予知夢の死角─第2幕 【ミステリー小説部門】(2/4)
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1.再会のレモンティー
まだ少し肌寒い、四月の朝だった。
夕璃子はキッチンの小窓からぼんやりと柔らかな薄青色の空を眺め、フレンチトーストを焼いていた。溶かしたバターがふつふつと、豪雨の夕方の水たまりみたいに波立っていた。卵液が染みた食パンをひっくり返すと、カラメル色に焦げて、まだら模様になっている。
盛りつけたとき、電話が鳴った。
見慣れない番号だったのに珍しく電話に出たのは、──直感だったのかもしれない。その朝、起き抜けにモノトーンの夢を見ていた。夢の中の夕璃子は、だれかに抱きしめられていた。
『今、夕璃子の大学にいる』
少し不機嫌そうな低い声を聞いたとき、体の芯がびりびりと震えるような衝撃があった。
相手は名乗らなかった。
夕璃子も尋ねない。もうだめだった。鼻の奥が熱い。声が滲んだ。ずっと会いたかった。ほかの誰でもなく、慧介に。
「……うん」
なんとかそれだけつぶやいた。
フレンチトーストをかき込む。できたてで舌を火傷した。それからひっつめ髪をほどき、急いで化粧をする。鏡の中の自分は相変わらず冴えないけれど、でも、飛び出しそうな鼓動を抱えながら自転車にまたがった。
大学へ続く長い坂道の両側には、桜が咲いていた。
風の強い日だった。せっかく満開になった桜の花びらが、はらりふわりと空に吹き上げられている。
それはまるで従姉の結婚式で見たフラワーシャワーのようで、とても幸先よく感じられた。
見慣れた正門の前に立っていたのは、妙に存在感のある男だった。
体にぴったりと沿う細身の黒いスーツを着こなしている。
茶色く染めた少し長めの髪の毛は丁寧にセットされており、大学でも、輪の中心にいるような男子と同じ雰囲気。でも、すこしけだるげな夜のにおいがした。
その人が目に入った瞬間、夕璃子はぽかんと口を開けていた。
間違いなく森島慧介、だ。でも。あの人はこんなに美しい顔をしていただろうか。
男の人に美しいだなんて変かもしれない。
でも、それ以外の言葉は思いつかなかった。くっきりした二重のまぶたに縁取られた瞳は、色素の薄い琥珀色をしていて、その奥底まで沈んでいきそうな危うさがあった。どこか酷薄な印象を与える薄いくちびるにも、すっと通った鼻梁にも、たしかに見覚えがある。
でも、この憂いを帯びた色気は。真夏の太陽が似合う、球児といった雰囲気だった彼と同じ人物だなんてとても思えなかった。慧介だと認めるのを頭が拒否している。そういう感じだった。
「……ゆりこ!」
甘い。甘い声だった。冷たい感じの目がやわやわと細められて、夕璃子を見とめていた。
手にはその出で立ちにふさわしくない、コンビニのロゴが入ったビニール袋が握られていた。
そこに入っているのは、たぶん、レモンティー。
「夕璃子に会うために、……来た」
風が吹き上げて、桜の花びらが舞い上がる。
気がつくと夕璃子は、男の──森島慧介の腕の中に固く抱きとめられていたのだった。
2.決別のレモンティー
──なつかしい夢だった。
あの桜の日。世界のすべてが変わるという確信があった、一年以上前の甘やかな記憶。あの時感じた、こぼれそうなくらいの期待が胸を突いた。実際にはなにもはじまっていない。変わらない。ふたりの関係に名前がつくことは、なかった。
夕璃子は、目尻に浮かぶ涙の珠を小指で弾いた。──だめだ。もうこうやってずるずると引き伸ばされるのは耐えられない。好きだから。だから、辛い。
慧介の部屋にはロフトがある。そこに寝転ぶと、天窓がよく見える。夜と朝の狭間。頭上には薄紫色の切なくなるような空が切り抜かれている。時おり、蝙蝠が溺れるように飛んでいくのが見えた。
慧介の腕からするりと抜けた夕璃子は、彼の美しい顔を観察した。うっとりするくらい長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳は、今は固く閉じ合わされて隠れてしまっている。
