#7薄明スピンオフ『九条稜真の恋』
こちらの物語は、先日完結した長編恋愛小説『薄明』の番外編(スピンオフ)ですが本編をお読みになっていない方でも単体でお楽しみいただける内容になっていますので、本編未読の方もぜひ気軽にお読みください。
前回のお話はこちら
薄明スピンオフ:九条稜真の恋 第7話
「……これからは、お互いに名前で呼び合いませんか? 稜真さん」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、稜真の胸の奥が、ぎゅっと甘く締め付けられた。
たった今笑われた恥ずかしさなんて、一瞬でどこかへ吹き飛んでしまう。
それほどまでに、彼女が自分の名前を呼んでくれ、また彼女が理華という本当の名前を呼んでほしいと思ってくれたことが、理屈抜きに嬉しかった。
それは「娼婦と元客」としての境界線を取り払い、ただの男女として互いに存在することを許されたような、特別な響きだったからだ。
「……、そうだね、わかった……。
理華さん」
まだ少し違和感のあるその名前を、稜真は宝物のようにそっと口に馴染ませてみる
理華は嬉しそうに、にこりと微笑んだ。
二人はまずイタリア産のスパークリングワインをグラスで頼み、前菜の生ハムとイチジクのカプレーゼ、そして手打ちのジェノベーゼパスタを注文した。
やがてグラスに注がれたスパークリングが運ばれ、繊細な泡が幾筋も立ち上り、爽やかで華やかな香りがテーブルを満たし始める。
乾杯のグラスが、チリンと繊細な音を立てた。
「私、稜真さんのこと、ずっと心配だったんですよ」
理華が言うその言葉を聞いて、稜真は意外そうに目を丸くする
「……、心配?どうして」
理華が細い指先でグラスの脚を揺らし、光を反射する泡を一口含んだ。
「こんなに純粋で真っ直ぐな方が、一企業の社長としてやっていけるのかなって……。
だって、経営って大変なことが多いでしょう?
多少は図太くなければ、やっていられないですもの。トップに立つというのは並大抵の苦労じゃありませんから。
……だからこそいつも、あんなに疲弊していらっしゃったんだと思いますけど」
「…………。」
図星だった。稜真はグラスを弄びながら、苦笑を漏らす。
「……そうだね、よく言われるよ。甘いとか、お人好しだとか。
周りに恵まれてるおかげで、何とかやれてるけど」
稜真は少しの沈黙のあと、自分の根底にある生い立ちについて、ぽつりと話し始めた。
「……僕は、父と母の間に随分遅くにできた子供だったんだ。
兄とはひと回り以上歳が離れていて、兄が中学生の頃に僕が生まれた。
そのせいか、父からも兄からも……特に母親からは、随分と可愛がられて育ったんだと思うよ。
長男の兄が家も会社も継ぐことが決まっていたから、次男の僕なんて気楽なものでさ。
祖父母にも随分甘やかされて……
人の悪意なんて知らずに育ったところがある」
少しだけ嘆くように、稜真は視線を落とした。
「でも、だからこそ……。父と兄が不祥事を起こしていたときも、僕だけは巻き込まないようにって、彼らは僕を徹底的に遠ざけていたみたいなんだよね。
裁判が始まって、色々な書類を見ているうちにようやくそれが分かった。
……僕としては、知りたかったし、止めたかったんだけどね…」
守られていた、けれどだからこそ遠ざけられ、何もできなかったという無力感。
その切ない告白を、理華は遮ることなく、ただ慈しむような眼差しで静かに頷きながら聞いていた。
「そうですか……」
理華はグラスを置き、まっすぐに稜真を見つめた。
「でも、お話を聞いていて何となく分かりました。
あなたがどうしてそんなに温かいのか。どうしてそんなに人に慕われるのか…。
うんと愛されて育った人って、どこか分かります。
……きっと、みんな日向ぼっこがしたいのかもしれませんね。あなたという太陽の下で」
「え……」
予想もしなかった言葉に、稜真は驚いて顔を上げた。
