#18『薄明』第4章:名前を呼んで③
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リモートで仕事をしていた櫂は、1日中そわそわと気持ちが落ち着かなかった
茶話会でおそらく茉莉は噂話の格好の餌食になるだろう
彼女が一人で戦っている時、自分は側にいてやることも、その盾になってやることもできない。
それが不安で、歯がゆかった。
カチャリ、と玄関の扉が開く音が響いた
「ただいま」
現れた茉莉は、出かける前と少しも変わらない、整った姿のままだった。
茉莉の帰りを待ちわびていた櫂は跳ねるようにデスクを立ち、彼女を迎えた
「おかえりなさいませ。お疲れ様でございました」
「うん。あぁ、疲れた〜。
着物、脱いでくるね。悪いけど櫂、お茶淹れてくれるかしら。喉乾いちゃった」
「かしこまりました」
普段と全く変わらない茉莉
外では西園寺の令嬢として完璧な立ち振る舞いを見せるが、家では少し天然な一人の今時の女性だ
彼女が自室へ入るのを確認すると、櫂はハーブティーを淹れながらスマートフォンを手に取り美智子へ電話した
『……はい。あら櫂、珍しいわね、どうしたの?…ああ、茉莉さんのことでしょう』
「はい…、お嬢様の様子に変わりはありませんでしたが、あんなことがあったばかりだったので少々心配で…」
美智子は櫂の懸念を察すると彼の不安を和らげるように話し始めた
『そうね、あなたが心配していた通り一部の奥様方が少しばかりね…。
でもね、茉莉さん立派だったわよ。誰を責めるでもなく、ただ凛として稜真さんの誇りを守ってみせたの。
主催の奥様も、あの子の立ち振る舞いに感銘を受けていらしたわよ。……ええ。気丈すぎて、私も気圧されるくらい』
「……。そうでしたか。」
櫂は、安堵よりも先に胸を締め付けるような疼きを感じたが、気品を失わず外野を黙らせる茉莉の芯の強さには敬意を感じずにはいられなかった
(……ああ。やはり、あなたはそういう人だ……)
その強く美しい気高さこそが、自分の魂を縛り続けているのだと再確認せずにはいられない
美智子はふふ、と笑った
『相変わらず過保護ね、あなたは。茉莉さんはあなたが思うよりずっとしっかりしてますよ』
カチャリとドアが開き、ラフなワンピース姿に着替え、髪を下ろした茉莉がリビングに入ってきた
「電話してたの?美智子さん?」
茉莉が尋ねる
「ええ、お嬢様がどれほど立派に振る舞われたか、誇らしげに語っておいででしたよ。…お疲れではありませんか」
「別に、普通よ。……少し、お茶の席が長引いただけ」
茉莉は淡々と答える。
櫂はそっと氷で冷やしたハーブティーを差し出した
「……九条様のことを、守られたのですね」
茉莉の手が、一瞬だけ止まった
「…守っただなんて、そんな大袈裟なことじゃないわ。……ただ、彼が選んだ道の正しさを、私は知っているから…。それを他人に汚されるのが、少し癪だっただけ」
そう言って、茉莉はふいと視線を逸らした
「……それより」
茉莉はハーブティーをひと息に飲んでグラスを置いた
「……櫂。ひとつ、お願いがあるんだけど」
櫂は茉莉からの予期せぬ言葉に少し意表を突かれ背筋を伸ばした
「はい…何でしょうか、お嬢様」
「それ。……その呼び方、もうやめない?」
「え?」
その言葉の真意を測りかねて、思わず上擦った声が出た
「その…この前のことが、あったし…
今までみたいに執事としてではなくて…、
……これからはあなた自身として、私の隣にいてほしいと思ってるの
……だから、もう『お嬢様』って呼ぶんじゃなくて……対等な形で…私の名前を呼んで」
「……、」
櫂は、動揺した
かなり、うろたえた
「………。わ…かりました…」
西園寺家に引き取られてから約20年、ずっと呼び続けてきた呼び名だった。それを今から─
いや違う、呼び名のことではない
そこじゃなくて──
「執事としてではなく、私自身(櫂)としてそばにいてほしい」──という茉莉の言葉
嬉しさと困惑とがない混ぜになって狼狽し、それをはぐらかすために何度か咳払いをする
「……で、では…茉莉、様」
「『様』もよして」
グッと喉がつまった
「………。それ…では……、……
茉莉……」
口にした途端、慣れなくて赤面する
「うん…。それでいい」
茉莉も少し赤くなってうつむくと、「お茶ありがとう」と小さく一言告げパタパタと自室へ戻っていった
茉莉が部屋へ戻る足音が遠ざかるのをしばらく動かずに聞いていたが、扉が閉まる音を確かめると緊張を解くように息を吐いた。
胸の奥からこみ上げてくるものを抑えきれず、櫂は片手で口元を覆った。
「……参ったな…」
気づけば、口角が緩んでしまう。
止めようとしても、どうしても止まらない。
「……茉莉」
誰もいないリビングで、静かにその名前をもう一度口にして、櫂は再び顔を染めた
ついに名前呼び!
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