その瞳がこちらに向けられることに、しばし期待した。
もし、自分が帰るまでに彼が目を覚ましたなら、やめよう、と。でも、身じたくをしても、朝食を作りはじめても、朝の情報番組を眺めながらそれを一人で食べても。
彼は身じろぎもしなかった。
「私に会うために来たって、――どういう意味だったの?」
夕璃子のつぶやきは、朝の静寂にしんと溶けていった。
炊飯器に残った白飯には、わかめとごま油、塩を前混んでにぎっておいた。無骨な白い皿に、焼き魚と卵焼き、ほうれんそうのお浸し、漬物、そして海苔と一緒に移していき、そっとラップをかける。
愛おしい。そして虚しかった。
夕璃子は大きく息を吸って、こちらに向けられた広い背中に目をやる。つつ、とこぼれ落ちてくる涙を手の甲でごしごし拭って、始発の駅へ向かった。
途中のコンビニで、レモンティーを買った。
もうこれで最後だ。そう決めた。高校生のとき、ベンチで薔薇色の夕空を眺めながら口にしたとき、あのとき感じた不思議な高揚感を思い出して、それを乱暴に胸の底に沈めた。
――そうして自分のなかで勝手に決別したのが、一昨日のこと。慧介からの連絡はない。そういえば会いたいときはいつも自分からだったと、夕璃子は自嘲した。
3.名前のない関係
1限の授業は大講堂で行われる。一番前の右端が夕璃子の定位置だった。板書はよく見えるけれど、先生とは目が合いにくい。
提出予定のレポートをファイルから出していると、ふと手元に影が落ちてきた。
「今日のお昼も、モリリンとごはん?」
大崎秋奈だった。
肩につかないくらいのボブヘアを邪魔そうにかき上げながら、夕璃子の弁当包みを見て彼女は言った。
秋奈は栗鼠に似ている。くるくると変わる表情や、小柄で大きな瞳が愛らしい。夕璃子が首を横に振ると、秋奈はわざとらしく口の端を吊り上げた。
「もしかして、別れた?」
冗談めかしてにやにやと秋奈が言う。夕璃子は、ふたたび首を横に振った。
「別れるなんて。――そもそも、付き合ってないもの」
「はあ?」
秋奈は間の抜けた声を出した。
「いつも手をつないでたよね?」
「うん」
「学校終わりは必ずどちらかの家に行って」
「うん」
「お泊まりすることもたくさんあったよね?」
「――うん」
「それで、付き合ってないの?」
夕璃子はうつむいた。
それが、それこそが、慧介と離れた一番の理由だった。自分たちの関係がわからなかったのだ。でも、それを聞いたら、なにかが壊れてしまうような気がして、怖くて問うことができなかった。
そのとき、秋奈の目にうるうると涙の粒が盛り上がった。彼女はなにか言おうとして、言えずにただ夕璃子を抱きしめた。
「秋奈……」
「きょうお泊り女子会しよ?」
「え?」
「あたしが彼氏に振られたとき、──夕璃子がやさしくしてくれたでしょ」
秋奈も少し前に恋人と別れていた。「彼がいない世界を立て直すことなんてできない」と言って秋奈が泣いたとき、夕璃子は、一度だけ街中で彼女と歩いているのを見かけた恋人──岡崎勇貴の線の細い姿を思い出して、不思議に思ったものだった。
冷たくて危うい雰囲気の人だった。でも、秋奈に向ける視線には熱があった。そう思っていたのに。
「とりあえずさ、温泉行ってー、もうお酒も飲めるよね? 飲んじゃお?」
秋奈が濡れた目をごしごしこすりながら言った。
そのとき、忍び笑いとともに、後ろの席にいた女子たちが勢いよく立ち上がり、ばたばたと走っていった。隣の学部の子たち──。彼女たちはまるで獲物を見つけたとでもいうように、爛々とした目で駆けていった。
その先にいたのは、東久世あやみ。
慧介から離れた、もう1つの理由がそこに居た。
東久世あやみは透明感のある白い肌に、すっと通った鼻筋と切れ長の瞳を持つ美人だ。身につけているのは雑誌に載っているような服ばかり。ハイブランドのバッグを持ち、ピンヒールをかつかつと鳴らしながら姿勢良く歩く姿が印象的だ。長い黒髪は手入れが行き届いてつやつやと輝いている。
彼女は、今年のミスキャンパス候補でもある。夕璃子とは真逆の人種だった。
