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     私のさむけ

         一

 ロス・マクドナルドに『さむけ』という作品がある。推理小説だとかハードボイルドを好む人であれば当然知っている、知らなければおかしい、もしくはそれの存在しない別の世界線に生存している人にちがいない。いや、そこに止まらず、それなりに書見する人であれば、よほど偏狭な範疇に拘泥していない限り、たいてい読み、感銘をうけた経験があることのつゆ疑えない不朽の名作。
 ゆえに説明不要であろう、私立探偵リュウ・アーチャーが依頼者の失踪した新妻を探しだし…という物語。
 私の認めているこの一文を目にしている人で、もし『さむけ』を未読なのであれば、もしかするとネタばらしになるような箇所があるかもしれないため、この辺りで目を通すことを止したほうがよいかもしれない。分かりやすく真相を語るつもりはないし、そもそういうトリックの見事さだとか大どんでん返しだとかいう通俗的なものが見所ではないわけであり、私は(私のみならずだろう、おそらく)そういうものに感銘をうけたりしたわけではないし、仮にはっきり真相が語られたところで、あの名作の魅力が損なわれることはないと信じるものではあり、ためにそれは老婆心でしかないのかもしれぬのだが。また、なにもあの名作の感想を書くことがここでの目的ではないわけであるし。
 さりとて、直接的でないだけに、深部のことに触れてゆくことにはなりそうで、それが初めて読むうえで、この一文がどのような影響をあたえるものなのかどうか、私には予想がつかない。興醒めになるかもしれないし、興を増させることになるかもしれない。もしかすると、まったく影響なぞしないのかもしれない。いずれにせよ、未読の人は、ここまででどうするのか進退を決したほうがよかろう。
 で、早速、本題にはいってゆく。
 初読したとき、ぞわりとあたかも肌に毛虫が這うような、淀み粘りのある液体がひとすじ胸のうちに逆流するような、そこはかとない不快感を、そこはかとないながらくきやかに感じた。一言でいえば、題名である「さむけ」を覚えた、となるだろう。
 その感覚を思いかえしてみて、どうしてそういう反応を喚びおこされものか改めて省みたとき、なかなかに複雑なものがあることに気づかされる。雑駁にまとめてしまえば、老残であり、老残を認めぬ浅ましさ、といえるのではないかと思う。
 勘違いされることはないと思うが、なにも老化は悪だとか恥ずかしいことだとか惨めなことである、というつもりはさらさらないし、そんなことを思ったことすらないと断言しておく。もとより私とて老い、朽ちてゆくことを恐れた時期がありはしたものの。
 重力を悪だとか恥ずかしいことだとか惨めなことと、言い立てる人なぞいようか。いたら、その人が異常というのか特殊なだけで、そういう捉え方は個人の自由にしても、ほかの人にとってはなんの意義もない、いわば戯れ言、放言、寝言にすぎない。老化についても、然り。自然の摂理でしかない。さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れぬわざなり。
 老化が浅ましい、のではなく、老化を認められず、足掻き、しがみつき、若い砌とおなじようなことをしようとする、もしくはする、そのことが浅ましいし、おぞましい。それが「さむけ」を喚びおこすのだ。
 何によらず、経験を積むにつれ、もしくは齢を重ねるにつれ、受け取りかただとか印象がかわる、ということは往々にしてある。むしろ、変わらないほうが稀であろう。「齢を重ねれば分かる」もしくは「齢を重ねなければ分からない」という文句に、若輩の砌は小首を傾げたり、反感をもったものだが、堂々たる初老とよべる齢となった今、それが真であったとしみじみ感じいるようになってきている。
