#88『薄明』15章:荒野へ③
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「……茉莉。少し、ペースを落としませんか。この一週間、ろくに睡眠も取れていないでしょう」
その夜、自宅のダイニングでパソコンに向かう茉莉の背中に、櫂が心配そうに声をかけた。
彼自身、監視役として彼女の労働環境を知っているからこそ、なおさら生きた心地がしない。
茉莉はキーボードを叩く手を止め、振り返ってとびきりの笑顔を作ってみせた。
「平気よ、櫂。私、今すごく楽しいの。全然眠くないし。
自分が動いた分だけ、誰かの未来に繋がってるって実感できる。こんなにやり甲斐のあること、他にはないもの。
今日ね、真壁さんが褒めてくれたの。
佐々木さんに聞いたんだけどあまり褒めることはしない人なんですって。
私すごくない?」
無理をしているわけではない。楽しいのも事実だ。
だけど櫂には弱音を見せたくなかった。
失望されたくない。
……さすがだと、褒めてほしい。
「真壁…?あぁ、コンサルの…。」
櫂の声の温度が、すっと1度下がる。
彼はゆっくりと近づいてくると、椅子の背もたれに手をつき、茉莉を背後からすっぽりと包み込むような体勢になった。
「……彼が、あなたを褒めた…」
静かな声だが、その奥にはチリッとした――隠しきれない嫉妬が見え隠れしている。
「あなたが有能で、誰よりも努力していることに気づくとは、確かに見どころはありますね。……ですが」
櫂の長い指が茉莉の頬にかかる髪をすくって、拗ねたようにもてあそぶ。
「私がいない間に、他の男があなたの努力を一番近くで独占し、あまつさえその誇らしい笑顔を引き出していると思うと……あまり、面白くはありませんね」
仕事中のクールな彼からは想像もつかない、分かりやすいヤキモチ。
茉莉は少し驚いた後、思わずふふっと吹き出してしまった。
「櫂、もしかして妬いてる?」
「……ええ。妬いていますよ。大人げないと、わかっていますが」
眉間に微かなシワを寄せて素直に認める櫂が可愛くて、茉莉は彼の手を自分の頬にそっと押し当て、目を閉じた。
「大丈夫。真壁さんは確かに可愛がってくれてると思うけど、完全に『部下』としてよ。それにね……」
「それに?」
「真壁さん、奥様と娘さんを溺愛してるの。
スマホの待ち受け、フリフリのドレスを着た5歳くらいの女の子なのよ。
ちょっと話題にしてみたら『死ぬほど可愛い』とか『うちの娘は天才で』とかすっごく親バカなの」
「……そう、ですか」
それを聞いて、櫂は小さく息を吐いた
「なぁに、露骨にホッとした顔しちゃって」
「笑わないでください。私はあなたに関することだと余裕がなくなるんです。
…しかし真壁さんがそうでないにしても、妻子がいたって構わず手を出してくる不届きな輩はゴロゴロいますからね、気をつけてくださいよ」
「わかったわかった。もう心配性なんだから…。」
櫂は茉莉の言葉に、ふう、とため息をつく。
「まあそれはともかく」
茉莉のノートパソコンに手を添える
「…もう0時です。夜更かしは良くない。
今日はもうあと10分だけ。その後は寝る準備をすること。寝不足は翌日のパフォーマンスに響きますから。いいですね?」
「……。はーい。わかりました」
「いい子です」
櫂は茉莉に優しくキスをして寝室へ向かった
数日後の昼下がり。
茉莉は、本社ビルから少し歩いた場所にある緑の豊かな公園のベンチに座っていた。
膝の上には、近くのベーカリーで買ったサンドイッチと、紙コップのコーヒー。
どこかの店でランチをとる気分にはなれなかった。
──ミスをした。
大したことじゃない。
発端は、ひとつのスケジュール管理の甘さだった。
すぐにリカバーに動いたはずだった。
なのに、そのひとつの綻びを引きずるようにして、確認漏れ、メールの誤字、他部署への連絡の遅れ……と、まるでドミノが倒れるように、小さなミスがいくつも続いてしまった。
どれも致命的なものではない。
周りのスタッフたちも、連日のハードワークを知っているからこそ「気にしないでください」「こっちでカバーできる範囲ですから」と、むしろ気を遣って笑って許してくれた。
けれど、その視線の奥に一瞬だけ混じる『やっぱりな』という無言の空気を、茉莉は敏感に感じ取っていた。
──それが、たまらなくショックだった。
周りの優しさが、今の茉莉にはかえって針のように突き刺さる。
櫂の言うとおり、詰め込みすぎたのかもしれない。
こんなこと、これまでなら絶対にあり得なかったのに。
誰にも負担をかけたくなくて、 全部自分で確認したくて。
結果、 判断ミスや連絡漏れが起こった。
「自分のキャパを知るのも勉強です。周りにも頼りなさい。君が倒れると皆が困るんですよ。」
真壁にもたしなめられた。
(………ダメだなぁ、…私…)
少し冷めかけたコーヒーをこくりと飲みこんだ。
(……美味しい)
その瞬間、不意に張り詰めていた肩の力が抜けた
お腹の底の方に少しずつ少しずつ溜まってくる小さな疲れ。
焦り、悔しさ、重責、ストレス。
それが頭に、喉に、胸に、靄のようにまとわりついて澱になって重なり、
知らないうちに石のように固くなってどろどろとした淀みの中に詰まっている。
手元の紙カップに、零れ落ちた木漏れ日が穏やかにきらめいていて、余計に自分が惨めに思えた。
ずっとこらえていたはずの涙が、
その泥濘の中から否応もなくこみあげる
……だめ、泣きそう。
その時だった。
「あれ……? 茉莉さん? 茉莉さんじゃないですか?」
少し離れた場所から明るい声が響いた。
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには茉莉と同じようにベーカリーの紙袋を提げた、男女の姿があった。
麗奈と、
──稜真だった
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茉莉、ちょっとひとりで頑張りすぎちゃったね😢
