口からこぼれ落ちる歌
一
なんとかの恩返し、という物語の型がある。
なんとかには、たいてい動物がはいる。まずあり得ないこと、なのだろうか。
ないわけではないことを我々は知っている。猫が狩った物をもってくるとか、カラスが光るものをもってくるとか。
私自身の経験。大っぴらにいえることではないが、野良猫に餌をあたえていた時期がある。数匹いた。その一匹だろう、モグラの死骸をおいていったことがあった。
また別に。駐車場にうずくまる仔ガラスを見つけたとき、野良猫たちがいることだしどうしたものかと、仔ガラスに声をかけ、時々見にゆき、こういう時はどこに連絡したものだろうか。親ガラスらしきものが、近くで啼いていて、下手に触らない方がよさそうではあるし。心配で悩んでいたが、いつの間にかいなくなっていて。
叫び声だとか騒ぎの聞こえず、羽が飛びちった跡もなかったため、無事飛びたったものと安堵する。
その幾日か後の早朝。
信号待ちしていると、背後から私の頭髪すれすれを掠めて飛びゆくカラスがいた。驚き見ると、若いカラス。そんなことは、後にも先にもない。そぞろに、あのときの仔ガラスではないか、と思う。
単なる偶然、意味もないことに、感傷的に意味を付与しているだけだと嗤われるか、呆れられそうだが。
なんとかの恩返しということはまんざらなくもない、ということを私の実経験からならべ語っているわけだが、もっとも印象に残るできごとがほかにある。
もう、十年以上前のこととなる。そのとき私はある工場に勤めていて、現場リーダーの立場になっていた。朝は日の出る前に出勤し、夜が更けてから退勤するという日々。
リーダーという立場はあくまでも肩書にすぎず、上の人の指示に従うだけであり、下に当たる人たちはほとんどが年齢としては上で、中には唯我独尊の者もいて。月並みな言い方になるが、板ばさみだとかいろいろあって、次第次第に心身から潤いが抜け磨耗してゆく索寞とした日々。
そんな日々の、ある日の退勤時。平生通り工場内にただ一人、ほとんどの電灯の消えたなか、通りすがりの洗浄室から、なにか物音が聞こえてきた。見にゆくと虫取りマットに野ネズミがはりつき、動けなくなっていた。
なんとか剥がして逃がし。
翌朝、出勤してきて駐輪場へ来ると、野ネズミがちらりと顔を見せて、さっと逃げていった。
野ネズミを見たのは、後にも先にもそのときばかり。
ああ、お礼を言いにきてくれたのだな、と感じたものだった。
そのときの気持ちは、未だにうまく言い表せない。あたたかく、やさしく沁みとおるような感覚に、そのときには久しぶりに目頭が熱くなり、その感覚はいまも、あたたかく、明るく胸のなかに灯っている。
二
優しすぎる。
そう言われたことの幾度かある。そうではなく、軟弱であるというだけ。そう言われたのも幾星霜か前のことであるし、数人からでしかない。
優柔不断で怠惰なばかり。性的指向がヘテロでないことから恋人ひとりできず。否、それは体のいい言い訳で、仮にヘテロであったとしても同じことであったろう。
友人の数は片手で足り、その少数の人たちからも、私が友人と思われているかおぼつかない。
そして約十年前にこちらに逃げてくるように引っ越ししてきてから、声を発することすらない一日が日常となる私。
逃げるとは、ブラックな職場から。頻繁に罵倒され時に暴力をふるわれ最も安い給金にされ、そこからさらに難癖をつけられ罰だと下げられたり、支払わされたり、自爆営業をさせられたり。
人目を盗み人様の残飯を漁り口に糊する日々。いま思えば生活保護を受けられたのだろうけれど、その知恵、知識もなく。脱出先にこちらを選んだのは叔母宅があったため。
居候は居候で苦しい日々だったが、何とか安アパートを借りて移り住めるようになり。ようよう気の休まる空間が得られたかと思えば、アパートに外国の方々が住みだし傍若無人な振る舞いをし、大家は注意するどころか私が謗られる始末。