学内には、慧介と彼女が付き合うことを望む人たちが一定数いる。彼女自身もその一人だろう。そして、そういう人たちは、得てして夕璃子に嫌悪感を向けるのだった。
高校のころは、あまり目立たなかった慧介だが、大学生になってからはいつも人に囲まれていた。垢抜けた様相と、ドライなようでいて人情味のある性格に惹かれる人は男女問わず多かった。
それなのに彼は、授業の合間、いつも夕璃子をそばに置いた。
夕璃子はいつまで経っても慣れることができなかった。人の輪の中心へと呼ばれるとき、周囲から向けられる、値踏みされるような視線や、聞こえないようにかわされる嘲笑に。
4.黒の老婆
くもり空が少し暗い、秋の昼間。大学の正門前からそのバスは出ていた。
授業を終えて秋奈と別れた夕璃子は、不思議な高揚を抱えながらバス停に並んだ。確実になにかが変わる。そんな予感があった。
街へ降りていくバスは行ってしまったようだ。一人ぽつんと並んでいると、バスが滑り込んできた。「ああ……」と声が聞こえて、真っ黒な服を着た、魔女のような老婆がよたよたとやってくるのが見えた。
老婆はスーツケースを重たそうに抱えていた。
バスの乗車口が開いたが、夕璃子は運転手に目礼をして、老婆に手を差し伸べた。スーツケースをその手から取り、曲がった背中を支えて先に乗せてやった。
いつもの定位置に座ると、少し前のほうにいた老婆がやってきた。
雪のように白い肌には年相応に皺が刻まれており、まるで魔女のように尖った鼻が印象的だった。
「さっきはありがとう」
老婆はしわがれた声で言った。夕璃子はあいまいに笑う。礼を言われるのには慣れていなかった。
「――悪いことは言わない、あんた、引き返したほうがいいよ」
老婆はひっそりと耳打ちをした。
「え?」
「このバスの行き先。なんにもないんだよ。大方観光だろう。次で降りて、反対側のバスに乗りな。そのほうがきっと楽しいさ」
老婆はからからと笑った。魅力的な提案だった。だって本当は……。でも、それでも夕璃子は、行かなければいけないという謎の確信に突き動かされていた。
静かに首を振る。
「ありがとう、おばあさん。でも、この先に用事があるの」
夕璃子が言うと、老婆はしゅんと子どものようにうなだれた。それから「それじゃあ、いいことを教えてあげよう」とつぶやいた。
「この先で最初に目についたものに、なにか施しをしてやるんだ。いいかい、恥ずかしがるんじゃないよ。それが道を分ける」
「何の話ですか……?」
老婆がそう言い終わったとき、バスが止まった。
山の途中、なにもないような場所だ。彼女はこちらに振り返りひらひらと手を振った。そして、スーツケースを軽々とかついで降りていった。
夕璃子は呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。
『その喫茶店は、山の上にある。電車を降りてから少し歩いた場所だ。途中、右手には広く美しい池と日本庭園が広がっている。
店はこじんまりとしていて、白壁と緑の屋根が目印だ。入って左手の奥、ソファ席の窓からだけ見える、美しい泉がある。なんとも不思議なのだが、曇りの日にだけ翡翠のような色に見えるという。レモネードを頼むのが秘密の合図。翡翠の泉がある中庭への鍵をもらえる。泉の中に、大切なものを一つ投げ入れれば、縁も悲しさも溶けてなくなるのだ。』
予知夢を見てもこの山にやってきたのは、この言葉に突き動かされたからだ。
オカルト系の話をまとめた掲示板で見つけたこの書き込みに、なぜだかわからないけれど、心を揺さぶられた。慧介とのつながりは、もう自分で断ち切ることはできなかった。この執着心を自分で制御できるとは思えない。
かといって、このまま隣に立ち続ければ、きっといつか、自分を失ってしまう。そんな予感があった。後戻りするなら、今しかない。
幸い、この喫茶店には覚えがあった。慧介と一緒にいつか行った場所と特徴が一致するのだ。あのときは、彼の最寄り駅から電車で向かった。駅からは歩いて15分ほどだったか。
