが
空の色は不気味な紫に染まり、やがて世界を塗りつぶすような豪雨が降り始めた
夜更けにはズズーン、と腹の底を揺さぶるような地鳴りが響き、雷鳴を轟かせるようになった
肩が跳ねる。昔から雷が苦手なのだ
「……大丈夫ですか」
リビングで、櫂が心配そうに声をかける。
「……。全然…平気…」
強がってみせるものの、閃光が走るたびに指先が震える。
今日の雷雨は特にひどい。
これまでの人生で一番ひどいのではないかと思うほどだ。
一分間のうちに、一体何度稲妻が走るだろう
落雷があるたびに窓ガラスがびりびりと音を立てて震え、耳をつんざく衝撃音が天地を揺るがす
茉莉がその圧迫感と恐怖に耐えていると
ひときわ大きな雷鳴が轟き、パッと視界から光が消えた。
──停電だった。
「あっ……」
一瞬で訪れた静寂
いや、静寂ではない。窓を叩きつける雨音だけが、鮮明に2人の耳に飛び込んでくる。
暗闇の中、一秒、二秒、と時間が止まる。
「停電、ですね…。懐中電灯を持って来ます」
「…えっ、待って…一人にしないで」
暗闇と雷が恐ろしすぎて反射的に櫂のシャツの裾を掴んでしまった
「…あ……」
ビカッと不意に走った稲光が、至近距離に立つ二人のシルエットを青白く浮かび上がらせる。
「……茉莉」
櫂の腕がぴくりと動いたその瞬間
パッと電気が復旧した。
「……あ、…
…戻った」
眩しさに目を細めた茉莉は、いたたまれなくなって視線を逸らす
心臓の音が、外の雷鳴よりも激しく鳴り響いていた。
「……停電、短くて良かった。」
「…そう、ですね」
「…あー…、今日は…なんだか少し、疲れちゃった。
雷怖いし…もう、寝る…ね」
「…そうですね、それがいいかもしれません。」
「うん、おやすみ」
茉莉はうまく会話を繋げられず逃げるように部屋に戻った
しかしさっき一瞬訪れたあの暗闇のひとときを無かったことにするのに失敗し、部屋でかえって色濃く櫂を意識してしまうことになってしまった──
深夜になっても嵐は一向に衰える気配を見せない。
自室のベッドで、櫂はラフなTシャツ姿で本を開いていた。
けれど、同じ行を何度もなぞるだけで、内容は全く頭に入ってこない。
雨音に混じって、雷が遠く近くで吼え続けている。
この音を、彼女がどれほど嫌っているか。今、隣の部屋でどれほど心細い思いをしているか。
それを考えれば考えるほど胸の奥が疼く
(……昔のように、側にいてやりたい)
茉莉は幼い頃、雷が鳴るとよく自分のベッドに逃げ込んできた
自分を頼る小さな存在が愛おしくて、ただただ守りたかった
けれど、もう自分はあの頃の少年ではない。
今の自分が彼女の部屋に行けば、それは「そばにいる」だけでは終わらないだろう。
その時だった。
トントン、と。
荒れ狂う雨音に消されそうなほど、遠慮がちなノックの音がした。
櫂は本を閉じ、息を止める。
扉の向こうにいるのは、誰か。
分かっていても、認めるのが怖かった。
「……櫂?……起きてる?」
その声は、茉莉だった
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ついに…?
