【続き】自分に降りかかった出来事と回復に至るまで③【上京、うつ病の発症、帰郷、友人の自殺、入院、再上京まで】
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上京、一人暮らしのスタート
こうして私は祖母を亡くし、高校を卒業したその日に友人が住んでいた近くの格安のアパートの京王線沿・八幡山エリアに引越をし初めての一人暮らしを始めました。
やっと、やっと親元から離れることが出来たんだ!!虐待と宗教の毎日から
これで解放されたんだ!!よくやった!!と初めて感じる喜びと高揚感と同時に、大きな心の支えであった祖母を亡くした私は、その頃から突然涙が止まらない日が増えました。
高校4年間で出来た貯金は学費や治療費を除くとさほどゆとりは無く、のんびりする時間もなく、すぐに仕事を探す毎日となりました。
同時に北海道で通っていたメンタルクリニックやカウンセリングから、継続した治療の必要性を強く感じており、すぐにメンタルクリニックも探し始めました。メンタルクリニックというのは内科や外科などと違い、病理が目に見えたり、手術で治るものではなく、信頼関係が治療のスタートの土台となるので、合う先生に出会えるまでが本当に大変です。
さまざまなクリニックに足を運びつつ、仕事の面接を受けて日々は流れてゆきました。
研究職との出会い、20年に渡る過眠症の始まり
当時、スマホなどない時代のアルバイトや仕事探しはコンビニなどにある求人雑誌を買い、1ページづつめくりながら探すのが主流でした。
上京できて嬉しかったことの一つに仕事の種類が多く、選ぶ選択肢がある、というのが田舎で育ってきた私の感想です。色んな仕事があるんだなあ・・えっ、こんな仕事もあるんだ!?という初めて知ることの喜びを感じていました。
パラパラとページをめくっていると、東京女子医科大学のラボの研究補助のアルバイトが目に入りました。資格は高卒OK、就業時間は9時17時、アルバイトから入って、その後試験に合格すると嘱託職員にもなれるという文言を見て、一目散に履歴書を書き、面接に向かいました。
私は以前書いた通り、理数と絵が好きな子供でした。明確に物心ついた頃には好きがはっきりしており、それゆえ中学3年生の受験は美術短大附属高校を受けました。
田舎のネットのない時代の独学は辛かったですが、合格し、勝ち取ったぞ!という喜びと同時に『お前に高校の学費なんて出さない。行きたいなら自分で勝手に行け』と怒鳴られ、お金はあるのに親の前で子供は無力だということを痛感せざるを得なかった私は、高卒でも研究の仕事に携われるんだ!!という驚きと喜びで胸がいっぱいになりました。大変だったけど定時制高校を卒業できて本当に良かったと思いました。
ありがたいことに面接に合格した私は大好きな顕微鏡での観察やピペットマンの操作をする毎日となりました。
そのラボでは線虫という、とても小さな虫の遺伝子を研究していました。
肉眼では見えないので、顕微鏡とピンセットを使い、線虫を移動させ培養し、その後PCRという機器類にかけ、遺伝子の観察などを行いました。
線虫はとても小さな虫ですが、遺伝子配列が非常に人間に近しく、それもまた面白いなあと研究の楽しさを知りました。
また、虐待を受けていたとき、安全な逃げ場の一つが病院だったためか白衣を着ると心底落ち着く自分も発見しました。

大好きな数字や白衣、顕微鏡に囲まれた落ち着いた静かな世界で私は知らなかった喜びを知りました。好奇心が満たされていく感覚、仕事を選択出来る喜び、同じ分野が好きな職場の人との交流。
しかし、今振り返れば当然の事なのですが、私は物心ついた3歳の頃からゆっくり安心して眠ったことも、きちんとした食事もないまま20歳を迎えていました。
大切な心身の成長など全く出来ない環境下で過ごしたストレスの蓄積の代償はあまりに大きく、これからあらゆる精神疾患の発症や感情調節の効かなさ、不定愁訴が続く毎日、長い長いPTSDの治療に入るとは夢にも思っていませんでした。
初めにおかしいな?と思ったのは仕事を初めて4、5か月くらい経った頃、いつも通り顕微鏡を覗いていた私はどうにも抗えない強い睡魔、というかほぼ気絶するような眠りに落ち、それから頻繁に仕事中椅子から転げ落ちるようになりました。
その頃から毎日寝ているのに、寝ても寝ても強い眠気が取れず、毎日なんとか寝落ちしないように珈琲を飲み、ガムを噛んで仕事をしていたのですが、驚くほど気絶することが増え、何度も椅子から落ちるようになり、職場の方に心配され『もしかしてナルコレプシーかもしれないから、検査したほうがいい』と言われ、(※ナルコレプシーとは睡眠障害の一つです。)すぐ横が大学病院なので研究室からそのまま徒歩で検査室に向かったことを今でも明確に覚えています。
