予知夢の死角─第3幕 【ミステリー小説部門】(3/4)
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1.東久世あやみの憂うつ
東久世あやみは、自分の美しさを知っている。
「なんて綺麗な子なんでしょう」
子どものころから、くり返し呪文のように言われてきたその言葉は、彼女の自信と歪みをつくった。いつからか彼女は、自分の心のままに生きるというよりも、周りから見て完ぺきに調和が取れていることばかりを意識するようになっていた。
そんな彼女が嫌っているのは、素材はそこまで悪くないのに、無頓着にしている女だ。そういう女には二種類ある。一つは無害なふりをしている蜘蛛のような女。もう一つは努力を怠っている女。
いずれにしろ腹立たしい。
大学2年になり、彼女はようやく自分の隣に並び立つにふさわしい男を見つけた。森島慧介。田舎の農家出身だというのはいただけないけれど、大学時代だけのお飾りの恋人にふさわしい、華やかな容姿を持っていた。
この大学に受かるくらいだから、頭のほうもそれなりに良いだろう。
そう思って近づいたのに、彼は他の男とは違った。冷めたような視線を向けられて、あやみは戸惑った。
森島慧介の隣には、いつも嫌いな女が控えていた。石倉夕璃子。色白のもっちりした肌に、よく見ると奥二重の瞳は垂れ目で優しげな印象だ。ぽってりとしたくちびるは、口紅がきっと映えるだろうに、化粧っ気がほとんどない女。
決して素材は悪くなかった。でも、皆が競い合うように自分を磨いている大学の中では埋没してしまっている。そして、いつも自信なさげにはにかんでいるのも、森島慧介が向ける愛おしげな視線も、なにもかも許せなかった。
東久世あやみの朝は、夜明けとともに始まる。
目を覚ますのは、東の空が白みはじめるころ。身体に染み込んだ習慣だから、特に目覚ましは要らない。まだ外は少し暗いけれど、カーテンを引き、朝の澄んだ空気を部屋に取り込む時間が彼女は好きだった。
一杯の白湯を飲み、体を動かして温める。ひと汗流したらシャワーを浴びて外出着に着替え、黒いシンプルなエプロンを身に着けて、朝食作りに取りかかる。
パンは血糖値が上がりにくいライ麦パンを選ぶ。女性の場合は鉄分が不足しがちだから、意識して鉄分を多く含む牛肉やほうれんそう、あさりをメニューに組み込むことが多い。今朝は玉ねぎと人参、あさりで作るクラムチャウダー。それに生野菜をたっぷり刻んだサラダと、フルーツを添える。
ただ食べないだけだと、美しく健康的に痩せることはできない。市販品や外食は脂質も塩分も多いから、あやみは極力自分で料理をするようにしていた。
朝食をいただくころ、ちょうど朝日が顔を出す。
音のない静かな部屋で、あやみは黙々と食事を口に運んだ。一時間ほどかけて丁寧に化粧をほどこし、部屋の片づけと掃除を済ませたあと、スニーカーを履いて家を出る。一人暮らしのアパートから大学までは歩いて三十分ほどだ。これが適度な運動になる。
校門をくぐったら、そこから一番近い化粧室へ向かう。風で乱れた髪の毛を整え、メイクを直し、スニーカーを脱いでピンヒールの靴に履き替えた。
一限の授業がはじまる少し前のことだった。同じ学部の細川ミドリが駆け寄ってきたのは。彼女は嬉々として「モリリンとあの女って付き合ってないらしいよ」と報告してきた。心底どうでもいいと思ったが、あやみはやわらかいほほ笑みを作って「そうなんだ」と告げた。
授業の間もミドリはぺちゃくちゃと喋り続けている。――ああ、ノートがまとめられない。
苛々したけれど、あやみはそれを顔には出さなかった。
次の講義は退屈だった。
出席していれば単位をもらえる授業なので仕方なく出ているが、この教授の話はつまらない。話題がどんどんずれていき、気がつくと雑談で終わっていることがほとんどだからだ。
あやみはぼんやりと視線を外へ投げた。ふと、正門前のバス停にあの女が一人で立っているのを見つけた。
いつもと同じ、自信なさげに丸まった背中が憎らしい。素材が悪いわけでもないのに、努力を怠る女はきらいだ。それに、ああいう人は、御しやすそうに見える。だから、歪んだ執着を持つ、性質の悪いやつが寄ってくるのだ――。
「本当に、みっともない人」
あやみは、心の中でつぶやいた。
それにしても、なにをしているのだろう。あちら側のバス停に並ぶ学生は基本的に居ない。山頂で下ろされるからだ。
あやみの実家があの山のほうにあるけれど、それでもバス停からはかなりの距離を歩かねばならない。あちらに知り合いでもいるのだろうか。
あれこれ思案しているうちに、バスが滑り込んできた。あの女は魔女のような容姿の老婆に手を貸している。
――あの老婆は、どこからやってきた?
