見出し画像

揺浮包処 ― 梅雨の停滞|風まかせ文芸部

傘をさし、雨の中を足早に歩いていた。

目的地はなかった。
居ても立っても居られなくて、家を飛び出た。

梅雨入りした空は重く、まだ肌がヒンヤリと冷えた。

湿気の多い人生だと思った。

義母を介護するようになって三年が経った。

最初は笑顔で感謝してくれた。

「ありがとう、あなたはできた嫁ね」

一年経つと、申し訳ないような顔をしていた。

「…あなたにばかり、負担をかけてごめんなさいね」

二年目から、忘れることが増えた。

「えっと…デイサービスの方?」

三年目には怒り、疑い深くなった。

「私の財布をどうして隠すの!?返しなさい!」

夫の帰りはどんどん遅くなる。

社会との繋がりは切りたくなくて、パートを続けている。

介護サービスも利用している。

それでも足りなかった。

「…どうして、私1人が背負ってるの…?」

誰の母親なの?

今日もまた泥棒扱いをされて、警察を呼ぶと叫ばれた時、私は部屋から逃げ出した。

私だって人なのよ、心があるのよ。

3分後には「お茶ください」と笑顔で言う義母に優しくなんてできないの。

ふと、苦みのある香りに顔を上げる。

目の前には古民家のような建物が雨の中、優しい光に浮かび上がっていた。

店なのかも分からないまま、扉を開いた。

中からは生薬の独特の香りがした。

「いらっしゃいませ」

声と共に背の高い細身の男が立ち上がる。

「…ご紹介のお客様でしょうか?」

私は首を振る。

「初めてで…ここはお店ですか?」

男は目を瞬く。
その後に穏やかに微笑んだ。

「…ええ。ようこそ、いらっしゃいました」

何のお店か説明しないことが気になった。

「…漢方のお店?」

男は頷く。

お茶が欲しい訳ではなかったのに、お茶の案内がないことが気になる。

「あの、私ね。モヤモヤしてるの、湿気かしらね。
湿気をとるお茶とかあるかしら?」

男は私の話を静かに聞いている。

「あの、義母を介護してるのよ。物忘れが進んで、毎日忙しくて、私の時間がなくて…」

沈黙されるのが怖くて、話が切れなかった。

「こんな生活するつもりじゃなかったの。
だってそうでしょ?
私は介護するために、結婚した訳でもないし、就活した訳でもないし…大学を出た訳じゃないのよ」

「……夫は私を何だと思ってるのかしらね」

急に浮かび上がった言葉だった。

いつから、あの人は私の世界から見えなくなったのかしら…?

あの家は2人の世界だったはずよね。

それなのに、どうして…私だけなのかしら…。

男は私を見つめている。

私を見ているようで、もっと遠くを見ているようにも見えた。

やがて私の足元から伸びる影に視線を向けた。

「…答えの出ない難問は多いものです」

「…ですが、あなたの心は今それを拾いました」

「それはあなたにとって、見過ごすことはできない“もの”なのでしょうね」

男の言葉が静かに私の胸に落ちてくる。

見過ごすことのできない“もの”

それは私の生きてきた世界と、今の歪んだ現実。

必要以上に背負っている重いもの。

消えた夫。

「…えぇ…見過ごせないわ」

だってそれは私の“生きる権利”だから。

いつの間にか、男は茶器を手にお湯を注ぎ始めた。

湯気の中に、乾いたみかんの香りが立ち上る。

雨の降る中で少しだけ陽の気配を感じる香り。

「どうぞ」

何の説明もなく、淡い琥珀色のお茶が目の前に差し出された。

一口飲むと、温かいお茶が身体の内側を巡っていくのを感じる。

こんな風にお茶の色や香りを感じたのは、いつぶりだろう。

背中を椅子に預けるように、寄りかかった。

「こちらは陳皮、茯苓、大棗、甘草です」

「…巡らせて、流して、少し休ませる、そんなお茶です」

その説明をぼんやりと聞く。

「巡らせて、流して、少し休ませる…」

男はゆっくり頷く。

「身体の中に水が溜まり過ぎると、疲れもとれません」

「水は流れないと澱みます。人も似たようなものです」

停滞という言葉が私の心に響いた。

「そうね…あんなに忙しく動いた数年なのに、今思えば停滞していってたのね」

周りも見えず、ただひたすらこなす毎日に疲弊していた。

「きっと今、誰も幸せじゃないわ…」

そう呟いていた。

私は私だけのことじゃなくて、全てがどんよりとした雲が広がってく世界に嫌気がさしていた。

お茶を飲み干す。

顔を上げると、男は紙袋を手に微笑んでいた。

「今のお茶です。お家でどうぞ」

紙袋からは、さっきのお茶の香りがほのかに漂った。

それを受け取ると、気恥ずかしくなった。

「ごめんなさい。急にお邪魔して、話して、お茶までいただいて……図々しいわね」

男はゆっくり首を振る。

「ここはそういう場所です。
揺れて、浮いて、包む処ですから」

そう言えば、店のどこかに「揺浮包処」と書かれていたことを思い出したが、無理に考えるのは止めた。

「ありがとう」

紙袋を抱え直すと、私は再び傘を手にした。

男は扉を開けて、送り出す。

「お気をつけて」

その優しい明かりに、背中を押されるように歩き出す。

雨粒が傘に当たる音が、少しだけ軽く聞こえた。

来た時と同じように足早に、家へと向かった。

雨は変わらずに降り続けている。

どんよりとした雲も変わらない。

けれど私の中にはあの、雨の降る中に少しだけ陽の気配を感じる香りが残っていた。

“お義母さん、あなたがゆっくり過ごせる処を探しましょう”

“あなた、話し合いましょう。私は今の生活は続けられないわ”

2つの言葉を胸に抱いて、家の前に立つ。

“停滞”を動かしましょう。

私達の“生きる権利”を守るためにー


お読みいただいて、ありがとうございました。本作は風まかせ文芸部さんの企画に参加しております。


揺浮包処、二人目のお客様。

今回は「傘」から始まった雨の日のお話でした。

雨は止まなくても、停滞は少しずつ動き出すのかもしれません。

揺浮包処の一人目のお客様はこちらです




いいなと思ったら応援しよう!