見出し画像

虚無の時代の到来――妖怪の復活する世界

人間は、意味のない不幸に耐えられません。
これを言うと、少し大げさに聞こえるかもしれません。
ですが、現代のしんどさの多くは、まさにここにあるのだと思います。

失敗した。
報われなかった。
努力したのに届かなかった。
正しいことをしたはずなのに、なぜか疎外された。
そのとき、昔ならいくつかの説明がありました。

自分が悪い。
社会が悪い。
政治が悪い。
会社が悪い。
親が悪い。

どれも乱暴ではあります。
しかし、まだ意味がありました。

自分が悪いなら、努力すればいい。
社会が悪いなら、変えればいい。
政治が悪いなら、投票すればいい。
会社が悪いなら、辞めればいい。
親が悪いなら、距離を取ればいい。
少なくとも、怒りや悲しみの向け先があった。

けれど今、世界はもう少し嫌な場所まで来ています。
それは、構造のせいという場所です。

構造は謝らない

現代の不幸は、誰か一人を悪者にしても説明しきれません。
読まれないのは、あなたの文章が悪いからだけではない。
売れないのは、商品が悪いからだけではない。
働いていると本が読めなくなるのは、怠惰だからだけではない。
貧しくなるのは、努力不足だからだけではない。
メンタルが削られるのは、根性がないからだけではない。

アルゴリズム。
市場環境。
雇用構造。
可処分時間。
家庭環境。
教育格差。
プラットフォーム設計。
レコメンド。
物価。
景気。
社会保障。
文化資本。
いろいろなものが絡み合って、結果として人間を押し潰していく。

そして、ここが一番つらいところです。
構造は謝りません。
会社の上司なら、まだ怒れる。
政治家なら、まだ批判できる。
親なら、まだ恨める。
自分なら、まだ責められる。

でも、構造は違います。
構造には顔がない。
構造には声がない。
構造には悪意がない。
構造には責任者がいない。
いや、正確には責任者はいるのかもしれません。
けれど、それはあまりにも分散していて、誰か一人を殴っても終わらない。
怒りの向け先が、霧のようにほどけていく。
これが、現代の虚無です。

自己責任の時代、社会のせいの時代、その次


少し前まで、人々は自己責任に苦しんでいました。

うまくいかないのは努力不足。
稼げないのは能力不足。
病むのは弱いから。
読めないのは怠けているから。
続けられないのは根性がないから。

この時代はきつかった。
人間をひたすら内側から責めるからです。
その次に来たのが、社会のせいにする時代でした。

個人の努力ではどうにもならない。
労働環境が悪い。
社会構造が悪い。
教育制度が悪い。
資本主義が悪い。
プラットフォームが悪い。

これはある意味で救いでした。
「私が悪いんじゃなかった」と思えるからです。
けれど、社会のせいにすることにも限界があります。

社会が悪い。
では、誰が直すのか。
政治が悪い。
では、どう変えるのか。
構造が悪い。
では、その構造はどう動かせばよいのか。

ここまで来ると、人間はまた別の苦しみに落ちます。
自分のせいではない。
でも、誰かのせいとも言い切れない。
そして、自分にはどうにもできない。
これは自己責任より優しいようで、ある意味ではもっと冷たい。
なぜなら、そこには物語がないからです。

人間は「複合要因です」に耐えられない

現代社会は、だいたいの問題にこう答えます。

複合要因です。
個別事情によります。
市場環境の影響です。
アルゴリズムの仕様です。
制度設計上の課題です。

一概には言えません。
たぶん、どれも正しい。
でも、正しいだけです。
人間は、それで救われるようにはできていません。

「なぜ私はこんなに苦しいのか」と問うたときに、
「複合要因です」と返されても、心は一ミリも救われない。

「なぜ努力しても報われないのか」と問うたときに、
「市場環境と可処分時間の変化です」と返されても、魂は黙ってくれない。

「なぜあの人だけうまくいくのか」と問うたときに、
「初期条件とネットワーク効果です」と言われても、納得はできても、救われはしない。

人間は、説明だけでは生きられない。
必要なのは、意味です。

妖怪は理解不能なものに顔を与える

ここで、妖怪が戻ってきます。
昔の人は、わからないものに名前をつけました。

川で子どもが溺れる。
河童がいる。

夜道で迷う。
狐に化かされた。

山で声が聞こえる。
天狗がいる。

家で変な音がする。
座敷童かもしれない。

もちろん、現代人はそれを迷信だと言えます。
川で溺れるのは水流や地形の問題です。
夜道で迷うのは視界と地理感覚の問題です。
山の声は反響かもしれません。
家の音は木材の収縮かもしれません。