何もないところから急に現れたように思えて、あやみは目をまたたかせた。
老婆に礼を言われているのだろう、ここからだと表情はよくわからないけれど、あの女がはにかんでいるように見えた。そういう顔もできるのかとあやみが感心しているうちに、バスは静かに走り出した。
そして、その後を黒い車がついていくのが見えた。
あやみは、なんとなく嫌な予感を覚えた。ふだんなら気にもとめなかったと思う。でもなぜだろう。前にも見たことがある──? あの女がひとりで歩いているときに、校門のそばに停めてあった車からじいっと見ている男がいた、ような。
机の下で祖母にメールを送る。あの女の服装と特徴、気になる車があったことを書いた。
二限目が終わったときだった。
森島慧介が息を切らして駆け込んできた。彼は、あの女とよく一緒にいる大崎秋奈に詰め寄った。あの女の所在を問い詰めているらしい。大崎が困惑しながら電話をかけている。森島の凄みに気圧されてか、彼女は誤って通話をスピーカーに切り替えてしまった。
紫望山にいるという間延びした声が、悲鳴になった。ガツッという鈍い音がして、電話が途切れた。それから何度かけても繋がらない──。大崎は泣き出し、講堂は騒然とした。
森島は顔色をなくしている。
ミドリは身体をくねらせながら「警察に電話したほうがいいんじゃない?」と目尻を下げた。その顔には明らかに嬉色が滲んでいる。感情を隠すことをやめたあやみが侮蔑のまなざしを向けたが、予期せぬ出来事に心を弾ませているらしいミドリがそれに気づくことはなかった。
そのとき、コートのポケットで携帯が震えた。祖母だった。
石倉夕璃子を見つけたとの知らせを見て息をついた。あやみはそのとき初めて、自分がひどく緊張していたことに気がついた。
メールには、石倉夕璃子が怪しげな男に尾けられていたこと、そして山頂の喫茶店まで送り届けたことが続けて記されていた。あやみは乱暴にノートやレジュメを取りまとめ、ピンヒールを脱ぎ、スニーカーに履き替えると、座り込んだ森島の元へ向かった。
2.森島慧介の怠慢
美術教師の佐藤が死んだのは二年前の夏の終わり。森島慧介が浪人生活をしていたころだ。
佐藤のアパートには縁側があった。
彼のことを思い出そうとすると、いつも浮かぶのは丸眼鏡をかけて、何やら本を片手にそこで将棋を打っている姿だった。一人でやって楽しいのかと問うと、佐藤はじゃあ一緒にやってくれと笑う。慧介には将棋の経験がなかったので、首を振った。
慧介は、そのことを今でも後悔している。わからないのならば、佐藤に教えを乞えば良かったのだ。
だから、暇を持て余して立ち寄った図書館でたまたま再会した佐藤が「うちへ来たらどうだ」と、声をかけてくれたのは僥倖だった。
慧介は、佐藤のアパートで日中を過ごすことが多かった。
子どものころから、幽霊の類を見たり、予言めいたことを口走ったりする慧介を両親や兄たちが気味悪がっており、もともと折り合いが悪かったこともある。家は慧介にとって安心できる場所ではなかった。
定年を迎えていた佐藤には、学校にいたときの偏屈な芸術家然としたところが見当たらなかった。もともと、慧介や夕璃子の前では優しかったが、今ではどこにでもいる弱々しく気のいい爺さんという感じだった。
「森島は、石倉をどう思っているんだ」
あるとき、佐藤がぽつりとこぼした。慧介は狭い台所に立ち、卵を溶いているところだった。
「んなこと、こっ恥ずかしくて言えるかよ」
「せっかく受かっていた大学を蹴ってまで、あの子と同じところに行くんだろう。どうしてあの子が受ける大学を知らなかったんだ? 聞かなかったからだろう」
