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考察|私は寿司を食べながら、「自分軸」を取り戻している

私は寿司が好きです。

回転寿司も行くし、 少し良い寿司屋も好きです。

気づけば、

「今日何食べたい?」

と聞かれた時の候補に、
かなりの頻度で寿司が入っています。

一人でも行くし、 誰かと行くのも好きです。


でも最近、気づいたことがあります。

もしかしたら私は今、寿司を食べているのではなく、

過去を回収しているのかもしれない。


そんなことを考えるようになりました。


■ 私は寿司を味わっていなかった

以前、父との思い出について書いたことがあります。

塾の近くに、
父がよく連れて行く寿司屋がありました。

父は日本酒を飲むと、
だんだん声が大きくなります。

そして突然、 私の成績や人格の話になります。

「お前は本当にアホやな」
「なんでそんなことも分からんのや」

板前さんや他のお客さんがいる前で、
平気で怒鳴る。

子どもの私は、
ただ萎縮するしかありませんでした。

そして一通り怒鳴った後、
父は決まってこう言います。

「何か食え」


私は半泣きになりながら注文しました。

たまご
エビ
かっぱ巻き

なるべく安いものばかり。

当時の私は、 それが好きだったから選んでいたわけではありません。

これ以上父の機嫌を悪くしたくなかった。


それだけでした。

高いものを頼んだら、
また何か言われるかもしれない。
怒られるかもしれない。

そんなことを、 子どもながらに無意識で計算していたのだと思います。


すると父は、

「もっとええもん食え!」


と言って、

イクラ・トロなどを勝手に注文して、
私の前に置きました。

断れば、また機嫌を損ねるかもしれない。
だから私は黙って食べました。

すると今度は、
「お前はようそんな成績でそれ食べれるな」
と言うのです。


今振り返ると、何を選んでも責められる、
とても理不尽な状況でした。


怒られたくなくて安いものを選んだ。
それを否定された。

さらに父が勝手に高いものを注文した。
そして食べたら食べたで責められる。

子どもの私には、
何が正解なのか分かりませんでした。


でも今なら分かります。

あの場に、正解は存在しなかったのです。

  • どちらを選んでも責められる

  • 遠慮しても否定される

  • 受け入れても否定される


つまり問題は、私の選択ではありませんでした。

父がその場の機嫌でルールを変え続けていたこと。
それが苦しかったのです。

えておいて
しておいてする
めるかと思えば

ルールが常に相手の気分で変わる世界では、
子どもは自分の感覚を信じられなくなります。


だから私は、

「何を食べたいか」ではなく、
「どうすれば怒られないか」
考える子どもになっていったのだと思います。


■ 自分で選ぶ感覚を失っていた


今なら分かります。

あの場で私がやっていたのは、
寿司を選ぶことではありませんでした。

父の機嫌を選ぶことでした。


本当は何が食べたいのか。
何を注文したいのか。

そんなことを考える余裕はありませんでした。


私は、自分の欲求よりも、

相手の感情と、
その場を生き延びることを優先していたのです。


そして振り返れば、
それは寿司屋だけの話ではありませんでした。

子どもの頃から私は、

  • 何が好きか

  • 何がしたいか

  • どう生きたいか

ではなく、

  • 親がどう思うか

  • 親が怒るかどうか

  • 親が喜ぶかどうか

を基準に選んできました。


自分の感情よりも、相手の感情。
自分の希望よりも、相手の期待。


それが当たり前になっていました。

そして社会に出てからは、
その基準がそのまま他人へ置き換わりました。

上司。

恋人。

家族。

友人。


私は無意識のうちに、
相手が何を望んでいるかを優先し続けていました。

その結果、自分を削りながら生きることになります。

心身ともに犠牲にした代償は、
とても大きいものでした。


だから長い間、

「自分が何を望んでいるのか分からない」


状態だったのだと思います。


好きなもの。
やりたいこと。
心地良いこと。

それらを感じる感覚そのものが、
長い時間をかけて鈍くなっていたのです。


■ それなのに、寿司屋は安心できる場所になった


本来なら、寿司屋という場所そのものが、
過去の記憶と結びついて、落ち着かない場所になっていてもおかしくなかったと思います。


しかも私は、幼少期の影響で常に緊張状態でいることが多く、「安心して力を抜く」という感覚を長い間ほとんど知りませんでした。

だからこそ、寿司屋は私にとって居心地の悪い場所になっていても不思議ではなかった。

でも実際は逆でした。


私は今、寿司が好きです。
かなり好きです。

そして何より、一人で寿司屋に行く時間が好きです。

  • カウンターに座る