職場も芳しい環境ではなく、とうとう動けなくなり。精神科にかかることとなり、生活保護を受給することになるも、その手続きも容易いものではなかった。苦痛、苦行。そういうと嗤われそうだが、私にとっては過言ではない。
誰かのせいにするつもりはない。なべて己自身に問題があるのだろう。どうしておめおめ馬齢を重ねているのか、いられるのか。死への、本能による恐れがあるのか。つよい希死念慮に、日々炙られているというのに。
幾度か自殺未遂をはかったことがあるが、何故かその度に、泣けて泣けて仕方のなく。未練だとか希望なんぞかけらもないというのに。
引き留められる何かあるようだと、ふと気がつく。それは、当人にとってはおざなりな褒め言葉であったのかもしれぬが、「優しすぎる」等、ではないか。
当人たちは憶えてもいないであろう言葉、そのおかげもあって、かろうじて生きてこられたのではないか。灯りとなり、杖となり。
私が人のために、未来のためにできることなんぞ、ほとんどないだろう。
されど、ほんの少しでもあたたかな気持ちになれるような、明るい気持ちになれるような、なにがしかの支えとなるような言葉をかけてあげることはできるのではないか、と思える。
直に会って、ということにはまだまだ抵抗はあるけれど、このような発信で、でも。
そうできたとしたら、と想像したとき、私も生きていてよいのかもしれないと希望のわいてくる。
人のために、未来のためにできること。一粒の砂のようにとるにたりないものであるにしろ、希望につながる言葉かけ。ささやかな、たいていこぼれ落ちてゆくものだとしても。
三
某日、某SNSで、ある人が刺青が完成したと投稿されていて、胸に焼きついたように残り離れず、しばしば思ったり、考えたりしている。
何も知らずにこの画像のある投稿を見て、人はどのような感想、印象を抱くものだろうか。施術中は痛かったこと、いい案配に完成したということのみ記してある、それに。
刺青に好印象をもつ人以外には、眉を顰めるのが大抵ではなかろうか。かくいう私とて、よくて目を逸らして済ませたことだろう。関わるまいと。それは恐れ、怯えが底にある反応であり。
では何故に私はじっくりと眺め、そして胸に焼きつき、思ったり考えたりしているのだろうか。そういう疑問をもたれて当然だろうと思われる。
その刺青をいれた人に関心があるからであり、刺青を入れた経緯を知っているからで、それが解答となる。
加害者遺族の人。保険金目当て(事実は異なるようだが)で妻等を殺めた人のひとり息子。その方の投稿。
殺人犯の息子ということで社会の、世間の冷や水を浴び、辛酸を舐め、それは継続中。ゆえに結婚をしないこと、子をこの世に送りだすことを自らに禁じ、その手立てのひとつとして刺青をいれることを決意したのだという。
刺青があっては、肌が露出する場を利用することは限りなく不可能になるわけだから。
先に私のうちにおこる恐れ、怯えのことを述べたが、それは容易く憎悪ともなり。そういう心理の働きを知りつくしてるがために、その人は入れられたわけだろうが、そこで気がつくのは、そういう心理をもつ我々が、追いつめていった(今もそうしている)、ということ。知らず識らずに虐げているということに。
かの人は妻になる人だとか生まれてくる子どもに辛い味わわせたくない、ということでいれたのだ。そして、そこからもまた、その方の失望、絶望の深さ、大きさが見えてくる。あまりに不当な仕打ちではないか。
それらのことどもの他に、選んだ図柄にも私は意識がむかう。胸締めつけられるというのか、絞られるというのか、苦しさを覚える。
おかめ、ひょっとこ。どうしてこの図柄にしたのかは分からないが、その図柄には、夫婦円満、家庭円満の意味合いがある。渇望があるのではないか、意識下の表れなのではないだろうか。
さりながら、ふと思いもする。その方のみならず、刺青をいれるのは反社会的な人びとだけではないわけで、それぞれにそれぞれの理由があるのだろうと。