「――地元を離れるなんて思わなかったんだ」
ぷいと顔を逸らす慧介を、佐藤は手のかかるいたずらっ子にするようなほほ笑みで見つめた。
慧介は佐藤のほうに向き直らず、視線を手元に落とした。日中一緒に過ごさせてもらう代わりに、慧介は料理を提供することにしていた。
今日は海老とレタス、卵のチャーハンに、にんにくを利かせたわかめスープだ。
炊きたてのごはんは必要な分だけ器によそってフライパンのそばに置いておく。レタスはちぎり、冷凍のエビは一度火を通しておいた。それから調味料も計量してまとめておく。チャーハン作りで大切なのは流れるようなスピードだ。
よく熱したフライパンに油をひいて、卵を流し込む。まだほとんど生の卵の上に、温かいごはんを入れる。この工程はとにかく手早く行うのが大事だ。他の材料も加え、炒め合わせていく。醤油を加え、最後に酒をほんの少し加えて蒸らすようにする。
そうすると、べたつかず、ぱらりとしたチャーハンができあがるのだ。
「おまえは、昔の私のような後悔をするなよ」
佐藤は何度も同じ話をしていた。毎回噛みしめるように言うと、仏壇の遺影に顔を向けた。
「気持ちを伝えないのは、怠慢なんだ」
そこにあったのは写真ではなく、精緻に描かれた肖像画だった。亡くなったと聞いている年齢ではなく、彼のなかに一番印象的に残っている時代を思い出して、佐藤自身が描いたのだと思われた。髪の毛一本まで、丁寧に描かれていた。
「はいはい」
慧介は気のない話をした。
「……チャーハンできたぞ、佐藤センセ」
慧介はほかほかと湯気の立つ皿を、使い込まれた丸い卓袱台に並べた。
別れは突然だった。
その朝も、いつもと同じように佐藤のアパートへ向かった。
何度インターホンを鳴らしても返事がない。郵便受けから覗くと、室内で佐藤が倒れているのが見えた。
すぐに大家と救急車を呼んだ。でも──間に合わなかった。
佐藤には頼れる親戚も子どももいなかった。弁護士だと名乗る人から、ささやかな遺産があると告げられたときは驚いた。辞退しようと思ったが、学費と生活費に充ててくれと、いつ書いたのか、震える文字の手紙も残されていた。慧介はその夜、ひと晩中泣いた。
今さらになって佐藤の言ったことが深く突き刺さった。確かに怠慢だった。伝えることが大切なのは、恋愛に限らない。もっと伝えるべきだったのだ。佐藤に、感謝の言葉を。
慧介は翌日から工事現場での仕事を始めた。身体を動かしていると、あの朝、佐藤の亡骸を見つけたときの衝撃や後悔を忘れられた。
遺産には手をつけないことにした。幼なじみの紹介でホストのバイトも始めた。気がつくとずいぶん垢抜けていた。昼間は勉強に打ち込み、夜は仕事をする。そんな生活を一年ほど続けて、無事に大学に合格した。
同級生の友人の友人……と、伝手をたどって、ようやく石倉夕璃子の電話番号を得られたのは三月に入ってからだった。メモを何度も握りしめた。すぐにはかけられなかった。気味が悪いと思われそうで、不安だったのだ。
そして入学式の日、ようやくここまで来られたという勢いに助けられて、正門の前で電話をかけた。
しばらくすると、風で髪を見出した、化粧っ気のない女が自転車で坂道を登ってきた。彼女は桜吹雪に包まれており、さながら映画のワンシーンのようだった。餅みたいにうまそうな頬が、高校のころと変わらないのが嬉しくて、慧介は精一杯の告白をした。
「おまえに会うために来た」と。
その朝、慧介が目を覚ましたのは昼前だった。一緒に眠っていたはずの夕璃子の姿がない。
テーブルの上には朝食が用意されている。部屋もきちんと整頓されており、洗濯まで済まされていた。慧介は朝が苦手で、しばらくぼんやりしていたが、朝食を口に運んだときにはすでに冷めていた。
