#7『薄明』第二章崩壊②
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その日の深夜、櫂は自室に戻るとサイドボードの奥から一本のウイスキーボトルを取り出した。
厚みのあるクリスタルガラスには宝石のようなカッティングが施され、月明かりを吸い込んで鈍く、しかし気高く発光している。
ラベルには、スコットランドの荒々しい北の大地で半世紀近く眠り続けていたことを示す、古びた威厳のあるフォントで「40 Years Old」の文字が刻まれていた。
封を切ると、長い年月を経て熟成された、バニラと燻製香が混ざり合った芳醇な香りが、静まり返った自室にゆっくりと溶け出していく。
旦那様——征嗣が、「いつかお前の祝い事の時にでも飲みなさい」と手渡してくれた、彼のコレクションの中でも随一の名酒だ。
櫂は、ずしりと重いそのボトルを傾けた。
クリスタルの注ぎ口から零れ落ちる液体は、まるで溶けた黄金のように滑らかで、音もなくグラスの中の氷を濡らしていく。
櫂は、革張りの一人掛けソファに深く身を沈めると手にしたグラスからそれをひと口含んだ
「……うまい。」
普段櫂はいつ何があってもすぐに動けるように、滅多にアルコールを摂らない
しかし今日ばかりはとても飲まずにはいられなかった
――祝い事…か
「……ふっ…」
自嘲気味な笑いが漏れる。
本来なら、これ以上の祝い事はないはずだ。
手塩にかけて育て、守り抜いてきた主君の娘が、相応しい伴侶を得て、幸せを掴もうとしている。
手元にあるクリスタルグラスをじっと見つめていると
その中で、大きな氷がカラン、と寂しげな音を立てて溶けた。
執事として、兄代わりとして、その成長をずっと見守ってきた。
その門出を誰よりも祝福し、完璧な礼を持って送り出す。それが自分の人生の、唯一にして正解のゴールだった
──はずなのに。
まぶたの裏に、かつての茉莉の姿が次々と浮かんでは消えていく
木蓮が散るあの雨の日
幼い茉莉と初めて会った時、彼女は私の手を取って遊ぼうと誘った
好奇心旺盛で賢いだけではなく、茉莉はひどく勘の鋭い娘でもあった
「泣いてるの?」
泣いてなどいなかった
涙は出ていないはすだ
「…泣いてないよ。どうして?涙なんか出てないでしょ」
会ったばかりの女の子にそんなことを言われ少し驚いた
「ふうん…。なんか泣いてるみたいに見えたの。さみしいの?」
茉莉は心配そうに私を覗き込む
汚れを知らない、まっさらで無垢な美しい瞳
その目に見つめられていると、強がるのがばかばかしくなってしまった
こんな小さな子の前で虚勢を張る必要がどこにあるだろう…
「うん…。さみしい」
ポロっと、本音がこぼれる
両親が死んでからこの家に来るまでずっと気を張っていた
不安や恐れが先に来て、寂しいなんて、言えなかった
すると茉莉は黙ってその場からいなくなり、そして大きな箱を持って戻ってきた
「これ、ねえ、おもちゃ、たくさんあるよ?まだ向こうにもいっぱいあるの。
これぜーんぶ出して、茉莉と遊ぼ?そしたらさみしくないでしょ」
絵本もあるし、ぬいぐるみも、アニメのDVDもあるのだと、茉莉は自分の持てる全てで私を励まそうとしていた。
私はそれがおかしくて、
…あたたかくて
その小さな女の子の頭を撫でた
ありがとう。
冷え切った氷のような私の心に射し込んだ
ひとすじの、光
……
陽だまりのようなその女の子は
歳をとるにつれて美しく成長して行った
丁寧に梳き上げられた長い髪は、深淵を溶かし込んだような烏の濡羽色。
ひとたび茉莉が首を傾げれば、絹擦れの音とともに夜の断片がこぼれ落ちるかのように艶めく。
唇は朝露を湛えた薔薇の花びらと見紛うばかりに紅く、言葉を紡ぐたびに柔らかに形を変え、見る者を無意識のうちにその熱の中へと誘い込む。
その佇まいそのものに、雨上がりの百合が放つ芳香のような、抗いようのない慈愛と引力が満ちているのだ。
誰もが彼女を慈しみ、守りたくなる。
しかしその美しさや気高さは皮肉にも茉莉を孤独にした
彼女に惹かれる者は多いが、その深淵まで辿り着く者はほとんど居ない
勝手に近づき、勝手に去っていく
ある者は卑屈になり、ある者は怖気づき、ある者は妬んだ
あるいは茉莉の美しさや若さ、財産に固執した
私はそのような輩にいちいち傷つき、かえって孤独を深めていく茉莉を見ながら、本当の彼女を理解し、愛しているのは自分だけだという自惚れを強めて行った。
いつからだろうか
私がその肌に、その唇に。
触れたいと思うようになってしまったのは。
私の父は征嗣の腹心の部下で、公私においてかけがえのないパートナーであったと聞く
父と母が駆け落ち同然で結婚する時もその費用を用立てし、事故後は親族に変わり荼毘に付してくれた。
つまり、親子してあの人には返せないほどの恩があり、頭が上がらないのだ。
そんな征嗣を裏切るわけにはいかなかった。
どんなに茉莉を愛し、求めていても、絶対に、絶対に、それを誰にも悟られてはならない。
どんなに好きで、苦しくても、指一本触れない。自分を騙し続ける毎日。
そんな状態でも一緒にいたかった。
この場から離れることより、茉莉の側にいられなくなることのほうが耐えられないのだ
鬱屈された歪んだ欲情を発散させるため、名も知らぬ女たちと肉体関係を持ったことも一度や二度ではない
身体的なエネルギーが放出されてもなお、心はむしろ惨めに沈んだ
彼女の幸せを誰よりも願っているくせに、同時に彼女がどこにも行かず自分の側に居続けることを願っている
(何という身勝手なエゴ……吐き気がする)
今までのすべてがこの手からこぼれ落ちていく。
(違う……喜べ。ようやく、解放されるんだ)
心の中で自分に言い聞かせる。
四六時中、自分の醜い愛を、独占欲を、理性の檻に閉じ込め、殺していく地獄のような日々。
それが終わる。
これから、彼女を守り、愛でる役目は別の男が担うのだ。
「……おめでとう、お嬢様」
誰にも届かない祝福を呟き、櫂は残りの酒を一気に煽った。
焼けるような熱さが喉を通過していく
しかし胃の奥にはひどく冷え切った、やり場のない空虚さが澱のように積み重なるだけだった。
溶けた氷が、グラスの底で水となって揺れている。
解放されて──そしてどうなる。
私はあの人の何になるんだろう
何にもなれない。
その先、抜け殻のように、私は生きていくのだろうか
…他の誰かを愛そうと努力して…?
ソファの背もたれにギシリと寄りかかって目を閉じて天井を仰ぐ
今更そんなことが出来るだろうか
長い時間そうしていたが、
答えはいつまでも出ないまま
夜だけが更けていった
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