反社会的な人びとを外すようなことを述べてしまったが、そうなるにはそうなるだけのことわけがあることだろう。
人を見た目で判断してはならない、と小学生ころには言われつけていて分かっているつもりが、理解できていなかったことに、いまさら気づかされもする。
その「見た目」とは、先入観なぞとも言いかえがききそうだ。マスコミでこう言われているから、動画だとかSNS等ネット情報でこう言われているから、とそれで人やものを判断したり決めつけたりしていないだろうか、我々は。
それがいかに愚かしいことか、いい加減気づくべきではないだろうか。そんなふうなことを思ったり、考えたり、自省したりしている。
四
ジョン・クラカワーの『信仰が人を殺すとき』を読み。
幾十年も前のことになる。末日聖徒イエス・キリスト教会に入信直前迄いったことがある。末日聖徒イエス・キリスト教会とは、俗に言うモルモン教のこと。
疑問や受けいれ難いことのあり結句拒んだものだが。その主となるわけをここだけに明かしておくが、私自身の性的志向(嗜好ではない。よく混同する悪意のある人、悪意はないが知識のない人がいる)がGayだから。
口にしなければ分からないことではあったが、真面目に考え(ある意味信者のたいていより真剣であったかもしれない)誤魔化したり、偽ったりして入信したくないと思った。そしてカミングアウトした。
その当時には、カトリックでは、ローマ法皇がLGBTQ+を罪だとか、だから排除するということはないと公にされていた。モルモン教ではまだ認められていず。2017年あたりから、教会のLGBTQ+の信者を背教者としたり、洗礼を禁止していた方針を廃止したり、少しずつ拓けはじめてくるわけだが。
入信できない旨を告げると、悪魔に憑かれているとエクソシストをされたりと、大騒ぎされた。LGBTQ+とは、悪魔の所業であるらしい。
私は受け入れられず、去ることに決めた。もちろん深い創をうけて。はたして私が誤っていたのだろうか。成否を知りたく、自分なりに末日聖徒イエス・キリスト教会のことを知ろうと学びはじめた。そして、大元となるキリスト教のこと、その元となるユダヤ教のこと、キリスト教の弟分たるイスラム教のこと、つまりセム的一神教について学んでゆくようになった。それは自己防衛であり、救いだとか治療を求める働きであったことだろう。意識的に、無意識的に。
それから当然佛教、道教、儒教、神道、宗教全般にも目が向いてゆく。
繰り返すがあくまでも独学であり、各々に詳しい方からしたら噴飯物の知識でしかないのだろう。
本著をもっと早く読みたかった、と思った。正に私が斬られ突き刺されたところを扱い、鮮やかに明快に詳らかに開陳してあり、このことを予め知っておれば深入りすることなく、深入りしたところでよく防御し得たであろうから。
さりながら、あれがあったからこそ、様々な方面に目をむけ探求したわけだから徒労ではなかった、という部分も否めないだろう。それは希望だろうか。
まだモルモン教と関わりを持っていた時分、今よりも未熟ななかではあったが、まずもった疑問に、教団のもつ差別意識がある。
「私たちは子どものころからずっと、黒人というのは劣悪な人間であり、人間ですらないと教えられてきました。私には、ほかに知りうる術がなかったのです。」
「異人種間の結婚にたいする嫌悪は、モルモン原理主義者と本流のモルモン教徒に共通しているものである。モルモン教会大管長スペンサー・W・キンボールが一九七八年に啓示をうけ、黒人が神権保持者になるのを禁じていた教義を破棄したあとでも、教会の公式の方針は依然として、白人教徒に黒人との結婚をしないよう強く勧告しつづけてきた。」
決定打となるトリガーは、罪となるようなことがあったとしても、抑え、善行を積んでゆけば償ってゆけるのではないか、と私が言ったことを真っ向から否定されたことによる。「一つの罪は百の善行によって償われる」という理論のもと、金貸しの老婆を殺害した『罪と罰』のラスコーリニコフの理屈に似ているが。