彼女がいないことを疑問には思ったものの、授業に遅れないように先に行ったのだろうと、楽観的に考えた。
おかしいと思いはじめたのはその夜だった。大学でも夕璃子の姿を見かけない。夕飯の材料を買って夕璃子の家を訪ねたものの、部屋は真っ暗で、自転車はあるのにインターホンを鳴らしても誰も出なかった。
夕璃子のマンションの前には喫茶店がある。そこで閉店間際まで待ったけれど、夕璃子が戻ってくる気配はない。不安に思いながらも、終電の時間となり、行く宛てもなく家に戻るしかなかった。
翌朝の目覚めは最悪だった。夕璃子が殺される夢を見たのだ。叫びながら飛び起きて、手元の時計をたぐりよせると11時を少し過ぎたところだった。
高校生のときと同じように、それは確かな予感だった。
部屋着のまま、寝ぐせも直さずに慌てて大学へ向かい、夕璃子を探す。彼女の姿はどこにもない。夕璃子の友人を見つけて電話をかけてもらう。紫望山の喫茶店に向かっているということはわかったが、電話は悲鳴で途絶え、そのまま繋がらなくなった。
もう手遅れだ。直感的にそう思った。慧介がへにゃりとその場に座り込んだとき、袖を強く引かれた。
「石倉さんがさっき会ったのは、うちのお婆ちゃんだと思う」
華奢な女が慧介を見下ろしていた。何度か話しかけられたことのあるその女は、綺麗な顔立ちをしているけれど、人を見下したような視線が嫌で、無視をしていた奴だった。
彼女はいつもの人形めいた表情を崩して、「二限の授業中、山のほうに行く石倉さんを見たの」と言った。
講堂がしばしざわめく。
「その後を黒い車がつけているような気がした。――ただ、今思うと、自分でもどうしてそんな突拍子もないことを考えたのかわからないけれど――それでお婆ちゃんに見てきてもらうように頼んだのよ。紫望山には私の実家がある。女の子がひとりで歩くには少し危ない場所も多い。ふいに死角になる場所があるの」
東久世あやみは、一息でそう言った。
「お婆ちゃんからメールがあった。彼女はそこで男に待ち伏せされていたそうよ」
ひゅっと喉が鳴るのがわかった。
「落ち着きなさい。お婆ちゃんが目的地まで送っていったから事なきを得た。でも、――気になることがあるの」
3.大崎秋奈の失恋
大崎秋奈は大学のバイク置き場に立っていた。美貌の男にヘルメットを手渡す。森島慧介は、緊張した面持ちでそれを受け取りながらも、手慣れた様子で頭にかぶった。
「バイクに乗ったことあるの?」
「今、免許を取ろうとしてる。あんたこそ、――似合わないな」
そう言われるのは慣れている。秋奈は、自分がしなさそうなことをするのが好きだった。それはある意味ジョークのようなものでもあり、彼女なりのレジスタンスでもあった。
見た目で判断されるのが嫌だったから、見た目からは想像もできないようなことをしたいと常々思っているのだ。そしてそれは恐らく、あのときの失恋が影響していた。――自分を変える。
あのときと似た状況を作り出すことにこだわっているのかもしれない。
正門を出て山のほうへ向かう。
秋奈は実家暮らしで県内に住んでいるが、こちらのほうまでは足を伸ばしたことはなかった。進めば進むほど、寂しい情景が広がっていく。
そういえばこの先のどこかに、心霊スポットとしてバイク仲間がよく行っているトンネルがなかっただろうか。ふとそう思い至ると、秋奈はぶるりと身震いをした。
やがて、夕璃子が降りたであろうバスの終着ターミナルに差し掛かった。そこには誰もいなかった。家どころか、建物さえない山道が続くばかり。彼女はこういう場所だと知っていて降りたのだろうか。
