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星は風にそよぐ(第7回)

5月26日

 先生、やっとクリスに会えました! クリスは昨日の朝、赤い自転車に乗ってやってきました。私が玄関の扉を開けたときのクリスの第一声は
「心臓やぶりの坂!」
でした。いつもクロード先生の車で往復しているから、私は何とも思っていませんでしたが、自転車で登ってきたら、確かにこのゆるゆると続く長い坂道はキツそうです。
 ベリーヒルズは坂の多い街です。私の部屋の窓からの眺望が素晴らしいのは、この坂のおかげ。「かけら」ほどだけど、海が見えるのはうれしいです。
 クリスが取材しているのは、港から少し離れた静かな海辺に住む彫刻家さんです。クリスはその人の作品の大ファンなんですって。1か月半の休暇をとって取材をしているのだけど、書きたいことがあまりに多くて翔ぶように筆が進んだそうで、
「これ以上取材を続けたら本が厚くなりすぎるし、家賃もちょうどキリがいいから、滞在は1か月で切り上げて、6月にはリリーアイランドに帰るつもり」
クリスはこう言っています。さみしいです。もっとたくさん会えると思っていたのに、お互い忙しくてあまり会えませんでした。

 午前中は、庭の東屋でお茶を飲みながら、お互いの近況報告をしました。東屋の周りにはラベンダーの茂みがいくつもあって、風が吹くたびに、深呼吸したくなるような安らかな香りを運んできてくれます。
「ラベンダーのお茶を飲んでるような気分だね」
クリスがそう言って笑いました。
 私もランチの準備を手伝うつもりだったんですが、
「積もる話もあるでしょう」
とモニカが言ってくれました。
 今日のランチは、ラムチョップの春野菜添え、サーモンとほうれん草のキッシュ、デザートはモニカお得意のチョコレートムースでした。
 クリスはさすがです。あっという間に家族の一員みたいに溶け込んでしまいました。そして、やっぱり質問力がすごいんですね。ひとりひとりに何気なくした質問が会話を花開かせて、私が知らないことまで聞き出してしまうんですから。クリスという優れた聴き手がいることで、話す方も安心して気持ちよく話せるんです。普段そんなにおしゃべりではないベルナールから、研究の話をあんなに聴けるなんて驚きでした。
 そして、クリスは聴き手として優れているだけではありません。話し手としても、本当に魅力的なんですよ。大好きな彫刻家さんの作品について熱く語るクリスは、とても輝いていたし、みんなも夢中で聴いていました。
 クリスはランチのあと帰るつもりでいたみたいですが、モニカもクロード先生も「セシルの初めてのお客さんをちゃんともてなしたいから」と言ってクリスを引き留め、客室を準備してくれました。
 夕食までの時間は、クリスとタペストリー美術館へ行ってきました。先週行ったときとはまた違った印象を受けました。前回「眠りの村」のタペストリーを観たとき、私は、薬草が星明りに輝きながら萌え出すシーンに惹きつけられましたが、今日は、その隣に展示されていた水の精霊と出会うシーンに魅かれました。
 クリスは受付で取材許可を取って、熱心に写真を撮ったりメモしたりしていました。本当にジャーナリストの仕事が好きなんだなあ。

 夕食のメニューも書いておきますね。前菜は、クリスが手土産に持ってきてくれた美しいテリーヌ。メインは、アスパラとホタテのクリームソースパスタ。デザートは、クロード先生が焼いてくれたスフレチーズケーキでした。写真の撮影があってランチに間に合わなかったアナベルも交えて、また楽しいおしゃべりをたくさんしました。

 夕食後、クリスがお風呂を使っている間、私はクリスのためにホットワインを用意しました。クリスが大のワイン好きだってことは、初めて会ったとき船のダイニングで観察していて知ってましたからね。シナモンとクローブを入れて温めたワインにスライスレモンを浮かべ、客室へ持っていくと、クリスは目を輝かせて言いました。
「それ、ホットワイン? いい香り~」
「ハチミツたっぷり入れたから、よく眠れるよ」
と私が言うと、クリスが
「寝てなんかいられないよ。せっかくだから、やっぱりセシルのこと取材しなくちゃ」
と言うので、私は、ロータシアに来ることになった経緯やシャインウッドの森での暮らしについて、深夜過ぎまでクリスに詳しく話すことになりました。

