日本人が他人の足を引っ張る理由を考察|意識高い系資本主義との対比
『「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』という本を読んでいた。原題は『WOKE CAPITALISM』「WOKE」とは「WAKE=目を覚ます」という動詞から派生した言葉で、アメリカの公民権運動時代から使われていた言葉だが、近年は「社会正義」を実践しようとする人びとの活動を揶揄して使うスラングのようになってしまった言葉だ。
本書で多くのWOKEな事例が説明されているが、わかりやすい例で言うとAmazonのジェフベゾス氏が2020年に気候変動対策として100億ドルを寄付したが、amazonがそれまでの10年間で収めた法人税の金額は寄付金額の3分1に過ぎなかったという事例だ。
脱税したわけではなく巧みな租税回避の結果であるが、寄付のような公共の利益に私財を投じるならばそもそも国に税金を納めれば良いではないか、というわけである。巨額の寄付で社会的な賞賛をうけつつ、その一方で巧みに租税回避をしている。こういった事例を本書では「WOKE」として指摘している。
そして、本書では「WOKE」を日本語で「意識高い系」と訳しているところに特徴がある。確かにここ10年くらいでよく聞くようになった言葉であり、志高く自分の人生と社会の将来を考えている人にとっては足を引っ張られる思いだろうと思う。
特に若者のコミュニティで多いように思うが、中年や高齢者の場合も「意識高い系」という言葉は使わないものの、家族や親族間で足を引っ張るようなコミュニケーションを取っている人が多い可能性は高い。
『「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』では、社会的意義が高い企業が資本主義のもとで「美徳」が目的ではなく、「美徳」を手段として利益を得るようになっている点に批判がなされているが、本書はアメリカの本であり日本の社会ではまた少し違った考え方をする必要があるように思う。
日本の「意識高い系」というスラングが跋扈する風潮はもっと民間人の身近で使われている言葉に思える。企業を揶揄するのではなく、友達や家族の足を引っ張るための言葉なのだ。
これが何故なのかを考えてみたけれど、偏差値で評価する教育制度のもとでクラスメイトと受験競争をした経験が根付いていることと、会社員になってからも終身雇用制のもとで集団に奉仕する働き方をしていることが関係しているように思える。もうひとつは連帯責任が課される村社会的な文化が根付いていることだ。
偏差値教育は相対評価であることから、自分の成績を高めることではなく競争相手の成績が下がることによっても自分の偏差値が相対的に高まる。自分の成績を上げる努力よりも他人の勉強を邪魔する方がコスパが良いのかもしれない。
日本の会社員は今でも集団に奉仕する働き方が根付いており、そういった環境下ではどんなに成績が悪かろうと毎月の給料は保証されている。一方で成果を挙げても報酬はそこまであがらない。そういった環境では、自らが成果を挙げることよりも他人の評価が下がれば自分への需要が増加する作用が働くため、「生き残る」ことが最もコスパがよくなってしまう。
だから、多くの日本人が自分を成長させるのではなく、他人の足を引っ張ることにばかり夢中になっているのではないか、というのが僕の考察である。
もちろん、身近な人が自分を置いて羽ばたいていく様は寂しさが募る気持ちもわかる。そういった感情的な原因も大いにあるだろうけれど、根本的には自分が生き残るために他人の足を引っ張って生き残ろうとしているんじゃないか。
こうして考えると実にみっともない文化だと思える。本当に意識高く頑張りたい人は、揶揄をされたとしてもそれはその人の生存戦略の一貫だと思って、気にすることなく邁進するようにしよう。「WOKK CAPITALISM」が説明する「WOKE」について考えるのはそれからである。