それとも、少し不安になっただろうか。
秋奈はひどく後悔していた。夕璃子の様子は普段と違っていたのだ。
いつも一緒にいた秋奈じゃないとわからないくらいささやかな違和感だったけれど。いつもより目に光がなく、それでいて興奮したような感じがあった。
そして、一年以上付き合ってみて、彼女が思い詰めると突飛な行動を起こすこともなんとなくわかっていた。
本当は、もっと話を聞くべきだったのではないだろうか。――彼女がそうしてくれたように。夕璃子の家で過ごしたあの夜がなければ、秋奈はきっと、立ち直るのにもっと時間がかかっていただろう。
入学式で隣の席になったことから知り合った石倉夕璃子は、化粧で誤魔化さない、素材の良さがある顔立ちをしていた。講義のときは一番前の席を選び、真剣にノートを取る生真面目な子だった。そして、おっとりした優しい子だった。
この一年半、いつだってそばにいたのに――。秋奈は不甲斐なさを感じていた。
「秋奈ちゃんみたいにかわいかったらよかったのに」
いつだったか、そう言って弱々しく笑ったことに、彼女の本心が隠れていたのではないだろうか。
そのとき、秋奈は少しだけむっとしていた。夕璃子には素材の良さがあったからだ。勉強にはあんなに努力を重ねるのに、自分の見た目には何も投資しない。それが不思議であり、怠慢に感じられて、彼女に対して唯一好きになれないところでもあった。
秋奈が今の秋奈になるまでには、厳しい日々が必要だった。
秋奈は高校生のころまで、ひどく太っていた。
肌にはいつも吹き出物があり、いくら洗っても消えない。子どものころから友だちが出来た試しがなく、いつも蔑まれていた。そうなるともう、負のループである。人が怖い。根暗でおどおどしていたため、最初は話しかけられることがあっても、だんだん人は離れていった。
そうしてますます自信をなくし、クラスでの折り合いも悪くなっていった。
彼女を変えたのは、当時家庭教師をしていた岡崎勇貴。この大学の先輩にあたり、当時は一年生だった。
岡崎は、線が細く、色白で、端正な顔立ちをした男だった。十人いたら八人は振り返る。そういうタイプだったと思う。それまでの秋奈にとって、そういう男というのは天敵だった。
秋奈の容姿や態度をからかうだけで済めばいいほうで、ひどいと暴力を振るわれることまであった。だから、彼が家庭教師としてやってきたとき、はじめに持った感情は警戒だった。
ところが彼は、秋奈を見て嫌悪感を表すようなことは一切なかった。
どこまでも淡々とした表情に、虚をつかれた。岡崎は論理的に話すのに長けていて、説明はわかりやすく、地頭が良かった。毎回、五分の休憩を取っていたのだが、そのときの他愛もない話も面白く、だんだん、秋奈は彼に心を開くようになっていった。
そしていつだっただろうか。自分の容姿についての悩みを話した。
「変わりたいのか?」
彼は穏やかに聞いた。秋奈はうなずいた。すると彼は「磨き甲斐があるな」と笑ったのだ。
岡崎は、いろいろなことを秋奈に教えた。
二人三脚のようなダイエットをして二十キロ痩せた。彼はわざわざ栄養学の本やトレーニング理論の本などを買い込み、自分なりに研究して、メニューを組み立ててくれた。家庭教師の範疇を超えていると申し訳なくなったけれど、彼は「趣味だからいいよ」と笑った。
体重が落ちてくると、それだけで周りの目は変わった。悩んでいた吹き出ものも消えた。
次の段階は髪の毛と化粧だった。彼は行きつけの美容院に秋奈を連れていき、美容師と相談しながら髪型を考えてくれた。それまでは黒くて重たい髪の毛をずっと伸ばしていたけれど、思い切って肩下までのボブヘアにした。コスメを買いにデパートに付き合ってくれたこともあった。