  • メニューを吟味する

  • 好きなネタを選ぶ

  • 日本酒を飲む


誰にも急かされない。
誰の機嫌も気にしなくていい

何を頼むかも。
どれだけ食べるかも。
いつ帰るかも。

全部、自分で決められる。


そして不思議なことに、寿司屋にいる時、
あの頃のフラッシュバックがほとんど起きません。

むしろ落ち着く。
心地良い、安心する。



ただ、父がよく注文していたものだけは、
今でもそこまで好きではありません。


イクラ、トロ、光り物。


もちろん味の好みもあるのでしょう。
でも正直、それだけではない気もしています。

子どもの頃、「もっとええもん食え」と言われて、
半ば強制的に与えられていたものだからです。


だからなのか、寿司は好きなのに、
その辺りのネタには今でも少し距離があります。


でも私は、それでいいと思っています。


回復というのは、

全部を好きになることでもない。
全部を許すことでもない。

好きなものは好き。
好きじゃないものは好きじゃない。


それを自分で決められることの方が大切です。


だから私は、寿司そのものが好きになったというより、寿司屋で過ごす時間そのものが好きなのかもしれません。

自分の感覚を優先していい。
自分で選んでいい。


そんな当たり前のことを、
実践させてくれる場所になっている気がするのです。


■ 私が回収しているもの


だから私は最近、過去を上書きしているのではなく、子どもの頃に味わえなかった時間そのものも回収している気がします。

本来なら寿司屋は、好きなものを選んで、
「美味しいね」と言いながら食べて、
楽しい時間を過ごす場所だったはずです。


でも私にとって当時の寿司屋は、
父の機嫌を読み、怒られないように振る舞い、
緊張しながら時間が過ぎる場所でした。

そこには、

「寿司を楽しんだ記憶」がほとんどありません。


だから今、一人で寿司屋のカウンターに座り、

食べたいネタを選び、
好きな日本酒を飲み、
誰にも気を遣わずに過ごしている時間は、
ただ現在を楽しんでいるだけではない。

幼少期に味わえなかったはずの時間を、
少しずつ取り戻しているような感覚があります。



だから時々、

「一蘭みたいなラーメン屋でもいいんじゃない?」


と言われることがあります。

確かに、

  • 一人で座れる

  • カウンターがある

  • 静かに食事ができる

という意味では似ているのかもしれません。


でも私にとっては違います。

私は子どもの頃、
ラーメン屋へ外食した記憶がほとんどありません。

だからラーメンには、回収する過去がないのです。


私は、寿司を食べているようでいて、
実はあの頃の自分を少しずつ回収しているのだと思います。


■ 最後に

昔の私は、イクラを食べるかどうかすら、
自分で決められませんでした。

正確に言えば、
「食べない」という選択肢を持っていなかった

  • 強く勧められたら従う

  • 嫌でも受け入れる

  • 断れば空気が悪くなる

子どもの頃の私は、そういう世界で生きていました。


だから今、自分で寿司を選べることは、
単なる食事ではありません。

「自分の意思で選ぶ練習」でもあるのです。


イクラを食べるのも自由。
食べないのも自由。

トロを選ぶのも自由。
選ばないのも自由。

その自由は、 当たり前のようでいて、
私にとっては長い時間をかけて取り戻したものです。


寿司屋は今、私にとって、

好きなものを選ぶ練習の場所であり、
自分の感覚を信じる練習の場所でもあります。


だから今日も寿司を食べながら思います。

『私は寿司を食べているだけじゃない。一貫ずつ、自分の人生のハンドルを取り戻しているのだ』


と。



そして今回改めて感じたのは、

過去のパターンや未解決の課題というのは、 案外、こういう身近なところに現れるということです。

  • 好きな食べ物

  • お金の使い方

  • 休日の過ごし方

  • 人との距離感

何を選び
何を我慢し、
何に安心し、
何に罪悪感を抱くのか。


そういう日常の小さな選択の中に、 これまでの人生で身につけてきた生存戦略思考パターンが隠れていることがあります。


私にとって、寿司がその1つでした。

寿司そのものではなく、

「何を選ぶか」
「自分の欲求を優先していいと思えるか」


というテーマが、そこに表れていたのだと思います。


もしこの記事を読んでくださった方も、

  • なぜか異常に好きなもの

  • なぜか苦手なもの

  • 繰り返し選んでしまうもの

があれば、
一度その理由を考えてみると面白いかもしれません。


もしかするとそれは、 ただの好みではなく、

過去の自分から今の自分へのメッセージなのかもしれません。


そしてその中には、
まだ回収できていない感情や、取り戻せる自由が、
静かに隠れているのかもしれません。

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