#49『薄明』第9章:楽園⑥
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モルディブ、最終日の朝。
窓の外で繰り返される波の音が、今日はどこか名残惜しそうに聞こえる。
目覚めた瞬間に肌を撫でたシーツの感触も、テラスから差し込む眩しいほどのアズールブルーの光も、すべてが今日で「最後」。
茉莉は、櫂が丁寧に淹れてくれた最後のコーヒーを手に取りながら、空になったクローゼットを眺めていた。
櫂もまたラフなリネンシャツの袖を捲り、この場所での最後のひとときを慈しむような表情を浮かべ過ごしていた。
「なんだか、信じられない。
……本当に帰るのね」
「はい…名残惜しいですね……。
ですが、ここでの時間は、すべてあなたの心に、そして私の胸に刻まれています。……失われることはありません」
彼はそう言って、茉莉の肩をそっと抱き寄せ、その額に柔らかなキスを落とした。
ああ、帰りたくない
ここにずっと2人でいられたらいいのに
ヴィラの玄関先で専属バトラーによる精算を済ませ、迎えのバギーに乗り込む。
ガランとした部屋に一礼し、桟橋を離れる時、茉莉は思わず何度も振り返った。
あの場所で、二人は色々な意味でひとつになれた。
その奇跡のような時間が、遠ざかっていく。
忘れない、ずっと。
「フライトは夕方ですね。空港島へ向かった後は、現地のトラベルコーディネーターが合流する予定です」
櫂が、膝の上のタブレットを確認する。
「旦那様や奥様へのお土産選び、それからマレの街歩きを数時間。
せっかくですから、最後までこの国の空気を感じてから帰りましょう」
「そうね、楽しみ。コーディネーターさんは現地の方?」
「いえ、日本人女性だそうです。一番有能なプロをお願いしました。一流のリゾートが提携している方ですから、間違いはないでしょう。」
水上飛行機の心地よい振動が止まり、桟橋に降り立った瞬間、モルディブの湿った熱い風が茉莉の頬を撫でた。
楽園の終わりを告げる、現実の空気。
そこへ、一人の若い女性が迷いのない足取りで近づいてくる。
真っ白なリネン素材のセットアップに、洗練されたサングラス。
長い髪を一つに束ね、手元には最新のタブレット。
「お待たせいたしました、西園寺様!
本日、帰国便までの数時間をサポートさせていただきます、トラベルコーディネーターの加納――」
流暢で、凛とした明るい声。
だが、彼女がゲストである二人の顔、特に隣に立つ男を視界に捉えた瞬間。
「…………えっ?」
完璧だったビジネススマイルが、驚きの顔に変わる。
サングラスを外した大きな瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれる。
「うそ、……もしかして……。黒崎、……櫂さん……!?」
隣にいた茉莉は、櫂の指先が、微かに跳ねるのを感じた。
「……あなたは…」
「やっぱり! 信じられない……こんなところで再会できるなんて!
覚えてます? 私のこと。加納麗奈(かのう れいな)です。5年前の海外プロジェクトでご一緒した……
ああ懐かしい!」
麗奈は、仕事の立場も忘れたかのように、一歩、櫂へと詰め寄った。
「……麗奈、さん。……ええ、もちろん……お久しぶりです。……驚きました」
櫂の声は、努めて冷静だった。
しかし茉莉には櫂の声に混じるわずかな動揺を感じた。
5年前、ちょうど茉莉が大学を卒業する少し前だ。
父に命ぜられ、修行と称して櫂が1年ほど海外に行っていた時のことはよく覚えている。
櫂が居ない日々がとても心許なくて、自分もなるべく色んなことを経験しようと無我夢中だった頃。
「…あ、失礼しました!
あまりの驚きに……。こちらが、西園寺様……でいらっしゃいますね?」
麗奈の視線が、初めて茉莉へと向けられる。
サバサバとした、明るい瞳。
「そうだ! 荷物、まず預かっちゃいますね。空港のラゲッジサービスに預けて身軽になりましょう。マレの街、結構歩きますから!うわぁ、嬉しいな」
麗奈は手際よく二人のスーツケースをスタッフに回し、手続きを済ませていく。
そのテキパキとした無駄のない動き。
「さあ、行きましょうか。
……懐かしいなぁ、櫂さんとこうして並んで歩くなんて。」
麗奈が笑って振り返る。
茉莉は自分の知らない櫂を知っている麗奈にほんの少しだけ嫉妬に似た気持ちを感じたが、麗奈の親しみのある人懐こい口調に取り込まれてしまう。
人に警戒心を抱かせない雰囲気はさすが有能なコーディネーターと言えた
3人は予約してあったタクシーに乗り込みマレのローカルマーケットへ向かう
空港島から首都マレへと続く、海の上に架かる大きな橋。
助手席に座る麗奈が、慣れた様子でバックミラー越しに二人に微笑みかけた。
「本当は行きのお迎えも私が行けたら良かったんですけど急なことだったので急遽空いている現地のコーディネーターを向かわせたんですよ。
しまったなぁ、私が行けてたら滞在中もあちこちご案内出来たんですけど。
モルディブ、楽しまれました?」
にこやかに麗奈が語りかける
「ええ、とっても。こんなに2人でゆっくり過ごすのは初めてでした。それもこんな素晴らしいところで。
ね、櫂。」
茉莉が櫂に微笑みかける。
「そうですかぁ、良かった。」
「あの、…当時の櫂って、どんな感じでした?」
「…っ、茉莉…!」
5年前の知り合いに当時のことを興味深そうに聞く茉莉に櫂が慌てる。
麗奈は前を向いたまま笑って答えた
「あはは、聞きますー?
櫂さん…そうですね、何だか人を寄せ付けない雰囲気、ありましたよねぇ。
どこか影がある感じで…みんなふざけて氷のサイボーグとか呼んでました!
何人か若いメンバーがいたんですけど、まぁ一番とっつきにくかったというか、怖かったです!」
麗奈は少しだけいたずらっぽく笑い、櫂は居心地が悪そうに窓の外を見ている
「でもね、すっごく仕事出来るんですよ。
私は通訳としてご一緒させてもらってたんですけどね。
皆さん語学も堪能でいらっしゃったんですが、ビジネスの場では細かいニュアンスの違いが大きな問題になったりすることも多いので、私も現場によく付かせてもらってて…。
すごい過酷だったけど、櫂さんのおかげでくぐり抜けられた案件も多かったですよ。
日本の威信を背負って、現地の役人と一歩も引かずに渡り合う姿……。
あの時の櫂さんの背中を見て、私はプロとしての覚悟を教わりました!」
ハキハキと楽しそうに話す麗奈に茉莉は「まぁ」と目を輝かせ相槌を打ち、櫂はぼそりと「…褒めすぎです」と一言小さくつぶやいた
タクシーがマレの街中に入り、喧騒が窓越しに響き始める。
麗奈が語る「背中」は、かつて誰かを教え、導き、そして救った……。
それは、茉莉にとって今の自分が受けている愛の形に、あまりにも似ていた。
「さあ、着きました! ここがローカルマーケットの入り口です。
さ、降りましょう。最高のお土産が買えるように、私がサポートいたしますからね!」
麗奈が手際よくドアを開け、眩しい光の中へと飛び出していく。
その後ろ姿を見送りながら、茉莉はそっと隣の櫂を見上げた。
彼は、何も言わずに茉莉の手を取り、いつものように優しく守るように車を降りた。
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新キャラ登場!