一緒に過ごすうちに惹かれ合い、恋人同士になったときは、夢のようだった。
けれども、秋奈が周りに容姿をほめられるようになったころ、ふいに飽きたようにふられてしまった。大学一年の夏だった。顔を見ることもなく、電話で一言「飽きたから別れよう」と告げられただけだった。
岡崎もまだ大学にいるはずだけれど、キャンパスが違うので、会うことはない。
失恋したあと、泣き腫らした目のまま大学に行ったのは、どうしても提出しなければいけないレポートがあったからだった。
普段とは違い、素顔の目元を伊達眼鏡で隠した秋奈に、夕璃子は恐る恐る、言葉を選びながらといった様子で事情を訊いた。声をつまらせた秋奈に気がつくと「今日、うちに泊まっていかない? 実家からお菓子をもらいすぎちゃって」と笑った。
それから席を外して、電話をかけにいった。
当時付き合っていた人との、記念日デートを断ったのだということも、それがきっかけで彼氏と別れたということも、知ったのはだいぶ後になってからだった。
夕璃子の家には何度か来たことがあったが、秋奈は通学組で自宅が近いので泊まったことはなかった。
生活感のあまりない、清潔感があってシンプルな部屋は、彼女の印象によく合っていた。
家具はベッドとテーブルに小さなテレビしかなく、日用品やテキストなどは備え付けの収納にきっちり整理されてしまわれていた。実家の自分の部屋は、子どものころから集めてきたぬいぐるみやカラフルな雑貨で溢れているので、最初は不思議に思ったけれど、慣れてくるととても快適だった。
「ごはん作るから、ちょっと待っててね」
彼女は白いエプロンをつけて、髪の毛を後ろでひとつにくくった。丁寧に手を洗って、冷蔵庫から食材を出して、ワゴンに並べる。
秋奈は、夕璃子が出しておいてくれた数冊の雑誌をぱらぱらとめくりながら、寝転んでいた。
ベランダの網戸から、夏のむっとした空気が吹き込んでくる。空はまだ明るく、薄い青色の中に少しずつ金色が混じってきているような感じだった。蜩の声が物悲しく響いていて、せり上がってくる涙を手の甲で乱暴にぬぐった。
手慣れた様子でどんどんおかずが出来上がっていく様子は、さながら魔法のようだった。
その夜のメニューは肉豆腐に春菊のナムル、ブロッコリーとトマトの和え物、かぼちゃサラダだった。せっかく誘ってくれたのだから話そう――そう思うものの、何から切り出していいのかわからず、他愛もない会話が続いた。
「人と一緒にお風呂入るのって抵抗ある?」
夕食のあと、洗いものをしながら夕璃子が尋ねた。
「なんのはなし……?」
歩いて五分ほどのところに銭湯があるのだと言う。なんだ。びっくりした。彼女が用意してくれたタオルや着替えを持って、銭湯に向かった。
時間は20時を少し過ぎたくらいだったが、さまざまな年代の人がいて、銭湯はずいぶん混んでいた。
家族旅行で温泉に行ったことはあったけれど、銭湯に入るのは初めてだ。ただ広いだけのお風呂だと思っていたのだが、そうではなかった。電気風呂やサウナ、露天風呂にジェットバスなどいろいろあってわくわくする。
汗を流して、熱いお湯に浸かると、張り詰めていた気持ちも身体もすっきりしていくのを感じた。
番台でコーヒー牛乳を二本買って、ごくごくと飲み干すころには、自分の過去のことも、彼のことも、すべて話し終えていた。すべてのお風呂を堪能すべく長湯をしてしまい、ふたりとものぼせていたけれど、それも楽しかった。
そして、ずいぶんと心が軽くなっているのを感じた。
同じ話を、すでに姉や妹にはしていたけれど、そのときは逆に心が冷えた。
