#8『薄明』第二章崩壊③
前回のお話はこちら
(あ…。既読になってる、良かった)
私は朝起きてすぐにベッドの中でサイドテーブルに置いたスマートフォンを手に取って、稜真へのメッセージが既読になっているのを確認した
深夜か早朝か、とにかく私が寝ているうちに見てはくれたようだ
(…きっと昨日は忙しかったのね)
稜真がすぐに返事をくれないのは珍しいな、とは思ったが、あまり深く考えずに私はスマホを元あった場所へ戻してリビングへ向かった
そこでは既に身支度を整えて、朝食の準備を始めようとしている櫂がいた
「おはようございますお嬢様。
…今日は少し早いですね」
「ええ、なんだか目が覚めちゃって。
櫂こそ昨日は夜遅くまで起きていたようだけど、ちゃんと寝てる?」
昨日なかなか寝付けなかった私は夜に水を飲みにキッチンへ向かった際、櫂の部屋から明かりが漏れているのに気づいたのだ
「…あぁはい…、少し気になる仕事が残ってまして。…寝てますよ、ちゃんと」
「ふぅん、珍しいね。いつも『最高のパフォーマンスは規則正しい生活から』って言ってるのに」
私はマグに白湯を入れて飲みながらリビングの椅子に座る
「今日の朝ごはんフレンチトースト食べたいなぁ」
ああいけない。またつい櫂に甘えてしまう。
櫂はいつもの様子で「かしこまりました」と言うと冷蔵庫から牛乳や卵を取り出した
「…結婚すると櫂のフレンチトーストもなかなか食べられなくなっちゃうね」
私がしんみりそう言うと櫂は
「教えましょうか」と言った
「フレンチトーストは多少大雑把に作ってもそれなりのものが出来上がりますから、お嬢様でも上手に出来ると思いますよ」
「……。何だかちょっと嫌味を言われた気がするけど、そうね。教えてもらっておいたほうがいいかも。」
私は立ちあがってキッチンの櫂の隣へと向かった
「よく考えると、私にとっての『母の味』って、ほとんど櫂の味ね」
「母…」
櫂の手が、空中でピタッと止まった。割ろうとした卵を持ったまま、何とも言えない虚無の表情で石のように固まっている。
「……。いいでしょう。お望み通りこの母の味、直伝しますよ。あなたが嫁ぎ先で困らぬようにね。」
「……ちょっと櫂、拗ねてるの?」
茉莉は笑いをこらえて櫂の表情を覗き見る
「拗ねてません。確かに、早く起きろと言い、早く寝ろと言い、今の生活態度も母の如く心配しています。ええ、もう母で結構です」
「そんなに怒らなくてもいいじゃない(笑)」
「怒っていません。さあ、『母の秘伝』を教えますから、しっかり見ていてください」
櫂は自虐的に言いながらボウルに卵を割り入れた
「やっぱり怒ってる〜!ごめんごめんお母さま」
櫂は一瞬、眉間に深く皺を寄せたが、すぐに諦めたような溜息をついた。
…こんなふうに軽口をたたきながら櫂と過ごせるのもあとどのくらいなんだろう
そんなことをぼんやり考えながら、私は櫂とフレンチトーストを作っていった。
✣
その日の夜も、次の日の朝も、稜真からの返信はなかった。
それを茉莉は「忙しいのだろう」とあまり気に留めずに過ごしていたが、
違和感を感じたのは次に送ったメッセージにも長く既読がつかなかった時だ
父の退院日が決まり、その報告をした。
朝、目が覚めて一番に確認した画面。
前日送ったメッセージの横には、まだ「既読」がついていない。
(……おかしい。いくら忙しくても、画面を見ないなんてことあるかしら…。
それに退院が決まったら改めて父に挨拶をしたいと言っていたのに、あの稜真さんがこんなにも返信を返さないなんて…)
そう思い始めると急にそわそわと気持ちが落ち着かなくなってきた
──何かあった?