 もっとも私は年少の人にむかって、そういうことを言ったことはないし、言うつもりもないし、むしろ言いたくない。それは言っても詮ないことであるし、その文句をかけるのは、往々にして相手を蔑むためであるように思われるから。もしくは自身を優位にしようという心理がはたらいている、というのか。言うなれば、餓鬼と罵るのと五十歩百歩なのではないか、と思われてならないから。若輩であった砌の私が素直に受けいれられなかったのは、生来の天邪鬼があったとして、そういう賤しい心のうごきをそぞろに感じとっていた、ということもあるように思われる。
 そしてそういうものが昂じ、とどのつまり相手に反感どころでない不快感をあたえ、さむけを覚えさせるのではないか。そう、さむけとは特異な立場だとか人のみが引きおこすものではなく、誰しもが引きおこしてしまう、日常茶飯事なことなわけだ。
 なにとなく、説教臭い方向にゆきそうな話ではある。対策というのか、心がまえとして、「年相応ということをわきまえよう」だとか「年若の人にも、敬意をもつようにしよう」というふうに。たしかにそれらは必須だろうと、私自身に思う。
 さりながらここで述べたいのは、さむけを覚えさせる齢に、私もなってしまったのだなぁという感慨でしかない。そのうち『さむけ』を読みかえしてみようと思っているが、さむけをあたえる人物を、わがこととして読める部分があるのではないかと、いささか恐ろしいような、楽しみなような、後者のほうが幾分重いだろうか。
 苦味、酸味をそれなりに楽しめるようになってくる、というのも年の功かもしれない。さむけは他人にむけずに自分にむけ、引き締めてゆきたい、なんぞと自戒も多少なくもないが、それよりも、おかし味、愉快さを感じなくもない。そういう、ある意味ふてぶてしさとも言えるものが、他者をして慄然とさせもするのだろうか。
 そうかもしれない。さりとて、こうしてひとりごつだけであれば、罪がないのではないか。と開きなおるのも、またそれに当たるのか、嗚呼。


         二

 最近になって詐偽メールがよく届く。主に、某男性アイドルの名を騙ったもの。その人と当然知乙でなく、面識もない。まったく関心もない。言わば被害者といえる某アイドルの印象を下げてしまう恐れがあるため、名は伏せておく。
 詐欺師(どうやら業者らしい)自体、こちらが当然知乙でなく、面識すらないということを熟知して、いや、間違いなかろうと考えすらせずに下手な鉄砲数撃ちゃあたるとばかりに数多メールを送信している模様。その内容は、有名人だとかテレビ業界だとか医師に宛てたものを、アドレスを誤って送ってしまった、という設定で送ってきている。○○(アイドルの名前)ですが、プロデューサーの○○さんですよね、といった風に。
 前述したとおり、まったく関心がなく、また免疫があるためにGoogleで検索してみると、案の定詐称メールであると分かった。返信してやりとりしてゆくと、出会い系のサイトに誘導される、という流れであるらしい。そういえば、だいぶ前だが某SNSをしているときに異様に親しげにメッセージしてくる女性がいて、対応していたら出会い系のサイトに誘導されていったことがあった。こちらには兎の毛で突くほどの関心がその人にも、女性にもなかったため、すぐに脱会してなんの被害もなく。それはおそらく十何年か以上確実に前になる。やり口が変わっていない、進歩がないものだ。
 最近のメールによるそれは、受信拒否設定をしてもアドレスを変えてよこすので、煩わしい。おなじ○○が、わざわざアドレスを幾度となく変えてまで、誤ってメールを寄越すことなぞあるわけがなかろう。かつ親交のある医師だとかプロデューサー等であれば会うこともあろうし、連絡方法ならメールだけではなく、通話だとかLINE等いくらでもあるわけであるし。
 ネットで指摘されているとおり出会い系サイトもしくはアプリの業者の仕業だと仮定して、そこから見えてくるのは奸知が乏しいだとか、もしかすると高齢化がそこにも押し寄せていて守株ということなのだろうかと考えたりする。その内でもやはり、サクラが用意されていて唆し、金を巻き上げてゆくという手口なのだろう。