これは理屈として正しい。
でも、それだけでは足りなかったのです。

顔があれば、語れる。
名前があれば、呼べる。
物語があれば、耐えられる。
河童がいるなら、川へ行くなと言える。
狐に化かされたなら、夜道に気をつけろと言える。
天狗がいるなら、山を侮るなと言える。

妖怪は、説明不能な理不尽を、人間が扱える物語へ変換していた。
妖怪とは、未科学的な誤解ではありません。
妖怪とは、制御できない現象に顔を与える装置です。

現代の妖怪

では、現代に妖怪はいないのでしょうか。
います。
名前が変わっただけです。

急に記事が読まれなくなる。
アルゴリズムの妖怪。

なぜか一部の人だけ伸びる。
初速補正の妖怪。

毎日がんばっているのに報われない。
プラットフォームの座敷童が逃げた。

AIに褒められて宇宙論を始める。
シコファンシーの妖怪。

組織が誰も責任を取らないまま壊れていく。
会議室に棲む責任分散のぬらりひょん。

ルールは正しいのに人間が削られていく。
制度の中にいる、透明な鬼。

現代人は、もう薄々わかっています。
悪いのは一人ではない。
努力だけではない。
社会だけでもない。
構造が人を押し流している。

でも、構造には顔がない。
だから、顔が欲しい。
妖怪とは、その顔です。

ホラーが求められる理由

商業市場でホラーが伸びている理由がここにあるのではないでしょうか。

単に怖いからではありません。
驚かせるからでもありません。
グロテスクだからでもありません。
ホラーは、説明不能なものに形を与えるからです。

日常の中に、何かがいる。
スマホの向こうに、何かがいる。
学校に、会社に、町に、家族に、過去に、何かがいる。

それは本当は、制度かもしれない。
記憶かもしれない。
罪悪感かもしれない。
孤独かもしれない。
アルゴリズムかもしれない。

でも、それを「何か」として現すことで、人間はようやく向き合える。
怖いという感情は、虚無よりましです。
なぜなら、怖いものには輪郭があるからです。

幽霊なら、見ることができる。
呪いなら、解こうとできる。
怪異なら、逃げることができる。
神なら、祈ることができる。
妖怪なら、名前を呼べる。

でも虚無は、何もできない。
虚無は、ただそこにあるだけです。

全部妖怪のせいなのね。

何かがおかしい。
何かが自分の生活を歪めている。
その「何か」に、ひとまず名前を与える。

妖怪。
この仮置きによって、人間は虚無から一歩だけ逃げられます。
すべてをデータで説明されるより、
「そこに何かがいる」と思えた方が、人間は耐えられることがある。

構造という虚無に、意味の顔を貼る

現代人は、怪異という形を与えることでしか受け止められない構造疲労に晒されています。

働いても楽にならない。
発信しても届かない。
正しくしても評価されない。
努力しても運に流される。
社会を変えようとしても、構造が重すぎる。
AIは答えをくれるのに、人生は一向に軽くならない。

この状況で、ずっと合理的でいるのは不可能なのです。

人間は意味を求めます。
そして、意味が制度や政治や市場から返ってこないとき、人間はもう一度、怪異へ向かう。
それは退行ではありません。
虚無への防衛です。
妖怪は、構造化された虚無に貼られる意味の顔です。

結論

自己責任の時代がありました。
社会のせいにする時代がありました。
そして今、構造のせいだと多くの人が薄々気づき始めています。
けれど、構造は謝らない。
構造は物語にならない。
だから、お化けが戻ってくる。
妖怪が復活する。

それは、人間が愚かになったからではありません。
人間が意味のない世界に耐えられないからです。
人間は、わからないものをそのままにしておけない。
どうにもできないものに、せめて名前を与えたい。
虚無に顔を描きたい。
だから今日も、どこかで怪談が語られます。
それは恐怖の物語であると同時に、救済の物語でもあるのです。

全部妖怪のせいなのね。

そう言えるだけで、人間は少しだけ生きやすくなるのです。


なぜホラーブームが来てるのかについて考察してみました。ためになる話をありがとうございます!

いいなと思ったら応援しよう!