私の文面、どこか失礼だったかしら…
ぐるぐると思い巡らせていると夕方いつの間にか『既読』がついていた
ホッとする反面、なぜ返信をくれないのか多少むっとした気持ちにもなる。
「…。お嬢様、どうかされましたか」
櫂が仕事の合間に、私の様子を見て尋ねた
どうかしたかと言われると、どうもしていない。
「…ううん、別に…。何でもないんだけど」
……だけど違和感が残る
「稜真さんからメールの返事が来ていなくて…ただそれだけ」
櫂は「そうですか」と、あまり興味が無さそうに言う
「電話をされてみては?九条様ほどの立場の方ですから、何か仕事の急なトラブルで身動きが取れないだけかもしれません」
櫂の意見に、少し心が軽くなる。そうなのかもしれない。
「そうよね……。でも変に急かしてしまうのも悪い気がするし、もう少し待ってみる」
私はもう一度「忙しい?無理はしないでくださいね」と短いメッセージを送った。
しかしそのメッセージにも翌朝まで既読がつくことがなかった
……さすがにおかしいのではないだろうか。
私は耐えかねて、その日の夜、リビングの隅で通話ボタンを押した。
プルルル……、プルルル……。
静かな部屋に、電子的な呼び出し音だけが規則正しく響く。
「……出ない」
1分近く鳴らし続けたが、結局自動音声に切り替わった。
茉莉は不穏な気持ちでスマホを置く。
それを見つめる櫂の視線に気づき、慌てて取り繕った。
「あの……きっと接待か何かでお酒を飲んでいるのかも。稜真さん、そういう時スマホを見ない人だから」
「…そうですか。」
櫂は今度は少し心配そうに言った
「しかし、珍しいですね。あの九条様がこんなにも連絡を寄越さないのは。」
「櫂もそう思う?」
私は櫂の腕に縋った
「こんなこと一度もないの。…何かあったのかしら…」
週末になっても、稜真からの折り返しは一度もない。
あのバレンタインの夜から既に1週間以上経っている
追い打ちをかけるように、送ったメッセージさえ昨日は全て未読のままだ。
(どうして……?)
茉莉はもう一度電話をかける。
プルルル……。
繋がってはいるのだ。通知も行っているはずなのだ。
なのに、応答しない。
「お嬢様。……もし九条様と連絡がつかないようであれば、明日の朝一番で、私と一緒に直接あちらのマンションへ伺いましょうか?」
櫂もさすがに異変を感じてそう提案する
「え……?」
その言葉に、茉莉は救われたような、けれど恐ろしい現実を突きつけられるような複雑な感情を抱いた。
「……ありがとう、櫂。明日まで待って、それでも繋がらなかったら……お願いするわ」
一体何があったというのだろう
お願いだから『仕事が忙しくて連絡出来なかった、ごめん』って
何でもないように言ってほしい
茉莉はその夜、鳴らないスマートフォンを枕元に置きながらほとんど眠ることが出来なかった。
……翌朝、あまり頭がハッキリしないままベッドから起き上がりリビングへ入ると、櫂がテレビの前に立ったままリモコンを強く握りしめていた
「櫂…?おはよう。どうしたのそんなに熱心にテレビを観て…」
茉莉の声に、櫂が弾かれたように振り返った。
その瞳には、かつて見たことがないほどの困惑と、深い同情の色が混じっている。
「……お嬢様。落ち着いて…こちらを」
促され、茉莉は画面に視線を移す。
そこには、連日バラエティや天気を報じているはずの番組が、神妙な面持ちのキャスターを映し出していた。
画面の下部には、信じられない文字が躍っていた。
速報──
【速報:九条グループ中核企業「東都キャピタル」、粉飾決算の疑いで強制捜査
本日付で法的整理を申請】
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※この物語はフィクションです
実在の人物、団体には一切関係ありません
