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読む女 第一話 : 禁忌のはじまり

銀座の夜で、真璃は「人を読む」ことで生きてきた。

男の沈黙、グラスを置くタイミング、欲望の揺れ。すべてを読み、外さず、整える。それは、かつて愛した小説家・榊悠人との関係の中で手に入れた力だった。

だが、榊の小説の中に“削られた自分”を見つけたとき、真璃の読みは少しずつ狂いはじめる。

読まずに踏み込む若いホステス。
かつての恋人の不倫疑惑。
自分自身を読みにくる週刊誌記者。
そして、読んでも登れない壁。

読むことと、愛することは同じではない。

これは、恋を失う話ではない。
その恋で手に入れた世界の見方ごと、失っていく女の物語。

あらすじ

1.禁忌のはじまり     ※目次のあと本文 2.バーティカル・リミット
3.パワーストーンはただの石
4.整えられた味
5.今度、という永遠
6.今度のない夜
7.読み間違えた男
8.凍
9.ロング・グッドバイ
10.終わらぬ夜

目次

 新刊は、駅前の書店で平積みになっていた。

 照明に照らされた表紙は、現実の山よりも整いすぎていて、そこに吹く風は、きっと安全な方向にしか流れないのだろうと思った。

 帯には、彼の名前。榊悠人。

 その下に、軽やかな一文が添えられている。

──愛とは、命綱だ。

 私は一冊を手に取り、ビニール越しにその重さを確かめた。思ったより軽い。軽いくせに、妙に手に残る。

 ビニール越しの感触は均一で、どこを持っても同じ温度だった。中身だけが、ばらばらの温度をしている気がした。

 この薄さの中に、どれだけの夜が切り取られ、どれだけの沈黙が整えられているのかを考えると、胸の奥で鈍い違和感が脈打った。

 切り取られた夜は、きっと静かに並べ替えられている。言わなかった言葉や、間違えた沈黙は、都合のいい順番に置き直されている。

 銀座へ向かう電車の中で、ページを開く。

 紙のざらつきが、指先に残る。乾いた感触なのに、どこかだけ温度を持っている。

 山岳小説だった。

 氷壁、ザイル、風。

 野心的な男が頂を目指し、資金を集め、スポンサーと交渉しながら遠征を組み上げていく。どの場面も、よく出来ている。綺麗に整っている。だからこそ、少しだけ息苦しい。

 スポンサーとの会食の場面に差しかかったとき、私は読む手を止めた。

 銀座のクラブ。酒と金の匂い。その中に、ひとりのホステスが差し込まれる。よく笑い、場を回し、男の言葉を半歩先で拾う女。

 グラスを置くタイミングが少しだけ早い。笑うときは、相手の言葉が終わる直前。そうすると、相手は続きを話しやすくなる。

 グラスの中の氷は、会話の長さと同じ速度で溶けていく。減りすぎる前に水を足すか、終わらせるか。どちらにするかは、その場の空気が決める。

 場の温度を上げすぎず、下げすぎず、誰にも気づかれない位置で、流れを整える。

 ほんの数ページの脇役。それでも、十分だった。

「……上手く書くじゃない」

 ほんの少しだけ、嘘が上手くなっている。

 氷を噛んだときの、あの乾いた音が、なぜか口の中に残っている。もちろん、今は何も噛んでいない。あの音は、場を切るときの音に似ている。少しだけ強く入れると、会話の流れが変わる。

 あれは、たぶん私だ。もちろん、そのままじゃない。少しだけ整えられて、少しだけ扱いやすくされている。

 それでも分かる。

 声の高さ。間の取り方。あのとき、言わなかった一言。彼は、それらを覚えていた。そして、必要な分だけ残して、あとは削った。

 私が削られた。

 削られたあとに残ったものの方が、きれいに見えることを、私は知っている。

 ページを閉じる。

 電車の窓に映った自分の顔は、まだ夜の顔になりきっていない。少しだけ、間の悪い顔をしている。

──思い出す。あの夏の夜のことを。

 駅前の舗道は、雨に濡れていた。ネオンが水たまりに溶けて、輪郭を曖昧にしている。足元の水は浅いのに、どこか深く見えた。踏み込めば、戻れない気がした。

「……一緒に、飲んでくれませんか」

 振り返ると、場違いな男が立っていた。まだ制服の匂いを残したような、そんな若さ。声は頼りないのに、目だけがやけにまっすぐだった。

 その目は、まだ何も見ていない目だった。だから、まっすぐに見えた。

 私は一度だけ視線を外し、それから、もう一度彼を見た。

 断る理由はいくらでもあった。引き受ける理由は、特になかった。

 だから私は、少しだけ気まぐれに頷いた。

 ホテルの扉が、背後で音もなく閉ざされると、空気はすぐに密室の熱を孕んだ。彼の掌は、もう手の施しようがないほど汗で濡れ、体全体の震えが止まらない。

 その緊張が、どこかで懐かしい種類のものに触れている気がした。昔、同じような顔をした男を、何人も見てきた。けれど、この震えは少し違っていた。

「……触って、いいですか」

 そのかすれた声は許可を求めていたのに、彼の身体から立ちのぼる畏れが、逆に私の奥のスイッチを入れた。

「大丈夫よ」

 私は、彼の震えごと、その唇に触れた。そのまま、壊すつもりで引き寄せた。

 瞬間、彼の体は激しく痙攣した。荒い息が、肌に直接触れる。シーツに落ちた最初の痕が、じわりと広がる。彼の爪が、背中に食い込む。

 その必死さが、思ったよりも深く入り込んでくる。

 ただの気まぐれのはずだった。それなのに、どこかで線がずれた。

 果てたあと、彼はまだ震えたまま言った。

「……俺は、本気だから」

 軽く笑って、流して、部屋を出ればよかった。それなのに私は、もう一度彼を引き寄せていた。

 数か月後、彼は言った。

「親に、紹介したい」

 思わず笑った。

「私を? あなたの家、医者でしょ」

 けれど彼は、まっすぐこちらを見ていた。

「隠す理由がない」

 そのまま私は、彼の実家へ連れて行かれた。

 広い応接間。

 冷えた空気。

 磨かれた床。

「水商売の女を?」

 その一言で、すべては決まった。

「ならば勘当だ」

 外に出ると、雨が強くなっていた。彼は濡れたまま、私の手を掴んだ。

「行く場所は、もう一つしかない」

 辿り着いたのは、私の部屋だった。

 六畳一間。

 白いシーツ。

 小さなテーブル。

 窓際の観葉植物。

 その横に、置きっぱなしの猫の置物。

 彼は部屋を見回して、少しだけ笑った。

「ここでいい」

 その夜、私たちは何度も身体を重ねた。

 貧しさも、孤独も、外の世界も、その熱で押し返せる気がしていた。

 彼の胸に耳を当てると、心臓の音がはっきりと聞こえた。

 それが、未来の代わりになると思っていた。

──その夜から、私たちは同じ部屋で暮らし始めた。

 彼は書き、私はそれを読んだ。それで、足りると思っていた。


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