二人から返ってきたのは辛辣なアドバイスだったけれど、夕璃子は時折相づちを打ちながら、寄り添うように聞いてくれたからだったのだと思う。
夕璃子の家に戻る途中で、コンビニに寄った。秋奈はビールを、彼女はジンジャエールを買った。
それから、ダイエットをはじめてから食べずにいたポテトチップスを3袋に、ショートケーキもカゴに入れた。――でも、レジに並ぶ前に、結局ポテトチップス1袋だけにとどめた。
岡崎とがんばってきたダイエットがすっかり習慣になっているのを感じて、悲しくなった。
秋奈がラグの上でぬいぐるみを抱きしめながらごろごろしている間に、夕璃子は手早くおつまみを何品か作って持ってきた。
「ピザ?」
「そう。餃子の皮にね、具材をいろいろ乗せて、トースターで焼くだけなの。パリパリしておいしいでしょう?」
そう言って彼女はおっとりとほほ笑んだ。
餃子ピザにはいずれもチーズがたっぷり乗っていて、ピーマンとコーンとトマトケチャップ、焼き鳥とコーン、チーズだけが乗っていてはちみつがかかっているものの三種類が用意されていた。
それから、ポテトチップスのポテトサラダ! 半分分けてほしいと夕璃子がいうので、なんだろうと思っていたけれど、荒く砕かれたポテトチップスをマヨネーズで和え、塩と胡椒で味つけしたもののようだった。ツナとコーンが入っていて、塩気があっておいしかった。
小さなピザをさくさくと頬張りながら、ビールをごくごくと流し込む。夕璃子はその様子を眺めながら「私も早くお酒が飲みたいな」と言った。
「私、地元で好きな人がいたんだ。なんとなくうまがあって、よく一緒にいた人。でも、告白する勇気が出なかったし、向こうがどう思っていたのかはわからなかった。――今は彼氏もいて楽しいんだけどね」
田園地帯を進んでいく。大きな池の横を通り抜け、東久世あやみが言っていた“死角”に差し掛かる。慧介の身体が強張った。
――あのとき話していた“好きな人”は、慧介のことだったはずだ。
ああ言って笑った夕璃子の顔が、本当はさみしげだったのに、秋奈は気づいていた。それに、森島慧介が入学してきて、お酒が飲めるようになってからは、彼のいない日に一人でバーに通っていたことも。どうしてもっと聞かなかったのか。そう思うとやるせない気持ちになった。それに、慧介の鈍さにも苛立ちを覚えた。
「どうして夕璃子と付き合わないの?」
――そんなに取り乱すくらいなら。森島慧介からは返答がない。同じことをくり返し問おうとしたところ、彼はやっと口を開いた。
「――いや、付き合ってるよ」
彼は、質問の意味がわからないといったふうに答えたのだった。
4.山の上の喫茶店にて
『その喫茶店は、山の上にある。電車を降りてから少し歩いた場所だ。途中、右手には広く美しい池と日本庭園が広がっている。
店はこじんまりとしていて、白壁と緑の屋根が目印だ。入って左手の奥、ソファ席の窓からはだけ見える、美しい泉がある。曇りの日には翡翠のような色に見えるという。レモネードを頼むのが秘密の合図。翡翠の泉への鍵をもらえる。泉の中に、大切なものを一つ投げ入れれば、縁も悲しさも溶けてなくなるのだ。』
夕璃子は、白壁と緑の屋根の建物の前に立っていた。
カーテンが閉まっていたので定休日なのかと思ったが、中からグレーのエプロンをした男性が顔を覗かせた。男性というだけで先ほどの恐怖が蘇り、一瞬身体が硬くなった。でも、どこか懐かしいほほ笑みと柔らかな物腰を見て、不信感を持つほうが後ろめたく感じられた。
「今日はもうお客さんが来ないと思っていたから閉めようと思ってたんです。こんな立地でしょう、平日はあまり人が来ないんですよ。すみません、どうぞ、中にはいってください」
