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仕事に役立つ本を捨て、目的のない読書を続けると──

多くの本好きは「積読」をしている。つまり読みたいと思っている本がたくさんあるわけで、それを一冊ずつ読んでいっているわけだ。買って満足だと言う人も多いらしいけれど、その気持ちもわからなくはない。

だから本好きの誰もがそれらを読み切るためのロードマップのようなものがあるに違いない。あれを読んで、これを読んでを繰り返して積読をどんどん解消していっている。(本屋で買い過ぎてしまい読むスピードよりも買うスピードの方が速くなってしまうのはもはや「あるある」だ)

その読書のロードマップについて、大まかに分けてみると「課題解決型の精読派」(以下、精読派)と「目的なき乱読派」(以下、乱読派)に分かれる。

「精読派」は目的から逆算して読書をするタイプだ。例えば、仕事においてマネージャーへの昇給を目指したいと思っている人が、マネジメント関連の本を読み進めていくことで昇給を果たし、目標を達成していくような読書である。

一方で「乱読派」は、ビジネス書を読んだ後、次に選ぶのがミステリ小説で、その次に選ぶのが文化人類学の入門書で…と目的から逆算するのではなく、興味があるジャンルの本にひたすら触手を伸ばして読んでいく手法である。

どちらが良いかの正解は意見が分かれると思う。人生は短いのだから効率的に目標に向かって必要な読書をした方がいいという「精読派」の意見はもっともだ。しかも普段の仕事の努力と読書が綺麗に紐づいているため、知識とスキルや経験が相関関係となって成長を加速させてくれそうなのも良い。

しかし「乱読派」からすれば、目的を持って読書をすることによって効率化は計れるけれど、却って自分の可能性を制限してしまうことも意味してしまう。ビジネス書ばかりを精読するのに比べて、ミステリ小説や文化人類学の本を読んでいる時に思いもよらない発見があるかもしれない。その発見こそが昇給へのヒントになる可能性だってある。こういった理屈が「乱読派」の意見だ。

こうして比較してみると、僕はどちらかと言うと「乱読派」な読書人生を送ってきたことに気づいた。自分の可能性を制限しないなんていう高尚な理由ではないけれど、自然とこうなってしまった。

正確な説明をすると、「目的を持って精読を始めたが意識が移ろってしまい結果的に乱読している」という状態が正しい。一冊の本を読むと好奇心に拡がりがもたらされて別ジャンルの本にも関心が行って読みたくなってしまうのである。優れたビジネス書には優れた小説の名文が引用されていることが多い。そういう時に「精読」から「乱読」への切り替えが生じがちだ。

また、長く読書習慣を続けていると、自然と過去に本を読んで得た知識の点と点が繋がって線になっていくこともある。忘れかけていた知識が思わぬかたちで蘇ってきて繋がることは多い。例えば、ビジネス書で学んだ組織論が、偶然手に取った歴史小説の武将の決断と重なって、自分なりの答えとして腹落ちするようなことだ。

僕は20代の頃にがんの闘病をしていたが、その時に読んだ中島らもの『エキゾティカ』という東南アジアが舞台の短編小説を読んで「人生はこんなにも楽しいのか…!」と感じた。それが生きる活力を得ることに繋がり、その勢いを持って闘病から再就職まで行動する原動力を得た。この本の内容にビジネスや就活に関わる記載はほとんどない。

著名人のエピソードを例に出すと、Amazonの創業者であるジェフベゾスはカズオイシグロの『日の名残り』を愛読書として掲げている。『日の名残り』はイギリスの執事が献身的に仕えた主人との記憶を思い返す物語だが、この話にITビジネスや小売りのヒントは書かれていない。ジェフベゾスはこの小説を読んで「人生に後悔を残したくない」と感じ、それが起業のきっかけになったと語っている。

これを経験してしまうと、目的達成まで遠回りだとしても「乱読」は長期的には効果は高いんじゃないかと思えてくる。気づいた時には目的を達成しているようなイメージだ。

そして、個人の人生における課題は、1冊の本はもちろん、1つのジャンルの知識からだけでは解決に向かわない。複数の本を読んで、自分なりに咀嚼をしてようやく人生に効果があらわれるとも思える。

例えば、停滞する日本経済の元に生まれ落ち、目減りする貯蓄の価値を嘆きながら社畜の様に働き、そんななかパートナーが家庭の問題に頭を抱えていながらも病気に罹ってしまったとしよう。そんな時にリストラの波が押し寄せるかもしれない。不運は同時に起こり得るし、それに抗える環境にないことだって多く、人生の課題は複合的なのだ。

そんな状況を『7つの習慣』を読むだけで解決できるのか『金持ち父さん貧乏父さん』を読めば何とかなるのか、そうはいかないんじゃないかと思う。

長く読まれている本には、人間の課題を解決してくれる叡智が詰まっていると考えても良いと思う。だけど、その叡智を享受して自分の身の周りの課題を解決するには、自分の人生にその解釈を落とし込む必要がある。そのためには、やっぱりたくさんの本を日頃から読んでおくことが何より重要になるんじゃないかと思っている。

もちろんこれは僕が目的達成型の「精読」が上述の理由でできないバイアスに従って書いた私見だ。きっと僕には見えていない「精読派」の魅力もあるだろう。

精読する自由もあれば、乱読する自由もある。これを読んだ人が「自分はどっち派だろう」と考えてみるきっかけになれれば嬉しく思う。

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