「右に曲がって」と言われても、曲がれない人がいた ── 言語と認知、絶対方位で話す人類の話
道案内で「次の角を右に曲がって」と言って、通じない人類がいる。サボっているとか、聞いていないとかではなくて、そもそも「右」という言葉を日常会話で使わない人たちがいる。オーストラリアの先住民の言語にそういうものがあると知って、しばらく頭が止まった。同時に、自分が普段「右」「左」で世界を切っているのが、当たり前ではないことに気づいた。
「足の北に虫がいる」と言う言語
オーストラリアのクイーンズランド州北部、
クックタウンのあたりに、
グーグ・イミディル語という言語がある。
この言語の特徴は、
「右」「左」「前」「後ろ」という相対的な方向の言葉を、
日常会話でほとんど使わないこと。
代わりに使うのは、
東・西・南・北という絶対的な方角だ。
たとえば日常会話だと、こんな感じになる。
・「足の北に虫がいる」
・「あなたは私の西へ移動できますか」
・「カップを机の南東の角に置いて」
最初に読むと冗談みたいだけれど、
本当にこの調子で会話している。
「右に曲がって」と道案内をしたいときは、
「北に曲がって」と言うしかない。
だから通じる相手と通じない相手の違いが、
そもそも言語の構造のレベルで分かれている。
体に方位磁針が埋まっているような状態
この言語の話者は、
室内でも、地下室でも、洞窟の中でも、
常に自分が今どっちを向いているかを把握している。
実験で「東はどっち?」と聞くと、
左右前後を使う人(英語話者・日本語話者など)は、
平均して90度くらい間違って答える。
ところがグーグ・イミディル族は、
13度の誤差で答えるという研究報告がある(Levinsonら、マックスプランク心理言語学研究所)。
ほぼ全員が、
体の中に方位磁針を持っているような状態で、
日常を生きている。
これは「鍛えればできる」というより、
言語が方位を毎秒問うてくるから、
脳がそれに合わせて自動的に方位感覚を保っている、
という構造らしい。
「右に曲がって」が通じる社会と、
「北に曲がって」しか通じない社会では、
脳の使い方そのものが違う方向に育っていく。
「自分の右」は、母語の都合でしかなかった
ここで景色が一段ずれる。
私たちが「右」「左」で世界を切るのは、
それが普遍的な感じ方だからではなくて、
たまたま日本語(あるいは英語など)を母語にしているからだった。
絶対方位を主に使う言語は、
オーストラリア先住民の諸言語、
メキシコのツェルタル語、
グーリンジ語などが知られている。
話者数は減ってはいるが、
「右」「左」を持たない人類は地球上に確実に存在している。
裏返すと、
私たちが「自分の右にあるコップ」と感じている、
あの自然さも、
言語が脳に作った癖に過ぎない。
「自分の右」は、
生まれた瞬間から備わっていた感覚のように見えて、
言葉に育てられた感覚だった。
データで見る「絶対方位言語」
・グーグ・イミディル族の方位回答誤差: 約13度
・左右前後を使う人の方位回答誤差: 約90度
・グーグ・イミディル語の話者の地域: 豪州クイーンズランド州・クックタウン近郊
・絶対方位を主に使う言語の例: グーグ・イミディル語、ツェルタル語、グーリンジ語など
・参考文献: 井上京子(1998)『もし「右」や「左」がなかったら 言語人類学への招待』
自分の「当たり前」を一歩外から見るケースとして
この話の面白さは、
グーグ・イミディル族の方位感覚そのものより、
「右と左で世界を切る私」というのも、
たくさんある世界の切り方の一つでしかないと分かることのほうにある。
ふだん私たちは、
自分の感じ方や考え方を、
ほぼ「人間として自然なもの」として扱っている。
朝が偉い、
人前で話すのが立派、
予定があるほうが充実している、
独立しているほうが大人だ──
こうした感覚は、自分の中から自然に湧いてきたように感じる。
でも、
「自分の右」のような、
もっとも生理的に見えるものでさえ、
言語が育てた癖だったと知ると、
「他の感じ方も、たぶん同じ作りなのではないか」
という疑いが、自然に立ち上がる。
「自分の常識は、自分の中から湧いていない。
たまたま自分が育った場所と言葉が、
そう感じるように脳を整えただけだ」
という見方を、
ひとつの具体例で持っておけるようになる。
これが、たぶんこの記事を読んで残るものだ。
グーグ・イミディル族の知識ではなくて、
自分の常識を一歩外から見るためのケースが、
ひとつ増える。
Q. 子どもの頃にグーグ・イミディル語を覚えたら、私も方位感覚が育つ?
A. 育つ可能性が高いと考えられています。
言語と認知の研究では、母語が方位ベースだと、
幼児期から方位感覚が高度に発達することが報告されています。
ただし、第二言語として大人になってから学んでも、
同じレベルの方位感覚が身につくかは、まだはっきりしていません。
Q. 日本語の方角(「南口」「西新宿」など)とは何が違うの?
A. 日本語にも方角を使う場面はありますが、それは固有名詞や地理表現に限られます。
「右に曲がって」「左の棚」のように、日常の動作や物の位置を表すときは、
ほぼ全員が相対方位(右左前後)を使います。
グーグ・イミディル語との違いは、絶対方位を「日常会話で常に使う」点です。
Q. ほかにも左右がない言語はある?
A. オーストラリアの先住民言語のいくつか、メキシコのツェルタル語などが、
絶対方位を主に使う言語として知られています。
井上京子『もし「右」や「左」がなかったら』(1998年)に詳しい解説があります。
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