男性はにこやかにドアを開けてくれる。
カフェエプロンが妙に似合わない、細身で色白の、綺麗な顔をした人だった。夕璃子は無事についたことに安堵して、頷き、男性の後に続いた。案内されたのは、まさに翡翠の泉が見えるという席だった。
窓はブラインドで覆われており、外の様子は見えない。
温かみのある手書きのメニューに目を通す。
ツナサンド、スモークサーモンとディル、玉子サンドの3種のサンドイッチ。ゆで卵がついてくるらしく、喫茶店らしさを感じさせた。夕璃子は「スモークサーモンとディル」と心の中でつぶやく。お店のメニューを再現して作るのが趣味なのだ。
ケーキは日替わりで1種類。今日のケーキはザッハトルテだという。それから飲みものがいろいろ。コーヒーが種類豊富であるほか、ココアやホットミルクといったメニューもあった。そして、こんなときでもレモンティーという文字に心惹かれてしまう自分がいることに気がつき、夕璃子は少し恥ずかしくなった。
目的のレモネードのほか、帰りの体力を残すためにもなにか食べものを注文することにした。せっかくなので本日のケーキをお願いする。夕璃子の言葉に、店の男性は一瞬困ったように眉を下げた。
閉める予定だったと言うし、もしかすると、仕込みが終わっていないのだろうか。申し訳なく思って注文を変えようとしていたら、男性は頭の中で計算でもしているかのように一旦目線を外し、「うけたまわりました」と感じよく言った。
長い一日だった。夕璃子はふう、と長く息を吐いた。
いろいろなことがありすぎて、少し疲れている。頭もぼんやりしてきたようだ。
そのとき、夕璃子は不思議に思った。ブラインドの隙間から覗いた窓の外に、泉らしきものが見えなかったのだ。
そこに広がっているのは、まるで絵の具箱のように花々が美しく咲き乱れる小さな庭だった。曇り空で、花の色は少しくすんでみえた。それでも、蝶々がひらひらと飛び回るその空間は、絵画を切り取ってそのまま置いたような非日常感があった。
感動に目を奪われ、手元の水を喉に流し込む。レモン水だろうか。ほろ苦い。――そして、思わず自嘲する。
書き込みは嘘だったのだ。当たり前だ。
そんな都合のいい話があるわけはなかった。自分が予知夢を見てしまうこと、そして慧介のように霊感がある人がそばにいること。それらを経て、不思議なことは確かに世界に存在すると信じてしまっていた。
そして、ふと思い出す。ここに来たもうひとつの理由。
それは、電話をすることだった。おばさんの電話を借りれば、慧介には連絡が取れた。彼の番号は頭の中に入っていたからだ。でも、彼に連絡する気にはなれなかった。
とりあえず充電をさせてもらおう。そして、それでも壊れて動かないようだったら──。どうしよう。
夕璃子はよろよろと立ち上がる。くらりと一瞬めまいがして、身体が重いような気がした。先ほどの恐怖がまだ残っているらしい。――でもこれからは、一人でしっかりと立っていかなければいけない。いつも胸の片隅にあった気持ちと、今日決別するのだ。
夕璃子はふるふると首を振って、厨房に向かった。
「――すみません、ちょっと電源を使わせてもらってもいいですか?」
声をかけながらキッチンを覗いた瞬間、すべてを忘れて意識がクリアになった。足が凍りついたように動かない。
店の男性が持っていたのは、調理器具でも食べものでもなく、ロープだった。そして、眼鏡をかけたその顔を見て、ようやく彼に感じた懐かしさの正体に気がついたのだった。
第4幕へ続く
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