【連載小説|ホラー】第四話:Deprecate―必須オブジェクトの削除―/構築済み:ドキュメント・零
マウスの左クリックが、ひどく重く感じられた。
勝手に読み込まれた『高原の解析.log』。
そのアイコンは、通常のテキストファイルとは異なり、死後硬直を起こした肌のような、濁った灰色をしていた。
ファイルを開いた瞬間、画面が激しく明滅し、高原の震えるようなタイピングの残像がテキストとして流し込まれた。
『佐伯、これを見ろ。お前が消したあの目だけじゃない。動画全体が、既存の動画フォーマットの皮を被った別の何かだ。特に、04分12秒。出演者の瞳の表面を、限界まで位相差解析した結果を送る。』
ログに添付されていた画像ファイルが展開される。
それは、団地の食卓に座る『幸福な妻』の、右目のアップだった。佐伯がAI補正で作り上げ、完璧な瑞々しさを与えたはずの瞳。
高原の手によって極限までコントラストが引き上げられ、ノイズが除去されたその瞳の表面には、本来映るべき団地の風景など存在しなかった。
「……なんだ、これ」
反射の中に映っていたのは、見渡す限りの漆黒の空間だった。
その暗黒の中に、無数の――数千、数万という単位の矩形の光が、銀河のように浮遊している。
佐伯が息を呑んでさらに拡大すると、その光の一つひとつが、小さなモニター画面であることに気づいた。
そして、そのモニター群に映し出されている光景。
それは、どこかのリビング、深夜の寝室、暗い電車内。
今まさに、この動画を再生している視聴者たちの私生活が、リアルタイムの生中継として映し出されていた。
その中の一つの画面に、佐伯は、見覚えのある『雑多な部屋』を見つけた。
三台のモニターの前に座り、呆然と画面を見つめる一人の男の後ろ姿。
「……俺?」
瞳の中に映る『俺』が、ゆっくりと振り返る。
現実の佐伯も、釣られるように背後の闇を振り返った。だが、そこには埃を被った機材と、脱ぎ捨てた服の山があるだけだ。
再びログのテキストが更新される。高原の文字が、叩きつけるような勢いで綴られていく。
『奴らは撮ってなんかない。レンズを通して、こっちを見てるんだ。視聴者が画面を見つめる時、その視線を逆流して、奴らはお前の部屋に、俺の部屋に、入り込んでくる。
佐伯、今、俺の部屋のスピーカーから変なノイズが……。
おい、おかしい。さっきから、自分の指の感覚が……キーボードが、熱い。溶けてるみたいに……』
チャットの向こう側で、高原が何かを激しく叩くような音が聞こえた。
直後、佐伯の編集ソフトのタイムラインが、不吉な赤いアラートを吐き出した。
[ Warning: New Object Detected in Workspace ]
[ Object ID: TAKAHARA_N (Live Feed) ]
インポートされたのは、高原の部屋の映像だった。
ビデオ通話の画面ではない。編集ソフトが、『高原の現実』を、一つの動画クリップとして強制的に読み込んだのだ。
「高原! 逃げろ、PCを捨てろ!」
佐伯の叫びは、無情にもスピーカーから流れる『ザー』という砂嵐にかき消された。
画面の中で、高原が自分の右腕を掴んで絶叫している。
その腕は、肘から先が幾何学的なブロック状に崩れ、背後の壁のテクスチャへと、静かに溶け始めていた。
第五話へ続く
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