 私は男女の出会い系サイトを利用したことがないものの、まず間違いなかろう。ゲイ・バイの出会い系サイトは利用したことがあるため。前述した免疫とは、そこでついた。無料お試し期間で、プロフィール画像をつけず、プロフィール自体ろくに記さぬのに、登録した途端、熱烈なラブコールがきたりするわけで。それは免疫がついた後、運営業者がサクラを駆使していることを確認するために、無料お試し期間を利用しのっぺらぼうにしてみた結果。
 免疫をつけてくれたのは、ある格闘技をしているという設定の人だった。同時に消防士という設定の人ともやりとりしていて、されど送信にも受信にも課金を要し、かつ、私自身付き合うのはひとりだけという信条であり、格闘技をしている人に絞ってやりとりするようになった。
 どうなったか、は記すまでもない。架空の人物なのだから。いついつ会おうという話になるも、用事ができたと毎回すっぽかされ、直接メールのやりとりがしたいとアドレスを送るも然らぬ体をされ。それでも課金を続けられる状態であれば継続していたかもしれないが、退職することとなり、泣く泣く止めることとし。無論その旨メッセージしメールアドレスを再度送るも、当然返信なぞあるわけのなく。
 おかしいと気づきそうなものだが、恋は盲目。理性を失い、ぼんやりした人なのだろうくらいに理解、いや、都合よく曲解し信じきっていた。さりとて、次第に心づいてゆく。心づいてゆく、というより、それしかあり得ないことを認めざるを得なくなってゆく。
 他人からしたら、どれだけ間抜けなのかと嗤われるだろうが、私は本気で恋し、愛していた。携帯(スマホが世間にまだない時代)のちいさな画面内だけの架空の存在に。ゆえに認める、のみ込むのは非常に苦しく辛い行為だった。刃物をのみ込んでゆく、赤く溶けた鉄をのみ込んでゆく、そんな切り裂かれる感覚といえようか。
 だから私は、いまでも時おり見かける、所謂ロマンス詐偽で大金を巻き上げられたという人々を嗤うことなぞできない。嗤ってはならない、と思いもする。騙される人のおおよその気もち、状況が察せられもするから。
 そういう人々は、寂しい孤独な状態にいる。そんなことは自分のせいだ、他人のせいにするんじゃあないと罵ったり嘲る人もいるだろうが、確かにそうともいえる。さりながら、人それぞれさまざまな性格、環境、状況というものがある、ということにも目をむけられるようになりたいもの。そういう冷たかったり突き放すような風潮に追いやられ、という面も少なからずあるように思われるし。
 ただし、謗ったり嘲ったり非難したり、昨今多く見受けられる人々とて、そうなるにはそうなるだけの事情、背景というものがあり、実はその影響によるものが他者にむけられている、というだけのことなのかもしれない、とも思う。自己にむける人々は、孤立し、とじこもり、過剰になれば自傷行為をするということで、根はおなじなのかもしれぬ。内にむくか、外にむくかというだけの違いかあるだけで。
 私の場合は内にむいていて、そういう内にむいている者は餌食にされやすい、ということなのだろう。内にむき、かつ、経験の浅い者はなおさら。
 あれから何十年も経て、他にもいろいろあって埋もれたものか、振り返ってみても、もうなんとも感じなくなっている。数年ほど引きずり、生々しく胸から血を流し、よく流涕したものだったが、そういう自分がいまは不思議に思えるほど何も感じない。最近くるメールも、眠りを妨げる蚊程度にしか感じず。
 さりとて、おかしな話だが、一抹の寂しさを覚えなくもない。あのときの、踠くように苦しんだ、そのときの精神の皮膜のうすい自分自身を懐かしむような気もちがある。昔々別れたぬいぐるみをふと思いだし、愛おしむような、そんな気もち。


          三

 芥川龍之介の『地獄変』を、私は読解力のリトマス試験紙としている。読解力を測るバロメーター、という言い方も適うか。さりとてその基準はさして高いものだとは決して思わず、平均値、もしくは最低限といった程度のものだろうけれど。