それ以外のルートだと、大学へ向かうバスに終点まで乗り、倍の時間──30分ほど歩けば行けそうだった。慧介に万が一にも会わずに行けるのはそちらだけだったので、この一見するとかなりむだな遠回りにすら思える道のりを選んだのだった。
夕璃子を乗せたバスは、静かに終着ターミナルへと滑り込んだ。
窓硝子に映る、冴えない顔の女。ぽってりとした頬に、腫れぼったい一重まぶた、小さくて丸い鼻。東久世あやみとも、秋奈とも、他の大学の子たちとも違う。地味で魅力のない顔だ。
夕璃子が容姿に劣等感を持つようになったのは、慧介が入学してからのことだった。それまでは、平凡なりに気にせずに生きていた。でも、彼は隣に並ぶには異質過ぎた。
バイトがない日は、いつも待ち合わせて帰った。一緒にスーパーで夕食の材料を見繕い、狭いキッチンで料理をして、レポートや課題をもくもくとこなし、それからキスをして、いっしょに眠った。
そんな毎日は、最高に幸せで、もの悲しかった。
慧介が夕璃子に抱く感情がわからなかったのだ。
好きだとも付き合おうとも言われないまま、絡め取られるようにずるずると過ごしていく日々。何度か聞いてみようかと思った。好きだと告げようと思った。
でも、そのたびに。
「みっともない人……」
東久世あやみの言葉が胸を突いた──。
5.賭け
その日は慧介も秋奈もおらず、たまたま一人きりで大学構内を歩いていた。一大行事の直前でレポートや課題に追われていたし、人手不足でバイトのシフトも毎日入っていて、とにかく学校に来るだけでも精一杯という時期だった。
前髪の寝ぐせを気にしながら、夕璃子がうつむいてい歩いていると、前のほうから東久世あやみを含む女子たち10人ほどが歩いてきた。
彼女たちのことは、同じ学部だったら誰でも知っていた。綺麗どころばかりで集まっていて華やかだったからだ。
彼女たちは、まるで学園の女王であるかのように、自分たちに名前をつけていた。「ステラズ」と。当時流行っていた海外の映画「ステラ」。
その映画には、美しい町に暮らす7人の女の子たちが登場する。毎年夏に“星の祭り”が行われ、そこで踊るのが町の伝統。少女たちはその座を目指して日々努力する。ダンスの主役である女神役「ステラ」を目指して。最後にはヒロインが”ステラ”を勝ち取るのだけれど。
秋奈の言葉を思い出す。
「あのねー、夕璃子と仲良くなる前、あたしも”ステラズ”に誘われてたんだけどさ。なんかポジティブ過ぎてこわかったな」
「そうなの?」
「私たち一人ひとりがステラになるんだ! って。だから「ステラ”ズ”」なの」
「東久世さん、そんなこと言うんだ。意外かも」
「いや、あやみじゃないよ。彼女はむしろ、一歩引いて見てる感じがあったな。言い出したのはミドリ。ちょっと狂信的っていうか……あたしは苦手。ってかキライ?」
秋奈が小首をかしげた。
きょうも、ステラズは誰もが美しく装っていた。一人ひとりが女王のように歩いてくる。近づくだけでも気後れした。
どきどきしながらすれ違ったそのとき。ぽつりとこぼされたその言葉がずっと忘れられない。雨音のように冷たくて静かな声だった。
「――みっともない人」
驚いて顔を上げると、東久世あやみと目があった。彼女は顔色を変えることなく、まるで貴婦人がカーテシーをするような優雅さでほほ笑みをまとった。
彼女の声は、たぶん、誰にも届かなかった。
でも、雨つぶが波紋を広げていくように、周囲の女子たちがかしましく囀るのが聞こえてきたのだった。
「ほらあの子」
「森島くんの彼女?」
「本当に?」
「地味だよね」
「せめて、ちゃんと化粧をすればいいのに」
「あの髪もどうにかしたほうがいいよね」
「バイトばかりしてるって聞くから、貧しいおうちの子なのかも~。そんなことを言ったらかわいそうだよぉ」
そうして自分の話題が流れていくのを、ただ見送ることしかできなかった。
夕璃子は臆病にも待っていた。
慧介の口から、愛情が伝えられることを。自分が口にするのでは意味がない。彼が言ってくれないと、自分にはきっと価値がない。そう思えてならなかったのだ。
その日の帰り道、バイト先のガラスに映る自分を見て、ステラズとは違いすぎて、ため息がこぼれた。でもだからといって──。
