【破壊される妻】──脳出血を発症した妻からの電話
【破壊される妻】
──脳出血を発症した妻からの電話
かけがえのない大切な人が、
目の前で破壊されていく。
何もできずにそれを、
ただ見つめることしかできずに──
この話は、脳出血を発症した直後。
妻が鳴らした一本の電話から、
全てが崩れ落ちていく、
その瞬間を克明に記録したものです。
この話の全ては、
実際の経験に基づいています。
※本文には、症状やその時の状態を
描写した直接的な表現が含まれています。
年が明けて間もない、ある日の夜。
喧騒とした新宿。
仕事帰りに、
同僚と飲みに行こうかと話していた。
──その時
スマホに着信が入った。
発信者は、妻。
ついさっき『今日は飲んで帰る』と、
LINEしていた。
返信はなかったが、
既読になったのは知っていた。
普段、電話など滅多にしてこなかったが。
何かあったのかと、
通話ボタンを押すと。
大絶叫する妻が、そこにいた。
『お風呂の入り方が分からない──!
入れない──!』
まるで子どもが泣き叫ぶような声で、
信じられない悲鳴をあげていた。
真っ白になった。
『え?、何?
わからないんだけど?』
聞き返すも、泣き叫ぶばかり。
動揺しながら、
『すぐ帰る』と伝えて電話を切り、
そのまま家にいる息子に掛け直した。
息子は、
『ママが裸で部屋の戸を叩いてる。
シャワーが分からないって泣き叫んでる』
──その瞬間
悪寒と恐怖が、
私の身体を一気に駆け抜けた。
どうやら、その時の妻は、
既にスマホを操作できない状態であり、
最初の着信は、
妻から取り継いだ息子がかけたようだった。
私は電車に飛び乗り、
再び息子に電話を掛けた。
『ママに服を着せて、
一階で休ませて』
『今向かってるから、
何かあれば連絡して』
『うん』と。
電車に揺られながら、
あの叫び声が何だったのかを考えていた。
脳卒中? てんかん?
でも脳卒中なら話せないはず。
声も出せていたし、
2階にいた息子に、
助けを求められたのなら
──てんかんであってほしい。
病気の重さや、
その後の後遺症のことも考えて、
私はそう願っていた。
とにかく不安で、
全てが恐ろしかった。
ガタガタと、
体の震えだけが増していった。
ほどなくして、息子からLINE。
『ママの様子がおかしい。
顔を歪めて苦しみ出してる』
即座に『救急車を呼んで』と返信。
電車が到着するなり、
私は全速で家へと向かった。
家に近づくと、
救急車の赤色灯が煌々と、
周りの住宅を照らしていた。
玄関は救急隊によって開かれていて、
息を切らしながら中に入れば、
──そこにはもう、
すでに私の知る妻はいなかった。

『いったい、これは、
何がどうなっているんだ??』
妻は床に転がり、
『ウー、フー』と唸りながら、
手足をバタつかせて、
右目は半開きの白目、
口は奇妙に歪んで、
泡を吐きながら、
体をバタバタと痙攣させていた。
見慣れた服を着てなければ、
一瞬誰かが分からないくらいに。
恐ろしいほど、
妻は"変容"していた。
救急隊員が取り囲み、
『奥さん分かりますか?』
と声を掛け続けて。
息子はその様子を、
凍りついたように見つめていた。
毛布にくるまれた妻は、
ストレッチャーに乗せられて、
救急車へと運び込まれた。
私もすぐに同乗し、
その横に座った。
目の前で芋虫のように、
グニグニグニグニと体をくねらせ、
意味の分からない唸り声を
上げ続けている妻。
車内は外気で冷え込み、
無機質でとても静かだった。
その中でただ茫然と、
妻の手を握りしめながら、
目の前で、
壊れていく妻を
私は見つめていた──
その年の冬は、
例年より気温が低く、
病院はどこも急患で溢れていた。
受け入れ先の病院は、
なかなか見つからず。
救急隊員からは、
『もうすぐ見つかりますから、
大丈夫ですよ』
と繰り返し声を掛けられたが、
私は機械のように、
『ありがとうございます』
とだけ返していた。
その時の、
私の感情や思考は、
あまりの衝撃のせいなのか、
分からないが、
完全に"停止"していた。
──目の前の出来事に、
リアリティさを全く感じられずに、
まるで、どこかの知らない映像を、
見せられてるような感覚だった。
その時に何を考えていたのかは、
全く記憶になく。
ただ、救急車が動き出す、
その一瞬だけ、
──妻が脳裏をよぎった気がした。