結果は脳波に異常はなく、ナルコレプシーでは無かったのですが、ではこの異常な睡魔はなんでしょうかと担当医に意見を聞いたところ「もしかしたら鬱状態から来ているかも知れない。」と言われ非常に納得した記憶があります。
私の人生はそれまでどう考えても自分が狂ってしまうか、病んでいくかの方向しか見えず、幼少期から希死念慮もあったため、(まあそうか)と軽く受け止めていました。
困ったことに異常な睡魔は日増しに悪化し、食事をしている最中にも気絶のように睡眠に入ってしまうため、食べ物が喉につまり呼吸が出来ない事態になりました。
その後は仕事は楽しいので行きたいのに一日16時間寝てもまだまだ眠く、起きられなくなり、行きたいのになぜ私は動けないのかという絶望と焦りから抑うつ状態も悪化し、布団から一歩も動けなくなってしまいました。
初めてのうつ病
ある日を境に布団から全く動けなくなってしまった私は自分を責め続けてしまうループに陥っていました。今思えばうつ病の典型的な症状の一つですが、初めての経験だったため、なぜ立ち上がるという簡単な動作さえ出来ないのか理解できず、激しく混乱していました。
当然、働けなければ収入が途絶えます。やっと東京に出て来れたのに、実家に帰りたくなんてない。会社に行きたいのにどうしても体が動かないという自分の中での葛藤で常に涙と冷や汗が止まりませんでした。
職場で仲良くなった友人もお見舞いに来てくれて、優しさに触れるほど、余計に動けない自分に苛立ちと焦り、情けなさを感じていました。
その後も動けないまま時間は無常にもどんどん流れてゆき、結局私は自ら退職することを決めました。
地獄の帰郷
仕事を辞めた私は常に通帳の残高とにらめっこする日々になりました。
なんとか実家に帰りたくない一心で必死に単発バイトを入れ食い繋いで来ましたが、もうどうにもならないところまで来てしまい、当時うつで頭の回らなかった私は、働けないなら生活が成り立たないのだから酷い環境下であっても親元に帰るしかないと思ってしまい、結局あんなにも頑張って抜け出した両親のいる実家へ帰ることになりました。
親たちはまた転勤をしており、秋田の実家に戻ることになりました。
帰宅して待っていたのは以前より私を『情けない』『だからお前はダメなんだ』『何で帰ってきた!』というなじる両親の声と信者が集まり聞こえる読経でした。
上京するまでの私はきっとすでに大きく精神的にも肉体的にも限界を超えていましたが、なんとか家を出たい一心で動き続けてきました。
4年間の仕事と高校生活を終え上京し、きっと力が抜けたのでしょう。
うつ病と診断されてからの毎日は、親に抵抗する気力もなく、ただ、
(早く死んでしまいたい、亡くなった祖母に会いたい)という思いしかありませんでした。
大切な友人の自殺
実家に戻り、うつ病により全く動けない私に両親からぶつけられる言葉は酷くなり、『なんでいつもお前は迷惑をかけるのか』『信仰をしないからこうなる』『ここはお前の住む場所ではない、早く出ていけ』『お前には本当に金がかかる』『迷惑だ』『死ね』を布団の中で毎日聞く日々となり、私はより精神状態が不安定になってゆきました。
そして私にとって忘れられないあの日。
高校時代に音楽がきっかけで仲良くなった友人の自死を妹さんからのメールで知りました。
メールを読んで、理解が追いつかずにすぐに電話をしました。
妹さんと会話をして、オーバードーズを繰り返したことによる心臓の負担で亡くなったこと、お葬式は親族だけで行うことなどを聞き、放心状態でただ静かに涙を流しリビングにいた時でした。
急に母親が来て『何で泣いているの?』と聞いてきたので『大切な友人が自殺してしまった』と答えると、『それの何が悲しいの?』と言われ、私は全く想像しえない言葉に唖然としてしまい何も言葉が出てきませんでした。
すると母親は続けて『自殺か。自殺は一番救われないね。ずっと苦しむんだよ。愚かだね』と虚な目で信じる宗教の話をし出しました。
私は彼女がうつ病で苦しんで来たことを知っていました。そして治療のために彼女がどれだけ当時うつ病に理解のない人たちによって苦しんできたか、オーバードーズをするたびに本当に心配をかけてしまいごめんと仲の良い人たちに話し、回復するために頑張ってきたかを知っていました。
だからこそこの時、私は初めて感じる猛烈な怒りが込み上げていました。もう少しで母親を殴り倒すところでした。でも、今考えても一発本気で殴るくらいしてやればよかったと思います。私はこの人に幼少期から殴られ、蹴られ、包丁で刺されています。毎日暴言も吐かれています。生まれてからずっとこの人間に虐げられてきたのです。