夕璃子には弟が三人いる。そんな中で、遠く離れた土地の大学に出してもらった。
両親の負担を考えると、なるべく自分で生活費を捻出したかった。バイトに明け暮れても、自分のために使えるお金は雀の涙ほどしかない。家に帰って課題を終わらせると、ぐったりしてしまって、自分を磨くことにまで意識を向けられない。
もちろん、そんなのは言い訳だ。自分を変えることにも怯えているだけ。それはわかっている。でも、――変えたいことが多すぎて、なにから手をつけたらいいのか、わからなかった。
夕璃子は、賭けに負けた。
20歳の誕生日までに好きだと言ってもらえたら。あの朝、慧介が目を覚ましたら。そういうふうに自分で勝手な言い訳を設定して、離れない理由を作ってきた。でも、ことごとく負けてしまった。
慧介から好きだという言葉は引き出せなかったし、あの朝、彼が目を覚ますことはなかった。夕璃子自身では、きっともう、この気持ちをなかったことにすることはできないだろう。
言葉がないまま続く関係は虚しい。
これまでに付き合った恋人たちと過ごすときは、いつも楽しくて、別れるときはすこし寂しいだけだった。でも、慧介と一緒にいると、いつでも胸が痛い。あらゆることが不安になった。
もしも好きだと告げて笑われたら。
慧介が他の人に目を向けてしまったら。
たとえば事故などで彼を失ってしまったら?
一緒にいる時間が幸せであればあるほど、同時に激しい苦しさが胸を突き上げてくる。未来が保証されているわけでもないのに、こうして好きでい続けることに、夕璃子は疲れ切っていた。
だから、手放してしまおうと思ったのだった。
6.尾行
バス停を降りてから、ずいぶんと歩いたような気がする。
秋の初めとはいえ、夕璃子はわずかに汗ばんでいた。リュックからタオルを出して、額の汗を拭う。喉が乾いたけれど自動販売機も見当たらない。
やがて、件の池の横に差し掛かった。
夕璃子の胸はどきどきと嫌な音を立てていた。先ほどから、黒い車がのろのろと横をついてくるのだ。追い越しては止まり、止まっては動き出す。そのくり返しだった。──いやでも、あのモノトーンの予知夢を思い出してしまう。
かと言って、戻る先は人気のない山道だ。
このまま進んだほうがまだましだろう。
そのとき、右手に小さな地蔵があることに気がついた。赤いよだれかけをしたその石像は、愛らしい子どもの顔をしている。
夕璃子はふと、まだ食べていない弁当のことを思い出した。
「お地蔵さん、ルールはわからないから、違ったらごめんなさい。よかったらこれをどうぞ」
夕璃子は地蔵に弁当をそなえ、手を合わせる。
――通らせてもらいます。もしなにかあったら、助けてください。
いまだに残る、朝の余韻を思い出すと、首元がきゅうっとうすら寒くなる。
柄にもないと思いながら静かに祈りを捧げ、そのまま置いておいても迷惑だろうと、弁当を包みに戻して持ち帰ることにした。
しばらく歩くと、日本庭園が見える場所にたくさんの車が止まっていた。人々はそこで車を降り、写真を撮っているようだ。その中には先ほどの黒い車もあった。夕璃子はほっと胸を撫で下ろす。
――よかった、思い過ごしだった。夢のことがあるからって、自意識過剰になっていたのかもしれない。
そうして自分を恥じた。
年配の夫婦がほとんどのその中に夕璃子も混じって、日本庭園の写真をスマートフォンにおさめる。黒い車が道の向こうに消えていくのが見えた。
しばらくして、夕璃子はふたたび歩き出した。
そのとき、ポケットの中の携帯が震えた。秋奈からだった。
「もしもし、秋奈ちゃん?」
『夕璃子! あんた今どこにいるの?』
「紫望山だよ。山の上に喫茶店があって、そこに向かってるところ。でもどうしたの? なにかあった?」
『それが、モリリンが――』
そのとき、誰かが夕璃子の肩を掴んだ。夕璃子は悲鳴を上げ、携帯電話を取り落した。
7.死角
夕璃子の肩を掴んだのは、自転車を押した小柄な年配の女性だった。
「あの、あなたは……?」