 兄のこと、先生にはどこまでお話したでしょうか。私が今、このロータシアにいるのは、兄のおかげなんですよね。
「ロータシアに憧れていたのは兄だったの」
私はクリスに、こう話し始めました。そして、兄が、ある日突然、自ら境界の向こう側へ逝ってしまったことを話しました。
 兄を宝物のように愛していた母は、私たちが子どもだった頃の家族をダウンロードした仮想空間で、ほとんどの時間を過ごすようになりました。VRの世界では、「あの頃は幸せだった」の「あの頃」へ戻れるんです。そして、そこで生き続けることができるんです。私にはそれが「生きている」ようには思えませんけど。
 私は、兄の虚像を見ていても辛いだけでした。兄の不在をごまかすことはできませんでした。だから私は、兄が遺したものから、彼がなぜ死んでしまったのかを知ろうとしました。
 兄はたくさんの絵を描いていました。それは、すべてロータシアを描いたものです。細部まで丁寧に彩色された本当に美しい絵でした。VRの履歴から、兄が仮想空間でよくロータシアを訪れていたことがわかりました。
 昔はイシアスでも紙を湯水のように使えたということですが、現代では画材はもちろん、普通の紙ですら高価でなかなか手に入りません。兄は自分のお金をほとんど画材に遣っていたようです。兄がいつも持ち歩いていた小さなノートには、ロータシアの街や風景が、鉛筆で描かれていました。それらの絵に混じって、あの1編の詩が書かれていたのです。ロータシアの誰かが書いた「日々の中に」というあの詩です。

 まぶたに暖かな光を感じて目覚め
 私は窓を開ける
 友は私の頬をなでながら
 喜んで部屋に入り込み
 朝の食卓には
 パンとチーズ、果物と香り高い紅茶
 そして私は
 友が見てきた夕べの物語を聴く

 テラスの揺り椅子で本を開き
 私は時折目を上げる
 睡蓮の咲く池はさざなみを立てて
 やわらかに輝き
 水面には
 鴨や鵜、鷺やアヒルたち
 そして私は
 蛙の歌を聴く

 それから私は
 日がな一日仕事をする
 一心に

 そこにある
 望むものは
 日々の中に

 この詩を読んだとき、私は、兄がなぜその詩を書き写して持ち歩いていたのかが、わかったような気がしたんです。その瞬間、私の心はもう決まっていました。私が代わりに、兄の夢見た場所へ行くんだ、と心に決めたんです。
 それからの私は、ロータシアへ行くために全力を尽くしました。大使館へアクセスして、何度ダメだと言われてもあきらめませんでした。そうやって我武者羅(がむしゃら)になっていれば悲しみに捕えられずにいられたから、というのもありました。
 そのノートは、先生にも見せましたよね。兄の形見なのでお守りとしていつも持ち歩いているんです。クリスにも見せました。
 兄は「孤独」という言葉をよく口にしていました。「真空にいるように孤独だ」と。でも結局、兄が逝ってしまった本当の理由は、本人にしかわかりません。この世界に適合できなかった。父はそう思っていました。直接母には言わなかったけれど、心の中では、兄の死は母のせいだと思っていました。父と母とは教育方針で意見が違っていたんです。「そんな育て方をしていたら、この子たちはこの世界で生きていけなくなる」、それが父の意見でした。母は、私たちを仮想空間からできるだけ遠ざけようとしていました。
 子どもの頃、母はたくさんの手遊び歌を教えてくれて、3人でよく遊びました。「アルプス一万尺」、「線路は続くよ」、「みかんの花咲く丘」、他にもいろいろありました。ロータシアにも手遊び歌があるそうですね。クリスが教えてくれました。母はストーリーテラーでもありました。「お話して」と頼むと、いくつでもお話をしてくれました。一体いくつのお話を覚えていたんでしょう。母の創作もあったのかもしれません。
 父は作家でした。母と出逢った頃は、母の心を震わせる作品を書いていたそうです。でも父は、急激な時代の変化に合わせて作風を変えていき、AIが人々を魅了するような作品を量産できるようになってからは、自分の作品を書くことはなくなりました。父は時代の波に乗れる人です。ささやかにではあったけれど時代に抵抗するように生きていた母は、兄が死んでからは抵抗をやめて、仮想空間から出てこなくなりました。そして、仮想世界にいる過去の自分しか母に見てもらえなくなった父は、家を出ていきました。
 ロータシアに生まれていたら、兄が死を選ぶことはなかったでしょう。きっと精霊術師になっていたんじゃないでしょうか。ミアのように、感受性の強さがとてつもなかったから。
「そう考えるとやっぱり、兄の死は社会のせいだよね」
私がクリスにこう言うと、クリスは言いました。
「人間である限り、孤独なのはロータシアの人も同じ。でも、ここにあるのは豊かな孤独なんだと私は思う。人間が持っている根元的な、持つべき豊かな孤独。孤独なんだけれどひとりじゃない、って感じられるような孤独。私たちには精霊たちがいつもそばにいるしね。『真空にいるような孤独』っていう表現には、息のできないような、押し潰されそうな、そんな恐怖を感じる」

 私はそんな孤独の中に母を置いてきてしまったのでしょうか。そう考えると、胸をギュッと掴まれるような痛みが走ります。そして私は、自分にこう言い聞かせます。母は今、休んでいるんだ。傷が癒えるまで夢の中にいるんだ、って。母はなんとか自分を守るために、現実から避難することを選んだのだと思います。

 あっ!もうこんな時間だ! 明日は月曜日だから、早く寝なくてはいけません。
 みんなが
「クリスにもセシルのお料理を食べさせてあげなきゃ」
と言ってくれたので、今日のランチはまた私が担当したんですよ。そのことは、また明日書きますね。先生、おやすみなさい。