そんなもので罪は拭えないのだ、と。私は入信したら、Gayであることを完全に封印して生きてゆこうと覚悟していたわけだが。
そこの教義にも贖えるという文言があることを本著により知った。仮にそれがなくとも、何があっても許されないのだとしたら、懺悔だとか悔い改めは無意味ということになろう。
本著は、モルモン教徒ではなく、その原理主義の犯した犯罪、元の教会との関わりを追及したノンフィクションではある。故に、モルモン教とはまったく関わりがないもの、つうじるものがないもの、ではない。
そしてそれらを題材としながら、宗教というものへと肉薄してゆく労作。
若い人ほど読むべきだと思われるが、残念ながら廃刊となり手が出し易いとは言えぬ値となっている。何らかの手が回っているのだろうか、と勘繰ったりもする。
五
諫山創の『進撃の巨人』については、種々論じられている。世界的に。漫画やアニメ好き、またはその分野の評論家に止まらず、真っ当な知識人からも。
ために私風情の語る余地なぞないのかもしれない。なにを語ったところで、どこかで誰かがすでに言及しているに決まっているし、そちらの方が私のよりもはるかに優れているのかもしれないのだし。
であるのに何故、あえて俎上に載せようというのか。それは、もしやするとあるのかもしれぬが、寡聞ながらどうやら言及されてないらしい解釈があるからであり。語ったところで共感を得たことないし、もしかしたら箸にも棒にもかからない戯言でしかないため、存在しないのかもしれぬが。
されど、こういう解釈も成り立つという可能性の話として、語ってもよいのではないか。もしかしたら、私とおなじく少数派の感じとり方をした人がいるかもしれない。もしくは、そうかと得心できる少数派もいるかもしれない。そういうマイノリティーに需要があると信じて。
それはベルトルトのことだ。結論を先に述べれば、「ベルトルトが愛していた(恋していた)のはアニではなく、ライナーなのではないか」ということ。
驚いたり呆れたりする人が大半だろうとは思う。ベルトルトが愛していたのはアニに決まっているだろうと。そういう解釈が当たり前となっていて『進撃の中学校』というパロディー漫画(アニメ)ではベルトルトがアニに片思いしている設定となっている。そしてユミルはヘテロセクシュアルという設定にもなってもいる。
パロディーとは、すなわち常識的な、常識的なという形容を使いたくはないが、つまり大多数派が許容できる穏当な関係というバイアスのかかった世界ということになる。要するに、正しいか否かは別にして、多数派が自然に受容しやすいもの、ということになるのだろう。ユミルとヒストリア(クリスタ)さえ、友情だ、友愛だ、それしかあり得ない、認められないと無意識的に決めつけられてしまう、そういった強硬な。
無意識的であるからこそ、崩しようのないもの。ために、これから私の語ることをまともに捉えられる人は少ないのだろうと推察される。そういう無謀なことを、私はあえてする。少数派の意見というものは大事であり、要ると思うものでもあるし。
原作およびアニメで、ベルトルトが愛していた(恋していた)のはアニだとする根拠は、実は少ない。まず、連れ去ったエレンを背負い、巨人化したライナーに乗ったベルトルトが、アルミンからアニが拷問をされていると嘘をはかれ逆上する場面。アルミンは、ベルトルトがちらちらよくアニを見ていたことを思いだし利用するわけだ。同じく、別の場面でライナーがベルトルトに、アニを救いだせと話したとき、ちらちら見ていて好きなことが一目瞭然だとからかう場面。そして、ベルトルトを食べたアルミンが、エレンから、アニに惹かれるのはベルトルトの影響だと言われること。実はそれ位しかないのだ。記憶を頼りに述べているため、他に見落としがあったらご教授願いたい。
