ろろろのめ第55回「いじめっ子(BULLY)」はどちらだ?――リベラルの「排除する正義」と、その静かな終わり
私はリベラルだ。多様性を信じ、弱者への想像力を大切にしてきた。だからこそ、今のリベラリズムに息が詰まる。
2026年4月、イギリス政府はYe(カニエ・ウェスト)のビザを拒否した。理由は「公共の利益」と「反ユダヤ主義のリスク」。
私が問いたいのは、Yeが正しいかどうかではない。 対話を拒絶することが、果たして正義なのか——ということだ。
かつてリベラリズムの武器は「対話」だった。不快な他者と向き合い、その複雑さに耐えることが、知性の証だった。
しかし今、リベラルは排除によって正義を「演じる」。門を閉ざし、手を汚さず、清潔なまま正しくあろうとする。
その姿は、私が最も嫌ってきた「自分だけが正しい者」の顔に、驚くほど似ている。
「いじめっ子(BULLY)」はどちらだ?――リベラルの「排除する正義」と、その静かな終わり
※この記事は断罪ではなく、自分自身、そして読者自身への問いとして書き記した。
【導入:空っぽのスタジアムが語るもの】
2026年7月、ロンドンのワイヤレス・フェスティバル。本来なら世界で最も影響力のあるアーティスト、Ye(カニエ・ウェスト)がそのステージに立ち、新作『BULLY』から「All The Love」を歌い上げるはずだった。しかし、そこに広がっていたのは静寂と、全額返金という事務的な虚無である。
キア・スターマー首相率いるイギリス政府は2026年4月、Yeのビザを拒否した。7月に予定されていたワイヤレス・フェスティバルへの出演は消え、数万人のファンは全額返金という事務的な通知を受け取った。Yeの大復活劇としてもひとつのショーとしても大絶賛されたSoFi Stadium公演の直後にこの仕打ち。理由は「公共の利益」と「反ユダヤ主義のリスク」である。



そのわずか数日後、同じロンドンのトラファルガー広場で、マッシヴ・アタックのロバート・デル・ナジャ(3D)が逮捕された。「ジェノサイド反対」のプラカードを掲げた彼は、テロリズム法の下で拘束された。
右からの境界線であるYeを「差別」を理由に追い出し、左からの境界線である3Dを「テロ」の名の下に引きずり出す。一見すると正義の執行に見えるこれらの光景に対し、いま改めて問うべき命題がある。
「本当に社会をいじめている(BULLYING)のは、果たしてどちらなのか?」
【1. リベラルが選んだ「排除」という名の演技】
かつてリベラリズムの武器は「対話」であった。不快な他者と向き合い、その複雑さに耐え、共存の道を探ること。それが、保守の「排除と同質化」に対する根本的な優位性であったはずだ。
しかし今、その構造は反転している。現代のリベラリズムは、排除によって自らの正義を「演じる」ようになった。不都合な存在をプラットフォームから消し、国境から追い出し、対話のテーブルから除名する。手を汚さずに清潔なまま「正しい側にいる」と宣言するその姿は、かつてリベラルが批判してきた「独善的な権力」の顔に驚くほど似ている。Yeのビザ拒否は、その反転がもたらした象徴的な症例だ。彼の発言には批判されるべき点がある。しかし、労働党スターマー政権が選んだのは批判や対話ではなく、「存在の抹消」であった。皮肉なことに、「反ユダヤ主義のリスク」を掲げたそのスターマーは、2023年にガザへの電力・水道遮断について「イスラエルにはその権利があると思う」と公言した人物でもある。誰を守り、誰を排除するかの基準が、一貫した原則ではなく政治的文脈によって決まる——その事実が、この「正義」の空虚さを如実に示している。司法が一度は「違法」と断じた指定を盾に、3Dのような良心的表現者までもテロリストとして扱うその姿勢に、もはや対話の余地はない。
【2. 「カニエ・テスト」と洗練されたパターナリズム】
『エコノミスト』誌はこの騒動を「カニエ・テスト」と呼んだ。Yeという極端な存在が突きつける難問――言論の自由、人種、メンタルヘルス、赦しと断罪――に、社会がどう答えるかという試験である。
https://www.economist.com/britain/2026/04/08/failing-the-kanye-test
イギリス政府の回答は「退場」であった。だが、ここには深刻な不条理が潜んでいる。
「有害」と断じられたYeは黒人アーティストであり、彼を排除したのは白人エリートを中心とするリベラル層だ。自分たちの価値観に従順な者は「多様性の象徴」として歓迎し、コントロール不能な天才は「脅威」として門前払いする。これは「誰が正しい黒人かを白人が決める」というパターナリズム(父権的干渉)であり、洗練された形の選別に他ならない。
排除の動機は「社会防衛」なのか、それとも「倫理的優越感の確認」なのか。その境界は極めて曖昧だ。
【3. 「管理しやすい正義」への逃避】
リベラルが「言葉の取り締まり」に熱心になるほど、現実の問題――路上の暴力、格差の拡大、制度的な不公正――への関心は希薄化していく。
SNS上の不適切な発言を検閲しプラカードを掲げるアーティストを逮捕することは、複雑な治安問題を解決するより容易だ。一人のアーティストを「有害」と認定することは、システムの腐敗と向き合うより清潔だ。管理しやすい標的を叩いて正義を誇示する行為は、Yeの新作タイトルである『BULLY』そのものである。本当の「いじめっ子」とは、手に負えない現実の難題からは逃げ出し、叩きやすい対象を攻撃する者のことだ。
【結末:『All The Love』への皮肉な回答】
Yeは「We left all the pain behind(すべての痛みを置いてきた)」と再生を歌う。自らの壊れた過去を認め、憎悪を超えて和解と愛を求めようとするその真摯さを、安易に否定することはできない。3Dは「渡航やビザ取得ができなくなるかもしれないという不安はあった。しかし、これはばかげていると思ったから、プラカードを掲げることにした」と良心に従った。彼らは、それぞれの方法で社会の複雑さと向き合おうとしている。
対照的に、スターマー政権、および沈黙を保つリベラル層は、「過去の言葉」を武器に彼らを殴り続けることで、自らの「正しさ」を維持しようとしている。
一人は愛でスタジアムを埋めようとし、
一人はリスクを背負って広場に立ち、一人は検閲でそれを空っぽにした。
不合格だったのは、アーティストたちではない。彼らの持つ複雑さと良心に耐えきれず、排除という短絡的な正解に逃げ込んだ、現代社会の知性と誠実さである。リベラリズムの行き止まりは、他者との対話を諦めた日から始まっていたのだ。赦しとは何か。対話とは何か。その問いに、今改めて立ち向かう必要がある。
