#56『薄明』第10章:道程④
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深夜二時。
高層マンションに仕事を終えた櫂が帰宅する。
浴室から微かな水音が止み、寝室のドアが静かに開いた。
シャワーを浴び終えた櫂が、タオルで拭いただけのまだ湿った髪のままベッドに滑り込む。
「…………。櫂……?」
シーツの擦れる音に、浅い眠りの中にいた茉莉が目を覚ました。
「すみません……起こしてしまいましたか」
櫂の低く、疲労の滲んだ声。
暗闇の中、彼の手が茉莉の頬を柔らかく撫でる。
「おかえりなさい。……今日も、すごく遅かったのね」
茉莉は身体を起こし、彼の濡れた髪にそっと触れた。
指先から伝わる彼の熱。
一日中、外で神経を削ってきた証拠だ。
「明日が休みなので、少し残業が重なりました。
……明日は、一緒に過ごしましょう。どこか、行きたい場所はありますか?」
「櫂……疲れているんだから、明日はゆっくり過ごして。
私もここにいる」
茉莉は彼の顔を自分の胸に抱き寄せる
櫂は一瞬目を見開いて、そして目を閉じ、茉莉の柔らかな胸の中で深く呼吸をした
「……ありがとうございます…。疲れが…溶けていくみたいだ」
茉莉は幼子をあやすように櫂の背中をとんとんとたたく
「ねえ櫂……私あなたの身体が心配。少し、働き方を考えて?
何でも一人で背負おうとしないで……お願い」
「……。……そうですね。
少し、走りすぎました。……すみません」
櫂は降参するように吐息をつき、茉莉を優しく抱きしめ返した。
「確かに…今日も部下に言われました。しかもおそらく彼らを遅くまで付き合わせてしまった…。
私の今のやり方は良くないかもしれないですね…。少し見直してみます」
「素直でよろしい」
茉莉は少しふざけて櫂の頭をよしよしと撫でる。
彼女の体温が、凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。
「……この前ね、実家へ行ってきたの。美智子さんのお歳暮選びを手伝いに」
腕の中で、茉莉が最近あったことを話し始める。
美智子との穏やかな会話。
日当たりのよい母の部屋。
そして――そこで見た、あの古い資料のこと。
「母の部屋でね、昔の資料を見ていたの。中学生の時の櫂の記録もあるのよ。」
「そうなんですか…。」
「ねえ……
櫂のご両親のこと、聞いてもいい?……どんな方たちだったの?」
ふとした、けれどずっと聞きたかった問い。
櫂は天井を見つめたまま、遠い記憶の扉を静かに開いた。
「そうですね……。
……ひと言で言えば、とても仲の良い夫婦でした」
懐かしむような、穏やかな声。
「父は仕事に一生懸命で、社長…旦那様のことを心から尊敬し、心酔していました。
……そして何より、母のことをとても愛していた。
子供心に、二人の間に流れる優しい空気を感じていたのを覚えています。幸せでした。
……不謹慎かもしれませんが、あの日、二人が一緒に逝けたことを、今は良かったと思うくらいです」
櫂の腕に、少しだけ力がこもる。
「……駆け落ちをしてまで一緒になった二人の血を、自分も受け継いでいるのだと、最近よく思うんです。
もし私が、あなたとの関係を誰にも認められない状況に置かれていたとしたら……。
きっと私もあなたを連れて、両親と同じ道を選んでいた。
そうならなかったのは……旦那様の温情ですね。」
櫂は茉莉を見ながらやさしく微笑んだ
「両親を亡くした後も、私はすぐに旦那様と奥様に拾われました。
……2人にもきちんと、愛されて育った。
だから、私には父と母が二人ずついると思っているんです。
……私は、幸せ者です」
失った愛と、与えられた愛。
その両方を携えて、彼は西園寺の剣になった。
茉莉は、彼の孤独の深さと、それを包み込もうとした亡き母の祈りを思い出し、そっと彼を抱き返した。
この人の隣に、ずっといたい。
守られるだけではなく、いつかこの重みを分かち合えるようになりたい。
その夜、二人は窓の外に降り積もる静寂に守られながら、深い眠りに落ちていった。
…
そうして慌ただしく過ごした年末年始を越えた頃、
ある一通の手紙が二人の間に波紋を呼ぶ
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櫂、ちゃんとドライヤーして寝なさいよ