ようやく救急車が向かったのは、
10キロほど離れた知らない病院だった。
救急車から降りると、
救急外来の控え室へ案内された。
その控え室は、
誰にも使われていなかったせいか、
暖房が効いてなく、
私は手を擦って寒さを凌いでいた。
どれくらい、
待ったかのかも分からず。
しばらくして──
看護師から声を掛けられる。
『検査が終わりましたので、
こちらにお越し下さい』
その控え室を後にする時に、
なぜか私の口からは、
『ああ、ダメだな、これは』
そんな諦めに近い、
嫌な予感が、
──自然に漏れ出てきた。
後からわかったことだが、
発症時の妻の様子はこうだった。
妻は浴室で、
シャワーを浴びようとしていた直後。
とつぜん脳の血管が破裂。
左脳に一撃を浴びて、
突然の混乱に見舞われた妻は、
浴室からそのまま
2階にいる息子の元へ行く。
第一声は大声で泣きながら、
『パパに電話してー!』
その叫び声に驚いた息子が、
私に電話を掛け取り継いだとのこと。
『お風呂の入り方が分からない──
入れない──…』
支離滅裂に号泣する妻。
私の電話の指示通りに、
息子は妻を一階へ下ろし、
服を着せて休ませたとのこと。
しばらく床で横になっていた妻は、
やや正気を取り戻し、
息子の声掛けにも、
対応出来ていた様子。
『大丈夫。大丈夫。
少し休めば落ち着くから』
そう言いながら息子に支えられ、
上体を起こそうとした。
──その直後
突然の意識消失に見舞われる。
この時に、
2カ所目の脳の血管が破裂。
とたんに妻は顔を歪めて、
声にならない呻き声を上げながら、
その場で再度横たわる。
『ママの様子がおかしい。
顔を歪めて苦しみ出してる』
息子から、
そんなLINEを受け取ったのは、
その直後だった。
診察室で向かい合った医師は、
脳のCT画像を指さしながら、
『脳出血です。
右の瞳孔は既に散大しています』
『左も開けば、助からないでしょう』
『手術は可能ですが、
非常にリスクが高く、
仮に助かっても、
重い障害が残る可能性が高いです』
その言葉を聞きながら──
私の頭には、
妻が昔から何度も口にしていた
"ある言葉"が蘇っていた。
『もし私が、
障害が残るような病気になったら、
助けないでね』
そのCTには、
脳の1/3を覆うように広がる
血溜まりが映っていた。
素人の私が見ても──
『これはダメだ』と、
一目で分かるほどの説得力があった。
けれど同時に、
それまでまるで、
停止していたかのような私の思考が、
ようやく目の前の現実を、
受け入れた時でもあった。

医師からの説明は
こうだった。
疾患名
【左頭頂葉皮質下出血】
──いわゆる脳卒中(脳出血)。
左脳の深部血管が破れ、
既に大量の血液が妻の脳を覆っている。
──その原因は不明。
生まれつき脳の血管に奇形があり、
それが破れた可能性がある。
また脳の静脈が閉塞しており、
行き場をなくした血液が、
動脈へ負荷を掛けた可能性がある。
──とのこと。
ここに至るまで私の中には、
『なぜ妻が?』という思いがあった。
発症前の妻は、
健康診断でも何の問題はなく。
また看護師だったこともあり、
食べものや健康には、
むしろ気をつけた生活を送っていたはずなのに。
医師に何か避ける方法は、
あったのかと聞けば……
『ないです』
『仕方ないことと考えて下さい』
受け入れ難い目の前の現実は、
"仕方ない"ことであり、
またその逃げ道すら、
用意されていなかったことを
──その時に知った。
救命できる残りの時間は、
あと僅かだった。
私には決断が迫られていた。
妻の命に関わるという。
──かつての妻の声が、
その時の私の頭をよぎっていた。
もし私が、
障害が残るような病気になったら、助けないでね……やや小声になりながらも私は、
はっきりと目の前にいる医師に、
『妻をこのまま逝かせて、
あげられませんか?』
──そう伝えた。
その時の医師は一瞬戸惑ったが、
顔を引き締めて、
やや強い口調ながら、
『途中でダメならやめますから、
やらせて下さい!』
『救命処置しない選択は、
ここにないので!』
『もう時間がないんです!』
医師のその言葉により、
私は自分が、
取り返しのつかないことを言った気がして、全てを撤回するかのように。
──次の瞬間
私は、その医師へ、
深々と頭を下げていた。
『妻の手術をお願いします』

