07_稚内滞在・む蔵編(その1)む蔵を見つける
Nong Sukjaiの「ピザ屋のバイクでツーリング」 (2002年・夏・北海道)~
(前の話)
暮れゆく野寒布岬をしばらく眺めるうちに、ぼくの胃袋は完璧に「ウニ」モードになった。
さあ喰うぞ!
楽しみにして食堂「樺太」へ戻ると、なんと、店員の兄ちゃんが店の外に出ていて、のれんを店内にしまうところであった。
嫌な予感がしたが、やはりもう営業は終わりとのことであった。
夜7時ちょうどであった。
兄ちゃんは、明日朝7時から営業を始めますと言ってくれた。
明日出発前にここに来てウニを喰ってもいいのだが、ぼくの味覚神経は朝はまだとぎすまされておらず、せっかくおいしいものを食べてもあまりおいしいと感じない。
だから、おいしいものを食べるなら昼か夜がいい。
やれやれ。残念だが、あきらめよう。
北海道にいる間に、ウニ丼ぐらい、どこかで食べられるだろうし。
それにしても、あの店員の兄ちゃんは、樺太引き揚げ母さんのご子息なのだろうか。
煌々と明るい店内は暗い外からはよく見えたが、件の樺太引き揚げ母さんの姿はなかった。
たまたまだろうか、それとも経営者が代わったのであろうか。
ぼくは稚内の町へバイクを走らせた。
稚内駅付近は、ネオンがあったりして、久しぶりにの夜の繁華街の雰囲気を味わえた。
と言っても、都会の夜の町にくらべると格段に暗いのだが。
ある飲食店の入り口脇に「ウニ丼」の写真が掲げてあった。
値段もそんなに高くはなかった。
ここでもいいかとバイクを停めた。
ここでおとなしく夕食をとって、今夜はすぐ裏の稚内森林公園キャンプ場に泊まるかと思った。
もう疲れてきているし、これがもっとも自然ななりゆきであった。
しかし、ぼくは店の扉を開ける瞬間に思いとどまった。
荷物の中に、JTBの「るるぶ」があるのを思い出したのである。
あたりまえだが、ぼくの胃袋は ウシのように4つもなく、たった1コである。
したがって、一食に食べられる量と消化の速度は限られている。
つまり、移動の多い旅先では、ある一食に失敗して、胃袋を拡張させてしまったとすると、その時点で取り返しのつかない事態が発生したことになり、今後のぼくの人生の後悔のタネになるのである。
世間には食に無頓着な人もいるだろうが、ぼくは頓着する方だ。
食は生きている楽しみの一つだし、軽くはみたくない。
これが食べ物に対する礼儀とさえ思っている。
食べ物も、何も感じない人に食べられるより、涙を流すほどに感激してくれる人に食べられたほうが幸せに違いない。
これは決して高級なものや高いものというわけではない。
値段なんか関係なくても、その時々で、感激して旨いと思う食糧が必ずや存在するのである。
それを見つけるのは、胃袋に対するご主人様の礼儀であり義務であり掟である。
・・・・いろいろ鹿爪らしく書いたが、まあ、一言で言うとぼくは単なる「くいしんぼ」ということなのである。
ちょっとせつなく暗い最北端の港町・稚内の夜。
このどこかで、ぼくに食べられたがっている食糧がきっと手ぐすね引いて待っているはずなのである・・・。
ぼくを待っているその食糧を早く探し出してあげないといけない。
最北端の町まで来て、くだらない店で胃袋を満たすなどの低級な浮気をしては沽券に関わる。
ぼくはバイクの前照灯に照らしつつ「るるぶ」を開いた。

すると、稚内の頁で、この世のものとは思えない、さも旨そうな食糧の写真が目に入った。
20種類を超えるかと思える食材。
炊きたてで湯気が上がっている白いご飯とみそ汁。
新鮮な最北端の魚介の刺身。
焼き魚。彩り豊かな野菜。家庭的な煮物。
ちょっと洋風なスパゲティとメロンなどのフルーツ・・・
なんたることだ! 極楽に違いない!
しかし、その値段は8000円であった。
バカにしている、と思った。8000円も出したらこれだけ喰えてあたりまえ。
そのとき、脇を車が通過した。
「るるぶ」がさらに明るく照らされたとき、ぼくは驚いた。
「800円」
ゼロが1個消えた!
なんども目をパチクリさせたが、その料理の写真のところに、たしかに「800円」と書いてあった。
これだけ喰えて800円!? 夢でなかろか? じっさい、こういう種類の夢はよく見るのだ。
「稚内駅より車で10分」
徒歩旅行なら怖じ気づいたかもしれない。
しかし、今はフットワーク抜群のバイクがある。行くべし!
* * *
「るるぶ」の地図があまりよくなく、道に迷って、暗闇で競歩中のおばちゃんに道を訊いたりしながら、不安が増大しながらも、ようやくその食堂にたどり着いた。
閑寂な住宅街で鈍く光彩を放っている日本建築の『む蔵』。

「へぃ、らっしゃーい!」
暖かい店内にかけ声が響き、カウンターと座敷はほぼ埋まっていた。
外の閑寂な住宅街とは打って変わったにぎやかな雰囲気であった。
ぼくはその幻の「おまかせ定食」を註文した。
「るるぶ」では800円と書いてあったが、850円に値上げしているようだった。
まあ、50円ぐらいどうでもよいのである。
そして数分後、ついに運ばれてきた「おまかせ定食」。

写真で見たのと同じ。いやそれ以上の豪華さであった。
ぼくはメニューの「850円」の数字を何度も指でなぞったり、お姐さんに再度値段を確認したりした。
まるで高級旅館に泊まって出される夕食だと思った。
しかも、それぞれの一品がとても旨い。
さらに、ご飯はお代わりし放題。炊きたての旨いご飯。
旅に出てからこれまでろくなものを食べていなかったせいで、涙があふれんばかりであった。
そもそもぼくの場合、旅に出なくても、家でも毎日ろくなものを食べていないのだ。
つまり、ぼくにとっては何年ぶりかの、豪勢な食事なのであった。
感激せずにはおれない。
そして、これだ、これなのだ、と思った。
今夜、最果ての町・稚内で、まさにこの食卓が、ぼくに食べられたがって、手ぐすね引いてずっと待っていたのだ、と。


次は 08_稚内滞在・む蔵編(その2)クマさん出没の話 に続く。
