♯5.5|タワマンと錦糸町|非常階段からのチェックリスト─ 給湯室のあいつらを、さらに裏から品評する
(昼休み。会社の給湯室では"前向きな女たち"が"綺麗ごとを語り、非常階段では3人がそれを勝手に品評している。)
D子(27):地方から東京へ。理想と現実の狭間でもがく派遣社員。
E介(41):就職氷河期を生き抜いた、不器用な理系社員。
F美(55):バブルと恋愛の栄枯盛衰を知る元・恋愛勝者。
(給湯室の会話のメモをぶつぶつ言いながらD子が非常階段へ向かう。踊り場には、缶コーヒーを手に持ったE介と、静かに目を閉じているF美がいる)
D子: ……また始まりましたよ。「不完全さを愛おしむ世界」だって。
E介:「不完全さを愛おしむ世界」?実に浅い。
D子:27歳派遣の私からするとね、神保町のヨレヨレ編集者だか魔界のプリンスだか知らないけど、昼休みに架空の男の泥泥トークで「呼吸ができるー!」とか叫べるの、羨ましすぎて世界呪えますよ。
E介:その『名前のないチェックリスト』とかいう作品の作者は、減点社会の現実から目を背けさせるための、糖分を配っているに過ぎない。現実の市場は甘くありません。インデックス投資と同じで、感情ではなく結果だけを織り込みます。
F美:(気怠そうに細い煙草をくわえようとしながら)……ちょっとE介さん、理屈がうるさいわよ。私に言わせればね、そのC子の43歳の「積み上げ型キャリア女」のセリフ、聞いてるだけで涙が出そうだわ。
D子:え、どのへんですか?
F美:『条件のチェックリストを捨てたからこそ、苦味の美味しさに気づけた』? はっ、笑わせないで。あれは捨てたんじゃないのよ。「これ以上持ってると自分が惨めになるから、ゴミ箱に放り投げた」の。それを「大人の受容」みたいな綺麗な言葉でパッケージしただけ……。本当に恐ろしいのはね……
D子:恐ろしいのは……
F美:条件を捨てたあとの世界は、静かな温かさなんて広がってない。条件を捨てたあとは、ただの「何も残っていない荒野」よ。
D子:ひぇ……元・マウントの頂点、さすが言葉のナイフが錆びてない。
F美:私なんてね、20代の頃は男を「静止画」どころか「最高画質の動画」で品定めしてたわよ。商社マン、外資系、開業医。相手が私をどうエスコートするか、どのタイミングで外車のドアを開けるか、全部チェックリストで値踏みしてた。
あの頃の私はね、間違いなく「選ぶ側」にいたの。神保町のヨレたシャツの男なんて、視界に入ることすら許さなかった。
E介:……それが、バブルの残り香に酔った人間の末路、というわけですか。
F美:うるさいわね。でもね、気づいたらそのチェックリストのせいで、本命の男はみんな、普通の、地味で「減点されないことだけが取り柄」の女と結婚していったわ。
私が不倫の泥沼で「私を選ばない男」の都合のいい静止画に収まっている間にね。……今じゃ、タワマンの40階で重低音立体音響システム大画面4K有機ELテレビの最高画質の映画を一人で眺める日々よ。
D子:タ、タワマン?!持ち家ですか?
F美:そうよ。
D子:タワマン買えてる時点で勝ち組じゃないですか。私なんて、条件を捨てるも何も、最初からチェックリストの用紙すら配られてないんですよ。世界は私に「不完全さ」しか与えてないのに、なんで減点ばっかりしてくるんですか。
E介:D子さん、それが資本主義の構造だよ。君の労働力は完全に代替可能なコモディティ(汎用品)として買い叩かれている。
D子:日本語で。
E介:替えがきくってこと。
D子:最初からそう言ってください!ていうか、そんな現実、突きつけないでください。
私なんて、手取り20万で毎日1時間半かけて満員電車に揺られてるんですよ?不動産屋に手取りの1/3以下の東京の物件頼んだら・・・。東京に憧れて東京に出てきたのに。東京だけど私の思ってた東京じゃない!
E介:F美さんのタワマンだって、当時の高値掴みなら、今の資産価値としては微妙なラインじゃないですか?
F美:失礼ね、一応値上がりしてるわよ!……まぁ、売らないけど。
D子:どこなんですか?