控え室に戻ると私は、
深い自己嫌悪に苛まれていた。
けれど、
あのCT画像を思い出しては、
もう戻ることはないと諦めてみたり。
助かって欲しいと願ったり。
一方では妻が望まぬ形なら、
いっそ助からないで欲しいと考えたり。
──と。
かつての妻の言葉を言い訳にしながら、
この後に及んでも、
私は自分を
「正当化」しようと必死だった。
手術が始まってから、
7時間が経過した頃──
看護師から、再び声が掛かる。
『手術が終わりました』
『医師から説明がありますので、
こちらへ』
私はようやく長い呪縛から、
解放されたような安堵を感じた。
もうその頃には、
どんな結果でも
受け止める覚悟は出来ていた。
何よりも、この状況を終わらせて、
とにかく次へ進みたい。
そういう気持ちが強かった。
外来に行くと医師から──
『手術は無事に終わりました』
『奥様の命も大丈夫です』
『ただ、重い障害が残ると想定されます』
──障害は想定通りだった。
けれど、
それを聞いた瞬間。
控え室での、あの葛藤は、
嘘のように消え去り、
体の中からは、
信じられないほどの喜びが噴き出した。
──助かった。本当に良かった。
妻は生きている。
早く妻に会って話したい。
ここまでどんなに大変だったかを。
そして、また妻と、
一緒にたくさん話そう。
どんな姿でもいいから、
妻が側にいてくれることが、
何より大事だ。
その時は、それだけで、
本当に良かったと思えていた。
この数時間の緊張が、
一気に解けた気がした。

看護師に案内されながら。
ICUへと向かっていた。
また妻に会えるという楽しみと、
医師からの言葉が、
頭をよぎる不安のなかで。
ただ、重い障害が残ると想定されますガラス張りのICUは、
廊下側からも中を
確認することができた。
『あちらが奥様です』
看護師から、そう指を差されたのは、
奥から2番目の手間側のベッドだった。
横開きの戸を開けて、
そのICUの中に入り、
ようやく再会した妻に、
──私は言葉を失う。
そこで見た、
その光景は、
私の想像を遥かに超えていた。
頭には幾重にも巻かれた包帯。
口や鼻には管が通され、
腕から何本ものコードと管が伸びていた。
まったく動かない、
まったく反応もない。
その姿は──
つい今朝まで、
私の知る妻の面影を
微塵にも残していない、
あまりに無残な姿だった。
……私の妻が、……あれが?
覚悟していたはずなのに、
控え室から出た時の、
私の覚悟など吹き飛んだ。
その瞬間──
私の中で、
何かが弾けた。
──その次の瞬間。
私は発狂したように絶叫し、
妻に向かって叫んでいた。
『一緒に夢見ようって……
やりたいこと、
たくさんあったじゃないか……
なんで……こんなことに……
俺ひとりじゃ…
何もできないんだよ……
なんで、こんな……』
その声は涙で掠れて、嗚咽しながら、
声にもならない叫びを上げ続けて。
ベッドの手すりにすがり、
私は泣き崩れていた。
近くにいた看護師たちも、
誰ひとり私を止めることはせずに、
ただ涙を流していた。
それは、
ただただ苦しくて、
耐えがたいほどにつらく。
そして、
過去に一度も経験のない、
凄まじい痛みを感じるほどの
悲しい時だった。

【破壊される妻】
──脳出血を発症した妻からの電話
【完】
▼この作品は、創作大賞2026 エッセイ部門にエントリーしています。
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