それらは、簡単に覆すことができる。敵地に三人だけできて、その中でアニは単独行動をしている、しかも危険な目に遭いながら。気にしないほうが異常ではないか。ライナーはおかしくなっていたから、そういう配慮、気遣いが欠けていたとも考えられる。かつ、逆上するのは、相手がアニでなくともしたことだろう。エレンがアルミンに言ったのは、後の真相でも解るとおり、口から出任せだ。ミカサにずっと大嫌いだったと言ったのと等しく。それだけ薄弱なものでしかない。そこに受け手である我々の常識的というのか、通俗的というのか、そういう見方に加え、漫画、アニメ、物語のパターンを当てはめて、ベルトルトが愛していた(恋していた)のはアニだとなってしまっているに過ぎない。別の見方ができることに気付けない。
私の見解が正しい、というつもりはない。ただし、こういう可能性もあること、それをないことにしてはならないと私は思うものだ。
アルミンはミカサに、ミカサが嫌いだと言ったことはエレンの嘘だと思うと言う。なんとなく、と答えるが、それは長年友人関係であったこと、三人の関係性、また、アルミンの望みがあったにせよ、明らかに嘘だと分かることがあったからではないか。そう、アルミンがアニに惹かれているのはベルトルトとは何の関係もないということが確実な事実として分かっていたから。さらに穿つと、ベルトルトが愛していた(恋していた)のはアニではないと知っていたから、ではないか。
話はすこし変わって、『進撃の巨人』という大枠に戻ってみたとき、ユミルとヒストリア(クリスタ)という関係がある。ユミルの思いは共感からくる友愛、友情ととれなくもない。が、彼女の額面通りとれば、愛であり恋。結婚してくれ、とも口頭でも私信でも言っている。もちろん冗談であろうし、その気味もあろうが、それだけであろうか。仮にふたりが男女であれば、似た境遇から相手が理解でき、親しく纏わりつき、結婚してくれまで言い、あなたと一緒ならなにも怖くない、まで言うような関係性となることを、愛とか恋というのは誰しもすんなり呑み込めるのではないか。何故同性同士であればそうならないのか。バイアスがかかっているのではないのか。
アニメ化によりバイアスがかかってパーソナリティーというか、セクシュアリティーが固定化された人物がいる。それはハンジだ。原作ではあえて性別不明に造詣されていて、アニメ化では諫山創がすっきりしない違和感、不満をもったと聞く。そう、ハンジはもしかしたら男であったのかもしれないのだ。
そういう性のグラデーションが、そもそも『進撃の巨人』にはある、ということを踏まえておきたい。
さりながらベルトルトがライナーを、とはっきり分かる言動をとる場面も、実はない。むしろライナーのほうが、ユミルに当てこすられたり、それらしい言動がある。それを帳消しにするように、ヒストリアへの好意を最後の最後まで口にしているが。
「ベルトルトが愛していた(恋していた)のはアニではなく、ライナーなのではないか」というのは、私の印象でしかないのかもしれない。されど、ベルトルトが愛していた(恋していた)のはアニということは容易に崩し得るのは先に述べた通りだ。
私が初めに「ベルトルトが愛していた(恋していた)のはアニではなく、ライナーなのではないか」と感じたのは、樽のなかにいたベルトルトが投げ飛ばされ巨人化しようとした瞬間、雷槍によって死にかけたライナーを見て樽から飛び出し、「ライナー」と叫ぶ場面を見たときだ。だが、ライナーがひっくり返って項を隠せなかったとしてもベルトルトは巨人化すると決断し、決行したではないかという反論がありそうだが、吹っ切れたのではないか、と私は彼の行動に不自然さを感じない。もうこれ以上被害者をだしたくない、もうこれで終わりにしたい、というのがベルトルトの切なる願いであったのだから。そのときに、恋心を犠牲にするくらいできたことだろう。ライナーはおかしくなっていて、苦しんでもいたから楽にしてやれる、と思ったのかもしれないし。
終尾の巨人で、ベルトルトが涙したのは、自らの巨人化した姿を使われ、巨人化したライナーの頭を齧りとる直前の場面だった。