 『地獄変』の解説だとかレビューを見ると、判を押したように似たり寄ったりのものばかり。[主人公である良秀の「芸術の完成のためにはいかなる犠牲も厭わない」姿勢が、芥川自身の芸術至上主義と絡めて論じられる]とWikipediaにあり、他の言説も大同小異この枠に納まる。どのような感想をもとうが、意見を発信しようが自由ではあるし、そういう風に捉えられるということは事実なのであろう。
 されど、あくまでも「そういう風に捉えられる」でしかない。付和雷同。鵜呑みにするばかりで思考しない人がいかに多いものか。
 そも良秀が主人公、という点から疑わしいわけであり。
 この先の文は、まだ『地獄変』を未読なのであれば読了されてからの方がよいだろう。もしくは再読されてからにした方がよい。読解力の自己診断のために。可能であれば『邪宗門』も読まれてからのほうがよいのではないか、と思う。
 結論から先に言ってしまうと、『地獄変』とは巷間に流布する「芸術のためであれば最愛の娘さえ見殺しにする良秀(≒芥川龍之介)の非道なまでの芸術至上主義を描いたもの」というのは誤り、ということ。穏当にいえば、そうとも解釈できる、されどかなり奇妙なそれ、ということに留まる。
 それでは一体『地獄変』とは何を描いた作品なのであろうか。
 堀川の大殿に仕える語り手が主人公(良秀が主人公ではない)であり、堀川の大殿の横暴、非道を告発する話である。
 堀川の大殿の横暴、非道なさまはごく当たり前に理解できるはずなのだ。良秀の異常性というか奇嬌なさまを如実に綿々と、分量としても大半を占め描かれている(語られている)ため、大殿の所業は影になるし(作為的な操作)、かつ語り手は大殿を悪く言わないように、そう受け取られないように慎重に慎重を期しているわけだから。風聞、憶測を挟みつつ、かついちいち否定してゆき。
 そこに着眼できたものの、そこで止まってしまい、「語り手は忖度している」としたレビューを目にしたことがある。着眼点はよいのに、「芸術至上主義」云々という固定観念、先入主に絡めとられてしまった模様。
 そしてその人は、やはり良秀に芥川龍之介を重ね、もろとも劫火に焼かれたのだと結論されていた。文学的装飾をほどこした気取りとしか私にはとれない。
 そも「忖度」という言葉を使うこと自体、如何なものか。
 昨今、メディアや政治やネットの場面で「忖度」が多用されるようになり、権力に対する過剰な配慮が不透明な意思決定や不正につながる、等ネガティブな謂いとされてあるが、本来の謂いとしては適切ではない。
 いや、もちろんそういう捉え方、使用も可能なわけだが、おそらく昨今よく目にするものであるから安易に使っただけのことだろう。忖度にしろ揶揄にしろ解像度にしろ、その言葉自体に問題があるわけでなく、よく目にするからと、ろくに吟味することなく安直に使用してしまうその神経の、弛緩、粗雑さは問題ではないかと私は考えるもの。
 そういう者に、いかほどの読解が期待できるものであろうか。事実、的が外れた読みをしているのが、格好の証左となっているのではないか。
 『地獄変』とは、繰り返すが、堀川の大殿に仕える語り手が主人公(良秀が主人公ではない)であり、堀川の大殿の横暴、非道を告発する話である。
 告発するにあたり、それと主に悟られぬように、忖度というより、配慮する、気を遣う、慎重になる、自分の言動に細心の注意を払う、というのはごくごく当たり前のことではないか。壁に耳あり障子に目あり。語り手の立場が分かれば一目瞭然。主の悪業を、知り、分かっていても、あけすけに語れるものではなかろう。封建社会のなかで、ましてや残虐非道な主であればなおさら。そんななかでもあえて語るわけで、褒めたたえ胡麻をすりすり噂話、流言、憶測をならべたて、良秀の奇嬌な言行を全面に出し、幾重にもカモフラージュしつつ婉曲に示してゆく。そこから語り手のやる方ない怒り、憤懣等を読みとることが適う。
 京都人は陰湿、腹黒いというようなことを言われがちだが、何ゆえそういう婉曲なもの言いが発達したのか、ということ。好き好んでではなく、そうせざるを得なかった状況があるからであり、その消息と語り手とは相通じるものがあるだろう。