5月27日

 先生、今日はうれしいことがありました。ミリエル先生がこう言ってくれたんです。
「クロード先生とも話し合ったんだけど、月曜日は精霊術クラスもないし、セシルはジュリアたちについて調理周辺のことを勉強したらどうかしら」
 私が驚いて
「どうしてわかったんですか、私の気持ち」
と訊くと、ミリエル先生は言いました。
「セシルには『心の願いノート』を書いてもらわなくても、すぐわかるわよ。目をキラキラさせて、調理室を覗いているんだもの」
 というわけで、月曜日はスリーシスターズに弟子入りさせてもらえることになりました。今日だけでも、もういろいろなことを見せてもらって、先生に知らせたいことが山ほどあるんです。でも今日は、昨日クリスと過ごした1日について書く約束だったし、クリスとの時間のことは自分のためにも書いて残しておきたいので、スリーシスターズのことは明日の朝、時間があったら、風に乗せてお話ししようかな。

 では、昨日のことを書きます。夜中の3時過ぎまで話し込んでいた私たちが朝寝坊している間に、なんと家族はマルシェへ行き、その日のランチ用に私が頼んでおいた食材を調達しに行ってくれました。本当に、お世話になりっぱなしです。クリスも言ってました。
「なんてあったかい家族なんだろうね。私もアパート借りないで、ここで居候させてもらえばよかったよ」
 朝寝坊したといっても、9時には起きたんですよ。ゆで卵と小さなブリオッシュ、カフェオレの朝食を取った後、私たちは散歩に出ました。私がいつも座っている場所をクリスに見せたかったんです。
「ベリーヒルズは海辺もいいけど、山手もいいねえ。海の波音もいいけど、川の流れる音もいい」
 小川の淵を上りながら、私が
「そう言えば、私、海辺って行ったことなかったな。リリーアイランドでも森にいたし。船に乗ったときと降りたとき、港には行ったけど」
と言うと、
「そっかあ。私が帰る前に、一度連れて行ってあげたかったなあ。ごめんね、取材に夢中になっててさ。風の中にセシルの声が聞こえて、あっ!って思い出したんだよ。そうだ、セシルのとこに遊びに行く約束だったんだ、って」
とクリスは残念そうに言いました。
 大岩のところに着くと、クリスは「大きいねえ」と言ってさっそくそこに座りました。そして「ねえ、座ってるところ、写真撮って」と言って、私にカメラを渡してきました。あの写真も記事に載せるんでしょうか。私の取材なんだから、普通、私が座ってる写真を載せると思うんだけど。
 コマドリは知らない人が来たからか、離れた木の枝から私たちを眺めていました。クリスは声が大きくてハキハキ話すから、少し怖かったのかもしれません。
 小川から離れて森の奥に入ったところに、野いちごがたくさん実っている所があるので、そこでランチのデザート用に野いちごをたくさん摘みました。クリスは、かごだけじゃなくて口の中にもたくさん入れていましたよ。

 さあ、ランチのメニューです。丸ごと玉ねぎのスープ、ごぼうソースがけ白身魚のワイン蒸し。パンは、先週と同じく全粒粉のカンパーニュ。そしてデザートは、野いちごたっぷりヨーグルトです。クロード先生のうちには、新鮮な牛乳とヨーグルトが1日おきに牧場から配達されてきます。このヨーグルトが本当においしいんですよ。食べてるそばから腸が喜ぶ感じがします。
 丸ごと玉ねぎのスープは、私にとってはいわゆる「おふくろの味」みたいなものです。先生と秋に玉ねぎをたくさん植えて、春にたくさん収穫して、一年中、丸ごと玉ねぎスープを食べていましたよね。身体があったまるから、やわらかく煮込んだ玉ねぎが、冬は特においしく感じました。先生はときどき、チーズを入れてオニオングラタンスープ風にしたり、骨付きの鶏肉を入れたりしていましたね。
 今日はクリスとみんなに、そんな先生とのお料理の話をしました。実は、先生のお料理で私が一番好きだったのは、先生がいつもおやつに焼いてくれたじゃがいものガレットでした。それを聞いてクロード先生が言いました。
「私も食べたわ! ステファニーのおやつは、今もあれなのね」
と、とても懐かしそうでした。それで来週末は、じゃがいものガレットを焼くことになりましたよ。
「セシルのお料理、おいしくて、びっくりしたでしょう?」
とアナベルがそう言うと、クリスはまた言ってました。
「本当に、ここに居候させてもらいたかったよ」
 クリスは私のお料理の写真もたくさん撮ってくれました。先生、リリーアイランド・ニュースに載るのを楽しみにしていてくださいね。

 クリスは来週末、リリーアイランドへ帰るそうです。でも、私が夏休みにリリーアイランドへ帰ったらまた会えますね。早く先生にクリスを紹介したいなあ。クリスって、ほんと、おもしろいんです。



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