#16『薄明』第4章:名前を呼んで①
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4月
春の柔らかな日差しが差し込む部屋で、茉莉は一人、鏡の前に立っていた。
滑らかな絹の長襦袢を纏い、衣紋を抜く。
彼女が手にしたのは、春の霞をそのまま染め上げたような訪問着。
おはしょりを指先でスッと整え、胸元の合わせを決める。
舞踊で鍛えた体幹があるからこそ、着崩れを防ぐための紐の強弱を茉莉の指は完璧に覚えていた。
続いて銀地に淡い金や若草色の糸が浮き上がる唐織の帯を手に取る。
重厚な袋帯を、茉莉は力むことなく、流れるような動作で太鼓に結びあげていった。
帯締めは全体を引き締める瓶覗の平組、
帯揚げには、春の芽吹きを感じさせる若菜色の絞りを選んだ。
仕上げに、鏡に映る自分の姿を厳しくチェック。
「……よし」
桜の花びらが一枚、肩に落ちても絵になるような、静かな気品がそこにはあった。
鏡の前で、茉莉は背中まで流れる黒髪を一つに束ねると、澱みのない動作でそれを捻り上げ、後頭部へとおさめていく。
真珠を一粒あしらった銀のコームをそっと差し込むと、携帯電話が短く鳴って美智子からのメッセージを受信した
「あと5分ほどでそちらに着きます」
茉莉は生成りに淡い銀糸を織り込んだ小さな和装バッグを手に取った。
帯の唐織と響き合うその光沢が、装いに柔らかな格を添えていた。
茉莉の持つ着物はそのほとんどが亡き母から譲り受けたもので、だからこそ袖を通すと背筋が伸びる
身なりを整え部屋を出るとリビングで櫂と鉢合わせた
「櫂、それじゃ行ってくるわね。帰りも実家の車で送ってもらいます。櫂も…お仕事頑張って」
櫂は、薄紅藤の訪問着を纏った茉莉の、春の光そのもののような神々しい姿に思わず息を呑んだ
「……?…どこか、変かしら」
櫂の様子に少しだけ不安になって茉莉は尋ねた
これから訪れるのは旧家の庭園で開かれる観桜茶会だ
表向きは桜を愛でる茶話会だが、実際には文化人や名家の人々が顔を合わせる、静かな社交の場でもある。
少しでも失礼があってはならない
「あ…いえ」
櫂はハッとして目を伏せ、そして再度、茉莉の瞳を愛おしげに見つめて言った
「その…、あまりにあなたが美しくて。見惚れました」
「えっ?」
櫂のストレートな言葉に茉莉の頰がぱっと桜色に染まる
「…、あ……、それは…どうも…ありがとう…」
面食らってしどろもどろになりながら玄関に向かい草履を履く。
「下のホールまで送ります。奥様にも挨拶をしておきたいので」と櫂が一緒にマンションのエレベーターへ乗り込んだ
扉が閉まると、エレベーターの中は急に静かになった。
二人が並ぶと、互いの袖が触れそうに近い。
ゆっくり箱が動き出すとわずかな機械音だけが響いて下へと降りていく
視線を動かさないまま、茉莉はふと隣の気配を意識した。
櫂はいつものように少し後ろに控えて立っている。隣に出すぎない、いつもの距離。
袖口からほのかに漂う白檀の香り。
呼吸のわずかな気配。
ほんの少し手を伸ばせば触れてしまいそうな、その距離。
茉莉の指先が、帯の前で小さく重なった
以前と同じ、何も変わっていない
……はずなのに。
茉莉は少しだけ横目で櫂を見た。
櫂は前を向いたまま、いつもの端正な表情で立っている。
けれどその指先はわずかに握られていた。
まるで、何かを堪えるように──
櫂がこちらを見る気配がした。
その瞬間、狭い箱の中で二人の視線がぶつかった。
近い。
思っていたより、ずっと。
茉莉は思わず視線を逸らした。
次の瞬間、エレベーターが軽く揺れ、到着を知らせる小さな音が鳴り、扉がゆっくり開く。
櫂はすぐに執事の顔に戻り、静かに手を差し出してエレベーターの扉を押さえながら茉莉を降ろした
「どうぞ」
「ありがとう」
エレベーターを降りると、エントランスのガラス越しに春の光が広がっている。
まぶしい。
白い石の床に、午後の柔らかな陽射しが淡く反射している。
外には一台の黒いセダンが停まっていて、櫂が一歩先に出て、自動扉を開くとふわりと桜の花びらが舞い込んだ。
どこか近くに並木があるのだろう。春の匂いが風に乗って流れてくる。
「お待たせいたしました、奥様」
セダンの後部ドアを滑らかな所作で開くと車内の女性が顔を上げた。
茉莉の父の再婚相手、美智子だ。
艶のある黒髪をきちんと結い上げ、胸元に小粒のパールのネックレスをあしらって上質なスーツを端正に着こなしている。
「いいえ、今来たところよ」
穏やかな声でそう言うと、美智子の視線が茉莉へと移る。
「まあ……」
ふっと、微笑みが漏れ目を細める。
「本当に綺麗ね。春の光をまとっているみたい。お父様が見たら誇らしくて仕方ないわね。」
茉莉は微笑み、軽く裾を整えてから一礼した。
「ありがとうございます。お待たせしてしまいました」
櫂は茉莉へ、そっと手を差し出した。
着物の裾が乱れないよう、支えるための手。
ほんの一瞬の沈黙のあと、茉莉は静かにその手に指先を預けた。
それは執事としての自然な所作――のはずだ。
けれど二人とも、その一瞬を意識してしまう。
茉莉は車に乗り込むと、静かに座席へ腰を下ろした。
櫂はすぐに手を離し、何事もなかったようにドアの外へ下がる。
「どうぞ、お気をつけて」
「……行ってきます」
小さくそう言うと、櫂はいつもの穏やかな表情で頷いた。
ドアが静かに閉まり、車はゆっくりと動き出して、春の午後の街へ滑り出していった。
「…………。ふぅ。」
エントランスに残った櫂は、車が角を曲がって見えなくなると、腰に手を当てふっと息を吐くと、片手で口を覆った
「……やばいな。」
衝動的に茉莉の唇を奪い、お互いの気持ちを曝け出して2人で泣いたあの嵐のような日から既に半月以上が経とうとしていた
あれから表向き2人の関係はそう急には変わっていない。
ただし、間に流れる空気は──
明らかに以前とは違っている
これまで茉莉を愛してはいけない、間違っている、それでも溢れる気持ちに罪悪感を持ち、否定し、隠し続けてきた日々だった。
しかし今は「愛していていい」、それを許されながら側にいる毎日は正直、とてもラクでとても……
何というか、もどかしい。
(ああ…触れたい)
着物の襟足から覗く茉莉の白いうなじが櫂の脳裏に蘇る
あのうなじに唇を寄せ、そして……
(待て待て、まだ、……あの男と別れて間もない…
心の傷も癒えていないはずなんだ……)
ふぅ、と、もうひとつ強く息を吐く
…嫌われてはいないと思う。
怖がられても、いない。
あんなことがあったけれど、それでもそばにいてほしいと許され
むしろ最近は──
櫂は自分の手をじっと見つめた。
彼女の心が自然とこちらに傾くまでこのまま傍にいよう
いつか、桜の花びらが舞い散るように、彼女の心が解けていくことを願って……
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あーーー!もどかしい