「そんな……。僕はただの、世間知らずの青二才なだけだよ」
「いいえ」
理華は、今度は明確に、強い口調で否定した。
「私だって、その一人です。
あなたのそばにいると、とても心地よくてあたたかい気持ちになる」
悪戯っぽさの消えた誠実な表情を浮かべて、理華は静かに言葉を重ねる。
「そして……支えたくなります」
真っ直ぐに注がれるその真摯な瞳と包み込むような微笑に、稜真はたちまち顔が熱くなるのを感じた。
心臓がうるさく鳴っている。
(か…、勘違いするな。これは彼女のリップサービスだ。男を喜ばせるための……)
そう自分に無理やり言い聞かせなければ、今すぐ彼女を抱きしめたくなってしまう。
稜真は慌ててスパークリングを喉に流し込み、熱を誤魔化すように運ばれてきた料理を口に運び始めた。
そんな稜真を理華はまぶしそうに微笑みながら眺めている。
少し落ち着きを取り戻した頃、稜真は2杯目にトスカーナ産の軽めの赤をふたつ頼み、理華に気になっていたことを問いかけてみた。
「理華さんの……その、コンシェルジュサービスというのは、具体的にどんなことをするの?」
「…そうですね」
理華はパスタを品よく口に運び、楽しそうに話し始めた。
「ありとあらゆるご要望を承る仕事ですよ。
いわゆる…富裕層向けの”何でも屋”…とでも言うのかしら。
ご家族のバースデーパーティーの企画から、旅のご提案・コーディネート、時にはヘリコプターやプライベートジェットの手配まで。
海外からのお客様の接待をお手伝いしたり、提携している美容クリニックやファッションのご提案をしたり……本当に多岐にわたります。
中でも特に多いのが、やはり旅行のコーディネートですね」
「なるほど……。さっき加納が持っていた切り抜きも、その記事だったのかな」
「ええきっと。若いときはかなり色んな場所に行きましたから、起業の経緯とか、そのあたりのことを中心に書いていたと思います。
本当に、毎日が目まぐるしいほど忙しい仕事ですけれど、お客様の喜ぶお顔が直接見られるので、すごくやり甲斐があるんですよ」
理華は過去を振り返るように、遠い目をしながら微笑んだ。
「学生時代にすごく頭の切れる友人がいたんです。
それでその人と一緒に株式投資を始めて、……時代も良かったんですね、そこでちょっとした財を築いたんです。
その頃に、本当に色んな国を旅しました。
卒業後は一度企業に就職して、数年でトップセールスも経験したんですが…やっぱり自分の理想のサービスを作りたくて、その友人と『リュクスゲート』を起業しました」
そこまで一気に語ると、理華はふと視線を落とす。
「でも会社を立ち上げて間もなく、その友人が事故で若くして亡くなってしまったんです。
最初の10年は、友人の分まで頑張らなきゃってそれこそ1人で寝る間もないほど無我夢中でした。
とにかくがむしゃらに会社を大きくすることだけに、自分のすべてを注ぎ込んできた気がします。
でも、最近になってやっと、後進のスタッフたちにも大きな仕事を任せられるようになってきて……少し、自分自身の働き方や人生を見直しているところだったんですよ」
理華はそこで言葉を区切り、手元のワイングラスをゆっくりと傾け飲み干した。
ルビー色のワインの残り香が、彼女の瞳にどこか寂しげな陰影を落とす。
「仕事も会社も軌道に乗って、少し時間ができたとき……ふと思ったんです。
個人的な、ある『実験』をしてみようかな、って」
「実験?」
稜真が首をかしげると、理華は艶然とした笑みをその唇に浮かべ言った。
「ええ。それが……あの、高級娼婦のお仕事だったんです」
つづく
続きは明日21時頃更新予定です
本編『薄明』を1話から読んでみたい方はこちら
あらすじもあるよ
理華(エリカ)が出てくるのは18章「仮りそめの愛」です
よろしければこちらだけでもお読みくださると、スピンオフをもっと深く楽しめるかも!
イタリアン食べてぇな。
それではまた明日