 いや、なにもそういう喩えは不要であるのかもしれず、誰しもなにかしらの団体に属した経験があるはずで、その長となる者が悪さをしていたとして、よほどの犯罪行為でなければ(よほどの犯罪行為であったとしても、という場合もあろう)、自分の立場を考えればそうやすやす、その長の知れることになるかもしれないなかで告発なぞできるものではないだろう。なにやら小難しいことを言っていそうだが、実はそれだけのことでしかないのだ。そんな中、よほど腹に据えかね他者に伝えようとしたとき、どうするのか、と考えれば自ずと答えがでるのではないか。
 そういう正常な判断ができさえすれば、「堀川の大殿に仕える語り手が主人公(良秀が主人公ではない)であり、堀川の大殿の横暴、非道を告発する話」ということがすんなりのみ込めてくるのではないか。
 その捕捉として、『地獄変』の続篇にあたる『邪宗門』があり、大殿の死に様がそれを証し立ててもいる。「あた、あた」と熱病で亡くなるのだ。焼かれた良秀の娘の夢を見た後に。そこには平清盛の死に様のイメージが重ねられている。
 『平家物語』延慶本にある、「病付き給ひける日より、水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し。臥し給へる二、三間が中へ入る者、あつさ堪へ難ければ、近く有る者希也。宣ふ事とては、『あたあた』と計り也。」
 語り手が褒め讃えたことが紛れもない事実だとすれば、そんな死に様にはならない筈。なったとして、よもやと驚愕するのが人情であろうに「思いもよらない急な御病気で」とあっさりと済ませる。そこから様々な、言葉にならぬ思いを汲みとることが可能。そして大殿の危篤の床そばにいる若殿のようすは、「身にしみて、ひやりとする、それでいてやはり頼もしい、妙な心もちが致すのでございます。」と語られる。
 ちなみに堀川の大殿のイメージは『邪宗門』では平清盛だが、『地獄変』では織田信長なのだろう。良秀は猿という渾名であったし。織田信長と平清盛自体、ともに重なるところがある。いずれも専制君主というのか横暴というのか、寺を焼き討ちし、仏敵とされ高熱で没したわけであるし。
 『地獄変』とは、堀川の大殿に仕える語り手が主人公(良秀が主人公ではない)であり、堀川の大殿の横暴、非道を告発する話である。『邪宗門』はその捕捉という性格をもつ。
 『邪宗門』は未完であるが、大殿の子息である若殿が語られてゆく。故に若殿を告発する内容であったのではないか、と私は推察する。
 もとより、この解釈が揺るぎなく正しいものだ、と断固主張するつもりはない。ただし、固定観念、先入主に捕らわれてばかりでは自分が損をすることになる、とは断言できる。いくら名の知れた人の意見だろうが、Wikipediaなりネットに記してあろうが、それが正しいとは限らないということ。なににせよ自分の目で見て、自分の頭で判断する必要があるという、当たり前のことだけは、覚えておきたいもの。それはあくまでも、自分のため、に他ならない。


         四

 昔ばなしをする。私が中学生の砌。昼餉の時間に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の朗読劇が放送で流されていた。その一場面がいまも印象に焼きついている。逆に他はなにも憶えていない。他にどのようなものを流していたのか、そも中学生活自体、朧となっている。
 その印象にのこった場面というのは、汽車に乗りこんできた姉と弟が去った後のジョバンニが、カンパネルラにかけた台詞。
「カンパネルラ、やっと二人きりになれたね」
 そのとき、教室内にくすくすと笑い声がおき、一方私は胸を突かれたような心地がされたものであった。原作では「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」とあるところを、脚色したものであるらしい。それは改竄だろうか、誤読だろうか。宮沢賢治の作品を読んでいると、その解釈は的を得ているのではないか、と私には思えてならない。それは私自身の性的志向ゆえなのであろうか。