それでも私が親に手をあげなかったのはこんな人間と同じようになりたく無かったからです。
その日、母親の狂った宗教依存により、私は大切な友人の気持ちも、命も踏みにじられたのです。激しい怒りと同時に(この人は本当に狂っている)とも実感し、ひどく寒気がして恐怖も感じました。
『お前に友達の何がわかる!』と叫び、自室に戻りました。
友人の自死のダメージは大きく、彼女から相談を受けていた私はもっと何か出来なかったのか?亡くなる数日前にもやり取りをしていたのに、なぜ私は異変に気付け無かったのか?と更に自分を責める毎日になりました。
遺書にはそれぞれの友人宛に書かれたメッセージが残されており、私のメッセージには『あなたは生きて』と書かれていました。
何で。どうして。ならばなぜあなたは死んだのだ。
私はあなたに生きていて欲しかった。エゴだけど、あなたが好きだから。
けれど自分がうつ病になって彼女の気持ちもよく分かるようになっており、彼女の苦しみを考えれば考えるほど、安易に死なないでとも言えない自分も存在していました。彼女の辛さは彼女にしかわからないし、私が引き受けられるものではないから。
こうして友人の自死をきっかけに自分の中で大きな葛藤と死生観について大きな嵐が起き始めました。
親族で唯一信頼でき大好きな祖母が死に、大切な友人が二十歳そこそこで自殺し、いよいよ私は情緒が酷く不安定となりある日から大きな発作が頻繁に起こるようになりました。
泣き叫ぶような発作に、世間体を気にした親は救急車を呼ぶしか無くなり、私は病院に運ばれる度鎮静剤を打たれる日が増え、死にたくて死にたくて夜は外を徘徊するようになりました。
初めての精神科入院、続く大切な人の死
親の住む実家に戻ってから、小学校・中学校時代の友人とも時々会っていました。
その友人と会うことによって、壊れかけの私はぎりぎりのところで心を保っていました。
何度も父親の仕事の関係で転校と引っ越しを繰り返していた私にとって、学生時代からの友人がいてくれることは大きな支えの一つでした。
そんな大事な友人のお父さんが癌で闘病していることを彼女から聞きました。お父さんはまだ若いのです。なのでとても驚きました。
その時、私は小学生の時に彼女の家で楽しく過ごした時間と共に、友達のお母さん、お父さんもとても優しくしてくれて、それが当時の私をどれだけ支えてくれていたかを思い出していました。
同時に発作が頻発し続ける状況や、私の情緒の不安定さ、うつの悪化によりいよいよ両親は『この子を隠したい』という気持ちと世間体の悪さから私を住まいから遠く離れた山奥にある精神病院に連れて行くことにしたようでした。
しかしそれは私にとっては大変好都合なことで、まず親と離れて暮らせること、きちんとまた治療を受けられること(働けなくなったので医療費を払えず治療も中断していました)に繋がり、初めての大きな精神病院に緊張しつつもどう考えても親元にいるより安心なので半ば救われた気持ちでその病院に行きました。
そしてまた運の良いことに担当してくださった主治医の先生が理解があり、直感的に私は(この先生は信用できる)と感じ、実家から遠い為通院も大変なので、先生の進めるままその病院に入院することになりました。
初めての精神科病棟の入院生活が始まりました。
規則正しい時間に起き、食事をし、投薬があり、OTと呼ばれる作業療法や体を動かす簡単なスポーツや音楽の時間があり、時々担当医との面談やカウンセリングの毎日になりました。
病室には私と同じように、理由は違えど様々な苦しみから入院に至った人たちの中で、深く傷ついた人たちにしかわからない暖かさや優しさを感じることも多く、段々と周囲の人たちに安心感を覚えてゆきました。
何より担当医の先生との話の中で学ぶことがとても多く、私は友人の死について責め続けてしまう自分や、家庭で起きた出来事などを話してゆきました。先生は私の話を真摯に聞いてくれ、適切な回答をくれました。
そこで初めて私は【バウンダリー(境界線)】という言葉を知りました。
問題を分けることの大切さ、自分と他人を分けて考える大切な境界線について学ぶことで少しづつ自分の中で絡まっていた思考がほぐれていくような感覚になりました。
私は生まれて記憶のある頃から一度も両親に人権を尊重されたことがありませんでした。
常に考えは否定され、好きなことも否定され、最終的に存在を否定されて生きてました。私は親の延長上としてしか存在していませんでした。