サーモンピンクのポロシャツに青いデニム、首元にはオレンジのタオルを巻いた、鮮やかな色彩の人だった。
彼女は口元に指を当てる。
「あんた、どうして一人でこんなところを歩いてるんだい」
夕璃子の問いには答えず、彼女は心配そうに、そして呆れたように言った。
「ここら辺は治安が悪いんだ。あんたみたいな若い娘が一人で歩いたらいけないよ」
「でも、まだ正午です。暗くなんかないですし……」
「そんなこと、犯罪者には関係ない」
女性はぴしゃりといった。
「あんたね、さっきから尾けられてたんだよ。黒い車にね。……ああ。孫が気づかなかったら危ないところだったよ」
夕璃子は血の気がさっと引いていくのを感じた。
「この辺はね、おばちゃんみたいな年齢でも、遠目に見て女だとわかると声をかけられたりするんだ。だから、こうしてすぐに逃げられるように自転車に乗ってる。そうじゃないときは、必ず男と一緒に歩く」
おばさんはそう言って、自転車を指差した。
「この先に曲がり角が見えるだろう。その手前が雑木林で、死角になってるんだ。賭けてもいい。そこにあの黒い車はいる。どうする? 戻るかい?」
「――でも、家に帰るにしても、山道のバス停に戻るか、この先の駅に向かうかしかありません」
「どこへ行くつもりだったんだい?」
「山の上の喫茶店へ」
「――それは……今度にはできないのかい?」
夕璃子は、先ほど取り落した携帯に目をやる。落としたはずみにだろうか、電源が落ちて、画面は真っ暗になっていた。何度ボタンを押してみても、電源はつかなかった。
「――ああ、これなら、喫茶店で電話を借りたほうがいいかもしれないねえ。あそこのマスターは孫の先輩なんだ。気のいいやつがやってるから、安心しな」
夕璃子はそれを聞いてほっとした。
「じゃあ、おばちゃんがそこまで送ってあげる。ここはあたしの地元だから、いざとなったら息子たちもすぐに呼べる。安心しな。でも、帰り道は気をつけなきゃいけない。誰かに迎えに来てもらうか、――警察を呼んだほうがいいかもしれないよ」
「そういえば、そのお店の泉のことは知っていますか?」
「泉?」
女性は首をかしげた。
少しずつ曲がり角が近づいてきた。道なりにゆるやかなカーブを描いていて、なるほど、たしかに隠されるように雑木林が広がっていた。観光地が近いし、時間も早い。何より開けた道だと思っていたけれど、死角は存在したらしい。
「おばさん……!」
「しっ。静かにしな」
夕璃子は黒い車を見つけて、ひっと喉を鳴らした。雑木林に隠れるようにして、道路の右端に車が停められていた。県外ナンバーの車だった。真っ黒なスモークガラスに覆われて中が見えないのにぞっとする。
そして、雑木林側の端には男が立っていた。携帯を片手に煙草を吸っている。二人が通れるのは車と男の間だけ。それはまるで、罠のようだった。
もしも一人でここを通っていたら――。夕璃子は、ごくりと喉を鳴らした。
「決して顔を上げるんじゃないよ。おばちゃんが守ってやるからね」
おばさんは、夕璃子の肩を抱くようにして囁くと、毅然と前を向いて歩き出した。仲の良い孫と祖母に見えているかもしれない。
どきどきしながら男の横を通る。怖くて真っ直ぐに前を向いているから、彼が黒い服を着ていることしかわからない。若いのかそうでないのかも。
舌打ちの音が聞こえた。
夕璃子の鼓動が跳ね上がる。男の顔を見ることはできなかった。伏せた目の端に、よく磨き上げられた黒い靴だけが残った。
ややあって、男はかつかつと靴を鳴らし、車に乗り込んだ。
それからもしばらく、のろのろと横付けされていたけれど、やがて遠くへ消えていった。
「――本当に危なかったねえ。それにしても、県外ナンバーだったね。あんな遠くから……」
おばさんの額にも、汗が一筋伝っていた。
彼女は約束通り、山の上の喫茶店まで夕璃子を送り届けると、手をひらひら振って自転車に乗り、走り去っていった。何度もお礼はいったけれど、名前や住所を聞くのを忘れてしまった。
第3幕へ続く
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