生まれた時からエルディア人ということで迫害されてきて、病気の父親を治療するために戦士になった心優しいベルトルト。ライナーを見守り、支えつづけ。アニに半殺しにされる場面も目にし。ああいうアニを好きになるものだろうか。また、アニのように、ベルトルトがライナーを憎まなかったのは何故か。憎めなかったのではないか。
私には「ベルトルトが愛していた(恋していた)のはアニではなく、ライナーなのではないか」と考えるのが、自然に感じられてならないのだ。
もとより、賛同なぞまず得られないことは覚悟の上だが、それでも主張したい。多様なパーソナリティー、多様なセクシュアリティーが当たり前で、自然になる未来を願い。
六
かの時に言ひそびれたる…
ふいに口から歌がこぼれ落ちる。
そんなことが時おりある。それとともに引きだされくる景色が…いや、思い出に連れられて歌が転がり出てくるのだろうか。
いつの間にか、その歌と不可分に結びつき、溶けあっているようだと知る。
もう何十年も前のことになる。そのとき私は、請負業で某工場へ通っていた。電車と、請負の会社の送迎バスを利用し。初めての製造業に戸惑い、苦戦しながらも馴染みはじめた頃、同じ請負で入ってきた男がいた。
私より背が高く、すこし年上で、比較的整った造作で。ただし、まだ二十代半ば位な筈だが、はや頭髪に不安が見え、下腹の出はじめた人。正直好みではなかった。単純に見た目についてだが、振りかえってみると、内面についても。
職場には女性が多かったこともあり、自然バスで隣り合わせになることが多かったが、それなりに話すというだけの関係でしかなかった。それなのに何故か、彼を好きになり。きっかけなぞ、何もなく。
忘れもしない入浴していたおり。感電したような衝撃がおこり、涕涙す。好きだ、という気持ちを発見し、呆然として。
それから積極的に話かけ、煩悶しつつも告白すると、そうなんだとあっさり応えられた。
少なくとも拒まれなかったことが嬉しく、いつの日にか好きになってもらえるかもしれぬと期待もあり、彼を楽しませるため道化て笑わせるようになる。
引っ込み思案で口下手であるというのに、必死になって。どうやら笑い者にされていたらしい。
可哀想に、一生むくわれない恋。そうはっきり笑いながら言われたこともある。
私は気にしないふりをし、それすら笑いに換えていたものだった。
ある時のこと。
いつもはにやけた顔つきの彼が深刻そうな表情をしていた。どうしたのか問うも、はぐらかされるばかり。心配だった。何でもしてあげたかった。私のようすに気がついたのかどうか、聞いてもらいたい話があると言われた。
明日、出勤したときに、と。
翌日彼は来なかった。翌日も、その翌日も。請負の管理の人に聞くと、突然連絡がつかなくなったと怒っていた。さりとて無断欠勤でドロップアウトするなんぞありふれたこと、さまで気にしてはいない様子。
腑に落ちず、わり切れず、突然内臓をもぎとられたようなショックでしばらくぼんやりしていたように思う。さりとて、傷は次第に癒えてゆくもの。傷あとは残りつつも。
それから数年後、ひょんなことから彼のその後を知ることとなる。車に跳ねられて亡くなっていたのだそうな。早朝、出勤の駅にむかう途中で。
なにか話してくれる、と言ってくれたその当日のことであったらしい。
彼はなにを話そうとしていたのだろう。彼の死を知った時には、さまざまに思い巡らしたものだった。人非人のようだが、正直、ほっとする気持ちもあった。口からでまかせを残しドロップアウトしたわけではなかったことに。
あれからだいぶ経つのに、いまでも時おりそれを思う。そんなとき、口からこぼれ落ちるのだ、歌が。
深更にめざめ、眠れぬ無聊をかこち、うすっぺらな、くたびれた闇をながめているときなぞに。
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸に残れど