なので個人個人の間には境界線がある、という考えを初めて聞いた私は驚き、そして私のその後を生きる上でとても大切な学びの一つになりました。
私はこの先生と話すことで気持ちが楽になり、新しい知識を得ることで今後の私の回復につながっていくのだと感じていました。この先生に出会えて本当に良かった。またまだこの先生とのカウンセリングを続けたいと思って過ごしていました。
そんな私の様子が両親は気に食わなかったようで、邪魔だから山奥の精神病院に入院させたのに、今度は勝手に退院する手続きを進めていました。
主治医の先生に対しても両親は『何か嫌な先生だよね』と口を合わせていい、『お前の病院代を誰が払っているんだ!』と言われれば子供の私はもう親の言いなりになるしか選択肢がありませんでした。
ずっとこうだ。希望が見つかったと思ったら突き落とされる。
ずっとこの繰り返しだった。
もう嫌だ。やっと回復していけるかもしれない良い先生と出会えたのに、また親の勝手で今度は退院させられる。
退院したらまた家で地獄が待っている。
早く死にたい。
病室のベッドでただ静かに涙が溢れてきました。
いつになったらがんばりは報われるのだろう。
そんな日は来ないのか。
幼稚園の時も、小学生の時も、中学も高校も、必死で頑張って生きてきた。
なのにこの仕打ちなのか。
退院するまであと数日となったある日、私に電話がかかってきました。
急いで病室を出て、通話可能なエリアで出てみると癌で闘病を続けている友達のお父さんからでした。
友達のお父さんも違う病院に入院しているはずです。とても驚いて『〇〇ちゃんのお父さん、身体の調子は大丈夫ですか?』と聞きました。
私は精神病院に入院する前に、友達と一緒に友達のお父さんのお見舞いに行った時の姿を思い出していました。
癌というのは本当に無情なほど肉体を痩せさせます。
友達のお父さんは『諦めるなよ!負けるなよ!!』と励ましてくれました。癌の闘病中です。
しかもわたしは娘ではなく、娘の友人の1人です。
こんなに大変な中で、そんな私のことまで心配をしてくれて、私は心から泣きました。今でも思い出すと涙が出ます。
なんでこんなに優しい人が癌なのだろう。
おばあちゃんも、自殺してしまった友人も、本当に優しくて立派な人だった。
悔しくて、ありがたくて、悲しくて、嬉しくて、いろんな感情の中で泣きました。
電話は短いものでしたが、何よりも私の心を強く強く動かしました。
『絶対に、負けてたまるか。諦めない。』
それが、友人のお父さんに対する、当時自分ができる最大の敬意だと思いました。
こうして私は退院し、ほどなくして友達のお父さんはお亡くなりになり、お葬式に参列しました。
本当に忘れられません。
忘れません。
優しくて、大好きな人たちは私が20歳の時に連続して亡くなってしまいました。
そしてみんなが『諦めるな、生きろ』と言いました。
私はそれから幾度となく生死について考え、なんとかして回復をして、自分の人生を楽しく生き、生を全うすることが自分の最大の幸せであり、課題だと思うようになりました。
それが私を大切に思ってくれた人たちへ出来る、最大の事だと考えました。
覚悟を決めた再上京
うつで辛い中、私はどうにか頭を無理やりに動かして、再度家を出るにはどうしたらいいかを考えていました。
東京に住んでいた時の貯金はすでに生活で使い切っており、しかし今の状態で働き貯金をして出ることはかなり難しいと実感していました。
東京で出来た友人にも連絡や相談をし、アルバイト情報誌を片手に『この仕事に就けば寮に住める!』という仕事を見つけました。
携帯電話の修理などをする仕事で、当時沢山あったレオパレスが寮となっていました。
住まいと仕事を得て、とにかくこの家から出る。
それからの事はまた後だ。
この家を出ないと私の症状はどんどん悪化する一方だし、今まで運良く刺されても金槌で殴られても死なずに済んだけれど、今後はどうなるかわからない、と思い必死の思いで履歴書を書き、面接を受けました。
無事に仕事が決まり、再度私は親のいる家から逃げるように上京したのです。
もう二度と戻ることはないと覚悟を決めていました。
持っていきたいものもたくさんあったけど、引越し代がかさむのでほとんどカバン一つでの上京でした。
寮には一通り家電が揃っているので最低限での引越しでした。
こうして私はまた、東京で一人暮らしをスタートさせました。
【続く】
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大人になった虐待サバイバーの大変さや虐待後遺症について、また認知度向上の活動に使用させていただきます。宜しければ応援お願い致します!