 話はかわり、植木雅俊の『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』を読む。題名から分かる通り、仏典の漢語訳されたもの、その受容のされ方に対し、サンスクリット語の原典をつき合わせ検証、言及してゆく。この説明を読み、無味乾燥で退屈なものと思われる方がいそうだが、さにあらず。少なくとも私には非常に面白く興味深く、学びとなった。
 白眉と私が見做すのは、道元、親鸞、日蓮の恣意的読み替えを指摘する箇所。道元の誤りは他に指摘される有名なものがある。それはさておき。されど導きだされる説諭の素晴らしさにはまったく影響を及ぼさない、という主張に著者の真骨頂を見た。
 曲解を曲解、誤解は誤解と指摘して切り捨て終えるのではなく、その内容の優良なさまは認める、という姿勢。
 そして、日蓮に纏わり、宮沢賢治に言及している部分に感銘を受けた。感銘、というのか、蒙を啓かれたというか、目から鱗というか。
 宮沢賢治をあつかうテレビ番組を、法華経信仰にふれないのは片手落ちだと訴える投稿を目にし、それに対し、日蓮宗と宮沢賢治は無関係だという反論が寄せられたのを目にもし、法華経、日蓮宗、宮沢賢治にさまで通じていないし、テレビを十年以上もたない生活のため番組を見ていない私にはなんとも言いようもないが、本著により、宮沢賢治と法華経のつながりが改めて得心されもする。
 「常不軽菩薩品」では「誰も軽んじない振る舞いこそが法華経であり」、「軽んじられても自分では軽んじない」ということが説かれているのだそうな。賢治の『雨ニモマケズ』のデクノボーのモデルと見なせるとのこと。『雨ニモマケズ』が記された手帳のメモの最後の頁には、現に次の言葉が記されてある。
 「南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩」
 これを『雨ニモマケズ』の一節、末尾とするかどうかは解釈次第で、たいていは然らずとされているのか省かれているが、仮に含めないとしても内容として、少なくとも賢治のなかでは等しい、通じるものがあったことは否定できない事実、と言えるのではないか。
 また話がかわり、今野勉の『宮沢賢治の真実  修羅を生きた詩人』。 『銀河鉄道の夜』のカンパネルラのモデルは妹だという説が通説のようになってあるが、著者は友人の保阪嘉内だと論証してゆく。そして恋い焦がれた相手であったのだ、とも。読んでいる最中、中学生の砌に聞いた朗読劇を思いだしもし、また、賢治作品に感じていた苛烈さ、残忍さ、渦巻き滞るものを理解する鍵を得た、とも感じて腑に落ちた。
 そこからあくまでも私のなかでだが『銀河鉄道の夜』の読みが鮮明になる。保阪嘉内との、いや、保阪嘉内への思いとの別れの物語だったのではないか、と。
 宮沢賢治は人格者で穏やかで、というイメージがあるが、私にはどうしてもそれを受け入れられないでいた。作品から受ける印象として。『オツベルと象』、『注文の多い料理店』、『なめとこ山の熊』、『セロ弾きのゴーシュ』思いついただけの童話からでも、穏やかで人格者、慈愛にみちた人、少なくともそれだけの人と想像するのは、私にはむつかしい。
 「石っこ賢さん」と呼ばれていた、というのは有名だが、地元では「気違い賢治」とも呼ばれていたらしい。いきり立つ方々がいそうだが、常識的に考えれば頷ける話だ。
 また、賢治本人が自分自身を修羅と喩えているわけであり。
 妹を案じ、同性の友人に恋い焦がれ、法華経を熱烈に信仰した宮沢賢治。
 そろそろ、宮沢賢治が法華経信仰で、同性愛者ということをタブー視するのは卒業すべきなのではないか。そうして、はじめて、宮沢賢治のまことの姿が現れてくるのではないか。
 「ほんとうのさいわい」、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」そう説いた賢治の真の姿が。


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