イブ物語|判断寓話|マリアの小さな冒険①|旅立ち
世界は、思っていたより少しだけ怖くて、
思っていたより少しだけ優しい。
これは、まだ何者でもない少女マリアが、
旅の途中で、自分の居場所を見つけていく物語。

【マリアの小さな冒険①】
ー 旅立ち ー
黒髪の少女が大きなリュックを背負い、丘の上から遠くに見える街を眺めていた。
リュックから黒猫が顔を出す。
「大丈夫だよ。ジャン」
心配そうな黒猫に声をかけると、少女は街に向かって歩みを進めた。
--
彼女の名前はマリア。
彼女は初めて、生まれ育った街を離れ、隣の街を目指している。
彼女には夢があった。
それは、冒険者になることだ。
きっかけは些細なこと。
昔働いていた酒場に出入りしていた冒険者パーティを見て、淡い憧れを抱いていた。
しかし、周りに相談したところ、大反対をされる。
「女の子が一人でなれる訳がない」
「危険よ! それにあなたは、ナイフすら使えないじゃない」
そんな言葉に反発するように、街を飛び出した。
相棒は黒猫のジャン。
昔、ある冒険者から預かってから彼女が育てた、姉弟のような存在だ。
街を出たマリアは、闇雲に進んだ訳ではなかった。
酒場で働いたお金をコツコツ貯め、冒険に必要な装備を整えていた。
腰には小さいが、剣を差している。
少し重いが、身を守るものは必要だ。
彼女は小さな手帳を取り出す。
そこには沢山の情報が書かれていた。
安全な街道。水場。食べられる薬草。
酒場で聞いた冒険者の話を少しずつまとめたその手帳は、彼女の宝物だ。
日が暮れる前に、どうにか街の門をくぐることができた。
「お嬢ちゃん、お使いかい?」
街の老衛兵が声をかけた。
「違います。私は冒険者です」
初めて自分から冒険者と名乗った。
少し震えたが、それ以上に自分が選んだ道の決意表明のように聞こえた。
「おお、そうか。すまない。小さな冒険者さん。今晩の宿はお決まりですか?」
老衛兵は、一人前の冒険者を扱うように話をした。
「まだ、決まってません。どこか良いところはありますか?」
老衛兵はニコリと笑う。
「そうだ。初めての街では衛兵に宿を聞く。それが一番安全で一番賢い方法だ」
ウンウンと頷く老衛兵は、まるで孫を見るような優しい顔をした。
「では、わしのおすすめの宿を紹介しよう」
そう言って、一枚のメモを取り出した。
紙には街の簡単な地図と宿の場所が書かれていた。
マリアは慌てて銅貨を取り出そうとする。
それを見た老衛兵は、手でそれを遮った。
「ちゃんと分かっているな。実はワシの勤務時間は、もう終わっとる。だから、それは必要ない」
そう言うとマリアにメモを渡して向きを変える。
「ようこそ。ルーネリアへ」
何万回と言ってきたセリフのはずが、マリアにとっては、初めて言ったように聞こえた。
「街への滞在は一日銅貨三枚。殺し、盗みを働けば、即日拘留され処罰される。秩序を守る限り、街はあなたを歓迎する」
朗々と語り終わった老衛兵は、パチンとウィンクをした。
マリアはペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます。無駄にはしません」
そう言うと渡されたメモを握り締め、ルーネリアの街へ一歩を踏み出した。
--
“茜の小麦亭”
マリアは渡されたメモと見比べる。
酒場を兼ねた宿のようだ。
夕暮れ時になり、店内からは賑やかな笑い声が聞こえてくる。
恐る恐る店内に入る。
マリアの姿を見て、すぐに若い女性給仕が声をかけてきた。
「いらっしゃい。お食事ですか?」
「宿に泊まりたいのですが……」
「お連れの方は? 何人ですか?」
「一人です……あっ! それと猫が一匹!」
マリアの様子を見た給仕はクスリと笑う。
「猫は無料です。宿泊なら食事抜きで一晩銀貨三枚。前払いでお願いします」
