イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第六話 世界一安全な迷い方
「世界一安全な街」らしい。
だから、迷わない――
そう思う人もいるのかもしれない。
でも私は知っている。
人は、安全な場所でも迷う。
それでも――
戻り方さえ知っていれば、問題ない。

エラとヨル 第六話
【世界一安全な迷い方】
「すごーーーい」
エラが大きな声を出す。
私も、目の前に広がる光景に圧倒されていた。
天まで届くかと思える高い城壁。
切り立った崖を結んで作られた天然の城塞
遥か彼方に鳥たちが飛ぶ。
城塞都市リンブガルド。
世界一安全な都市だと言われている。
「ねぇ?ヨル。見える?あそこ!人がいる!」
子どものようにはしゃぐエラは、城砦の中でも一際高い塔にいる人影を指差している。
「ちょっと、騒ぎすぎ」
そう言ったものの、私も内心では心が踊っていた。
都市の入口が見えてくる。
大きな門の前には、入場を待つ列が長く伸びていた。
「ありゃー。これは時間がかかるね」
エラは額に手を当て、遠くを見ている。
「壁も立派だけど、入場の検査もしっかりしてるのね」
私たちはそう言いながら、列の最後尾に並んだ。
やがて順番が来る。
「よし、次」
重装備の衛兵が私たちを呼ぶ。
「入場の目的は?」
「観光です」
エラがさらりと答える。
「……違います。商売です。地図の販売です」
慌てて訂正すると、衛兵がじろりと睨む。
「地図?お前たちが作ったのか?」
「そうだよ」
エラはいつも通りだ。
私は小さくため息をつき、言い直す。
「旅をしながら地図を作っています。旅用の地図です」
衛兵の一人が別の衛兵を呼ぶ。
「念のため持ち物を確認する。この都市の構造を探る密偵かもしれないからな」
荷物が机の上に広げられ、ひとつひとつ確認されていく。
質問が飛ぶ。
私は喉が少し乾いた。
——もしここで引っかかったら。
地図を見られるだけで、疑われる理由になる。
それでも一番怖いのは、
エラが余計なことを言うことだった。
けれど検査は、何事もなく終わった。
「入場を許可する。入場税は銅貨三枚。殺し、盗みを働けば即投獄だ。忘れるなよ」
私は頷き、銅貨を渡す。
「疲れたね」
エラの表情は変わらない。
私も緊張が解け、ようやく落ち着きを取り戻した。
都市の中は広い。
道は石畳に舗装されている。
「とりあえず、泊まる場所を決めよう」
私たちは街へ歩みを進めた。
⸻
「白狐亭」
少し変わった名前の宿に泊まることになった。
受付を済ませ、食堂へ向かう。
まだ夕食には早い時間で、客はまばらだった。
名物の豆料理を頼み、一息ついていると——
一人の男が近づいてきた。
「あの……あなたたち、地図を書く人ですか?」
自信なさげな声の、二十代くらいの若者だった。
「そうだけど。なんの用?」
エラはいつもの調子で答える。
男は何度も周りを気にしていた。
「実は……頼みがあって……」
歯切れの悪い話し方。
私は少し気になった。
「話は、食事のあとでもいい?」
エラは料理に目を向けたまま言う。
「私が聞きます。受けるかは内容次第です」
そう答えると、男は話し始めた。
「さっき入口で……衛兵と話してるのを聞いて……地図を作ってるんですよね?」
エラは料理を口に運びながら頷く。
「お願いしたいのは、この都市の地図……どこに何があるか、できるだけ詳しく記したものです」
声が小さくなる。
「無理」
エラは男を見ずに答えた。
「違うんです!密偵とか、情報を売ろうとかじゃなくて——」
言葉を遮るようにエラが言う。
「ここ、世界一安全な都市なんでしょ?
なら、ゆっくりでも自分で作れるじゃん」
素っ気ない。
「それに私、変わらない街の地図に興味ないし」
男は困った顔を浮かべた。
「どうして、そんな地図が必要なんですか?」
私が問いかける。
「実は……迷うのが怖いんです」
——迷うのが怖い?
意味が理解できなかった。
男は続ける。
「今度、初めてのデートなんです」
「彼女を祭りの日、案内する約束をしていて……」
「でも、方向音痴で……この街に住んでるのに、すぐ迷ってしまって」
「それで……地図があれば、迷わないと思って……」
「ちゃんと案内して、想いを伝えたくて……」
声はどんどん小さくなる。
私はその姿を見て、少し胸が痛くなった。
——この人は真剣だ。
——このチャンスに賭けている。
私は黙ってエラを見る。
エラが口を開いた。
「迷わないってさ」
「それ、相手じゃなくて“地図”を見てるってことじゃない?」
男の表情が変わる。
「そんなことない!ちゃんと考えてる!」
「彼女が楽しめるようにコースを考えて、思い出を——」
エラは遮る。
「地図ってね。“迷わないため”に使うと、だいたい間違うんだよ」
「“迷ったあとに戻るため”に使うものだから」
エラの視線が鋭くなる。
「それって、彼女が望んでること?」
「彼女は街を見たいの?
それとも、あなたといたいの?」
男は黙る。
「あなたは?
街を見せたいの?
それとも自分を見せたいの?」
冷たい言葉に聞こえる。
でも、私には違って聞こえた。
エラは続ける。
「地図は描かない。
でも、ひとつだけ教えてあげる」
「迷ったら、街で一番高い塔を見て」
「迷う人って、近くしか見てないの。遠くを見れば、戻れる」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「それでね、一番近くの彼女を見なよ」
「彼女が何を見てるのか」
男はしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
不安は残っている。
でも、さっきより前を向いているように見えた。
深く頭を下げ、静かに席を立った。
そして一瞬、塔の方を見て歩きだした。
その後姿を見ながらエラは呟いた。
「祭りって、屋台も出るのかな?」
エラがニヤリと笑う。
やっぱりズレている。
私は、男ではなくエラを見ていた。
——この人は、地図を描いているのに、道を教えていない。
街は、ゆっくりと夜の静けさに包まれていった。
——世界一安全な都市。
だからきっと、ここでは迷ってもいい。
戻り方を、知っているから。

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