見出し画像

#17『薄明』第4章:名前を呼んで②



前回のお話はこちら


美智子と茉莉を乗せた車は都心から少し離れた丘の上に建つ旧侯爵家の邸宅へ向かった

明治の終わりに建てられた和洋折衷の館で、重厚な石門をくぐると、広い庭園が広がっている。

春になると、庭の中央にある樹齢百年を超える枝垂れ桜が見事に咲き誇ることで知られている。
この家では、長年桜の頃に小さな「観桜の集い」を開く習わしがあった。

樹齢を重ねた見事な枝垂れ桜が、薄紅色の滝のように庭園を彩り、微風が吹くたびに花びらが茶席の朱の帛紗をかすめていく。

「…ごめんなさいね、まだ落ち着かないだろうに…。
でも茉莉さんが来てくださって良かった。
主催の奥様も皆さんも、あなたの参加をとても喜んでいらしたのよ」

隣を歩く美智子が、少し申し訳なさそうに、しかし自慢の娘を見るような慈しみの笑みを浮かべながら言う。

茉莉は微笑んで答えた

「大丈夫です。毎年楽しみにしている会ですもの。」

美智子の言う通り、茉莉が歩を進めるたび、周囲の視線が吸い寄せられるように彼女を追う。

その恵まれた容姿だけに留まらない所作の美しさと付け焼き刃ではない教養に裏打ちされた華やかで気品のあるオーラが、見るものを惹きつける圧倒的な引力となって茉莉を纏っていた

亡き母から譲り受けた訪問着を完璧に着こなす彼女の姿は、まさにこの春の庭の主役だ。

だが、静かな琴の調べが流れる平穏な空気の中に、毒を含んださざなみが混じるのに、そう時間はかからなかった。

「……あら、西園寺の。……まあ、お元気そうで安心いたしましたわ」

薄茶をいただく合間、声をかけてきたのは、旧華族の血を引く初老の婦人たちだった。

彼女たちの扇の向こう側で交わされるのは、季節の挨拶よりもずっと刺激的な、ある名家の没落について。

「それにしても、東都キャピタルの九条さんは……本当においたわしい。お父様だけでなく、ご長男まで検察が動いているとか……」

「お屋敷も、軽井沢の別荘も差し押さえだそうですわね。
稜真様も、今はどちらかの弁護士が用意した……それは手狭なアパートに移られたとか」

上品な言葉の端々に、隠しきれない好奇の棘が混じる。

婦人の一人が、探るような、同情を装った瞳を茉莉に向けた。

「でも、茉莉さん。あなたにとっては、本当に『結婚前で良かった』わね。
あんな泥沼に引きずり込まれるなんて、想像しただけでも恐ろしいわ。神様が守ってくださったのよ、きっと」

その場にいた数人の視線が、一斉に茉莉に集中した。

「可哀想な婚約破棄の被害者」として、あるいは「運良く逃げ切った賢い令嬢」として。彼女たちは茉莉に、同意や安堵の溜息を求めていた。

茉莉は、膝の上で重ねた指先に、ほんの少しだけ力を込める。

しかしそんなことはおくびにも出さず静かに顔を上げ、この庭に咲く桜のように完璧に美しい微笑みを浮かべた。

「お心遣い、恐縮に存じます」

鈴の音のように清らかな声。彼女は、肯定も否定もせず、ただゆったりと静かに答えた。

「九条様は、ご自身の信念を貫くために、何よりも『誠実さ』を選ばれた方です。
その尊い決断を、私が運不運で計ることなど、とても……。

ただ、今日のこの桜のように、彼の歩む道にもいつか穏やかな光が差すことを、一友人として静かに願っておりますわ」

「……、……左様、でございますわね」

隙のない、誰も傷つけないその切り返しに、婦人たちは一瞬言葉を失った。

稜真を恨んでいるわけでもなく、かといって未練に縋っているわけでもない。

ただ、かつて自分を選ぼうとしてくれた男の尊厳を、茉莉は気高く守ってみせた。

そしてそのまま運ばれてきた主菓子に目を落とし、にこやかな笑みをたたえ

「…お菓子、とても可愛らしいですわね。春の訪れを感じます」

話題を鮮やかに、上品に切り替える。

周囲の大人たちは、茉莉の放つ圧倒的な「格」に押されるように、それ以上九条家の名を出すことができなくなった。

一時の愛よりも深い、敬意という名の決別

それを貫く茉莉の背中は揺るぎなく、誰よりも凛として美しかった。



続きはこちら


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集