「一週間泊まりたいです。一番狭い部屋で大丈夫です」
給仕係は少し考えた。
「でしたら、私たち給仕係の部屋の隣。少し賑やかなところだけど、その部屋なら銀貨二十……十八枚でいいわ」
マリアは小さく頷く。
「銀貨二十枚でいいです。その代わり、毎日お湯をもらえませんか?」
給仕は納得した様子で答えた。
「よく知ってるわね! 大丈夫よ。十八枚でタオルとお湯は付けてあげる」
そう言うと、奥のカウンターにマリアを案内した。
カウンターには丸坊主の大柄な男が腕を組んでマリアを睨みつけていた。
「マスター、お客様よ。怖がらせないで」
給仕がマスターをいなす。
マスターは禿げ上がった頭に手を当て、頭を軽く下げる。
「悪い人じゃないの。見た目がこれでしょ? みんな最初は怖がるのよ」
マリアはクスリと笑う。
「私はハンナ。そして、彼がこの店の店主、ボー。変な名前だけど本名よ」
ハンナの明るい喋り声に少し空気が和んだ。
宿台帳に記入し、前払いで銀貨を渡す。
ハンナに促され、二階の一番奥の部屋に案内された。
「狭いのは我慢してね。何かあればマスターか私に声をかけて」
そう言うとマリアに鍵を渡し、ハンナは酒場に戻っていった。
部屋に入る。
狭い角部屋だが、ベッドと小さな家具が置かれており、マリア一人なら十分な広さがあった。
それに、窓が付いており、街の様子が見られることがマリアには嬉しかった。
⸻
窓の外は、まだ完全には暗くなっていなかった。
夕焼けの残り火のような光が、石造りの街並みに薄く残っている。
マリアはリュックを床に下ろすと、深く息を吐いた。
「……着いたね」
黒猫のジャンが、ゆっくりとリュックから飛び降りる。
床に着地すると、部屋を一周してから窓辺へと歩いた。
マリアはブーツを脱ぎ、ベッドに腰を下ろす。
緊張が抜けた瞬間、足の奥に鈍い疲れが広がった。
怖かった。
でも――
戻りたいとは、思わなかった。
マリアは、小さな手帳を取り出した。
酒場で聞いた話。
街道の危険。
薬草の見分け方。
宿の相場。
水場の場所。
そして、最後のページ。
そこだけは、文字が少なかった。
『最初の街では、
必ず――
信じていい人を、一人見つける』
誰が言った言葉だったか、もう思い出せない。
でも、ずっと覚えていた。
ジャンが窓の外を見ながら、小さく鳴いた。
「……うん。
まだ、分からないよね」
マリアは笑った。
「でも、たぶん……
さっきの衛兵さんは、大丈夫な人だった」
少し考えてから、続ける。
「ハンナさんも……多分」
ジャンは何も答えない。
ただ、尻尾をゆっくりと揺らした。
――
下の酒場から、笑い声が上がる。
グラスがぶつかる音。
椅子が引かれる音。
誰かが歌い始める声。
生きている音だった。
マリアは立ち上がり、窓を少しだけ開ける。
街の匂いが入ってきた。
パンの匂い。
肉の匂い。
酒の匂い。
人の匂い。
「……ここで、生きていくんだ」
それは、決意というより――
確認に近かった。
ジャンがベッドの上に丸くなる。
マリアは、剣を外して壁に立てかける。
慎重に。
大事に。
まだ、使うためではなく。
持っているための剣だった。
ランプに火を灯す。
小さな灯りが、部屋を柔らかく照らす。
マリアは手帳の最後のページに、静かに書き足した。
『ルーネリア
初日
生きて到着』
少しだけ考えてから、もう一行。
『優しかった人が、二人いた』
ペンを置く。
外の音は、まだ続いている。
世界は、
思っていたより、少しだけ怖くて。
思っていたより、少しだけ優しかった。
マリアはランプの灯りを見つめながら、目を閉じた。
明日、何をするかは、まだ決めていない。
でも――
明日も、ここにいる。
それだけで、十分だった。

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