F美:錦糸町。
D子:錦糸町って、意外。F美さんなら、てっきり、六本木とか赤坂とか。
E介:いや、むしろ、「コストパフォーマンス(お得感)」が高いと言えますね。都心へのアクセスに優れながらも、港区や千代田区と比較すると単価が抑えられている。抜群の交通利便性と充実した生活環境を背景に資産価値が上昇傾向にあります。
F美:当時はね、女がマンションを買うなんてやめろと言われたわ。ついに結婚を諦めたとか、マンションを持ってる女なんて引くとか。
でもね、あの泥沼不倫が膠着状態で、「王妃の未来」を信じながらもちょっと不安になったのよ・・・、だから思い切って、フラット35。
あの時の不倫男は私を裏切って私の自己肯定感を下げてくれた。でも、錦糸町のマンションは私を裏切らなかった。しかも資産価値を上げてくれたわ。
E介:……欲望と恐怖に振り回されながらも、結果だけ見れば一番合理的な投資判断ですね。
F美:最後に裏切らないのは、株と不動産よ。
E介:そこだけは同意します。
D子:もう、二人とも、結局最後はお金の話!
でも、錦糸町なら、そのマンションから、スカイツリーは見えるんですか?
F美:見えるわよ。
D子:きれいですか?
F美:(少し笑って)近すぎるとね、ただの巨大すぎる建造物よ。
D子:そうなんですか。
E介:視覚心理学的にも、ランドマークは一定距離から見た方が全体形状を把握できます。
F美:スカイツリーも東京タワーも富士山も、ちょっと離れたところから見たほうが絵になるのよ。
D子:……はぁ。ここから見えないですね。こっちの方角ですかね?
E介:(缶コーヒーを持った手で指差し)あっちです。
F美:D子、ここからはスカイツリーは見えない。
私たちのいるこの場所は、新しい高いビルに囲まれてしまって。
でも、見えないからってスカイツリーがなくなったわけじゃない。
そして、ここにいるからって、私たちよりか高いビルを見上げなきゃいけないわけじゃない。
ここからだって、別に世界を見下ろしたっていいじゃない。
D子:……。
でも、なんか、悔しいというか、うらやましいというか……。あの給湯室の3人、あんなに脳天気で、魔界のプリンスなんかに現実逃避してるのに、なんで最後、あんなに楽しそうに笑って戻っていけるんだろう。
F美:……(遠くを見つめるように)そうね。彼女たちは「今」を必死に処理して、前を向こうとしている。私みたいに、クローゼットの奥の、もう二度と着られないハイブランドのボディコンを捨てられずに、サンプラの夜景を反芻(はんすう)している化石とは違うわ。
D子:……。
F美:でもね……あの給湯室の魔界のプリンスの話、憎たらしいけど、ちょっとだけ、本当にちょっとだけね、眩しいわ。
E介:……やれやれ、午後からの僕のタスク一覧という名の「チェックリスト」が待っている。僕らには泥団子を丸め直してくれるプリンスを待つ時間なんてない。スマートに気配を消して、減点されないようにデスクに戻るとしよう。
(E介が先に扉を開け、冷房の効いた廊下へ消えていく)
F美:さ、私たちも戻りましょ。D子、あんまり世界を呪ってると、顔に歪みが定着するわよ。
D子:もう手遅れですー。……あ、F美さん、先行っててください。私、ちょっとだけ残って、気持ちの整理するんで。
F美:はいはい。あんまり長居してサボってると、本当に派遣切りされるわよ。
(F美のヒールの音が遠ざかり、非常階段には重苦しい静寂と、むっとした熱気だけが残る)
D子:……条件を消したあとの世界、ねぇ……。
(D子は、ポケットに入れたメモを取り出そうとして踊り場に落とす。ふいに風がふいて、飛ばされそうになるメモを慌てて拾う)
(厚い雲が急速に流れ始め、非常階段の隙間を、冷たくて強い風がヒューと通り抜けていった)
🚬F美のひとりごと
私を裏切った男は何人もいた。
でも、
私を裏切らなかったものもあった。
あなたには、
「最後まで裏切らなかったもの」
ありますか?
よければここで、吐き出してみて。
📖 この会話の元になった物語
→『名前のないチェックリスト』第6話
📚 全話まとめて読む
→ 『名前のないチェックリスト』全10話マガジン
☕ 給湯室側の反応はこちら
→ 給湯室のチェックリスト⑥
📚 給湯室シリーズまとめ
→給湯室のチェックリスト全収録マガジン
🚬非常階段の反応はこちら
🔜♯6.5|非常階段からのチェックリスト
🔙♯4.5|非常階段からのチェックリスト
📌♯1.2|四捨五入で170cmの男と心の身長を30cm盛った私|非常
📚 非常階段シリーズまとめ
→非常階段からチェックリスト全収録マガジン
