星は風にそよぐ(第2回)
5月5日
昨日、日記を書き終えてから、ベッドの中でずっと考えていました。母もさびしかったのかな、って。マリーのおばあさんのように、慣れるまではさびしかったのかな。母は今、思い出の中だけに生きています。私がいないことすら、忘れているのかもしれません。
風に耳を傾けたりしないから母に声は届かない、と自分に言い訳をして、私はメッセージを送ってみようとすらしてきませんでした。やってみるのはわけないことなのに。でも私は、母にどんな言葉を届けたらいいのか、わからないのです。
今日、私とクリスは、客室係のメグと友だちになりました。クリスは誰とでも友だちになれる人です。人懐っこくてあっという間に相手との距離を縮めてしまうから、クリスには何でも話したくなってしまいます。クリスの天職が新聞記者なのは間違いありません。レディじゃなくたって、わかります。
客室係は、お客さんが朝食へ行っている間にベッドメイキングと部屋の掃除をしてくれます。メグは私たちの部屋の担当さんです。
今朝、私とクリスはいつもより早くダイニングから戻ってきてしまったので、部屋に入るとメグがまだ掃除をしていました。
「あっ! すぐ終わりますので」と慌てるメグに、クリスは言いました。
「ねえ、休み時間、ご一緒にお茶でもどうです?」
メグは一瞬、驚いたような表情をしましたが、すぐうれしそうにこう言いました。
「朝の掃除が終われば、ランチの給仕まで休憩なので、こちらにお茶を運んできます」
私はクリスに感心してしまいました。誰かと友だちになりたかったら、こうするんですね。客室係さんをお茶に誘うなんて、私には思いつきもしません。そうやって私は、出会えたはずの人たちと出会わずに来てしまったのでしょうか。もしかしたら、クリスのレディには、メグをお茶に誘う、と書かれていたのかもしれませんね。クリスはもう寝てしまったから、忘れなければ明日訊いてみます。
メグは、ルームサービスのワゴンで、バナナとナッツのパウンドケーキが載ったお皿、それからミモザの花が描かれた大きな紅茶のポットとティーカップのセットを運んできてくれました。パウンドケーキは日持ちがするから船にたくさん積んであって、スタッフが休憩の時、自由に食べてもいいんですって。
2つのベッドの間にワゴンを置き、私たちはベッドに腰かけてお茶を楽しみました。メグは、私のベッドの足元に座りました。
朝起きたときには霧雨だった雨が、滝のように窓を伝っていました。今もまだ降っているようです。明日、船を降りる時には、やんでいますように。
今、厚く垂れ込めている雲に想いを伝えました。外にも出ずこんな怠けた願い方では、届かないかな。でも、船室の窓は開けられないんだから、仕方がありません。
メグの話でしたね。メグは私と同い年です。学校を出てすぐこの仕事に就いて、2年半だそうです。港町ポートスティルの、海の見渡せる小さな家で生まれたメグは、海と、行き交う船を眺めながら育ちました。小さいころから船の美しさに心を惹かれ、いずれ自分が船に乗って町を出ていく日を心待ちにしていました。本当は、世界を巡る船に乗っていろんな国を訪れてみたいのだけど、そういう船の仕事は人気があるし、お金持ちのお客さんをもてなせるような教養のある人材が求められているから、たくさん本を読んで勉強しながら、募集があれば応募しているんですって。でも、なかなか採用されないことに落胆や焦りを感じているようには見えませんでした。大海原を走る客船のように、悠然としていましたよ。自分の希望は叶うと、知っているからなんでしょうね。
私がイシアスから来たと知ると、メグは「ぜひ訪れてみたい国だ」と言ってくれました。
「私もイシアスには興味あるの。精霊の国と言われるほど強い大自然のパワーに触れてみたいなあ。ねえ、ベリーヒルズにいる間に、セシルのこと取材させてくれない? イシアスから精霊術を学びに来た女性についての記事を、是非リリーアイランドニュースに載せたい。ほら、そしたらセシルの先生も読めるじゃない?」
と言って、クリスは私に歯を見せて笑いました。
先生、取材を受けていいんでしょうか。もしもいけないなら、声を送ってをください。いけない場合だけでいいですから。クリスは、原稿を書いたら、必ず先生に読んでもらってから掲載する、と言っています。
私は、クリスとメグに、イシアスのことを話しました。イシアスの山や森に満ちるエネルギーにも、かつて花開いたイシアスの文化にも、私は誇りを持っていることを。でも今、人は都市の高層住宅にしか住めず、多くの時間を仮想空間で過ごしている。そして、人々がすべての里山を放棄した結果、自然は原生林の頃に戻ろうとしています。精霊の国と呼ばれるほどのパワーを持つ大自然が広がっているのは、そのおかげなのだ、と。でもその代わり、イシアスには、心に病を抱える人がたくさんいる。昔は、自然界にあまねく存在する神々が、イシアスの人々の暮らしや文化に溶け込んでいました。今、たくさんの人が抱えている心の病の原因は、その神々とのつながりが弱く弱くなったからなのだ、と。私はそう話しました。
私が難しい顔をしていたのでしょうね。クリスがなだめるような声で言いました。
「テクノロジーによって自然を守ることは、間違ってはいないんだと思う。国際的な自然保護活動家の中には、ロータシアの人々だけが自然からの恩恵を思う存分享受している、自分勝手な国だ、と言う人たちもいるくらいだからね」
先生、「自然界の存在を常に意識する」というロータスの教義に反するから、ある時点でこの国は進歩をやめたんでしたね。
神妙な空気になってきたのでそれを振り払おうと、クリスがあの好奇心いっぱいの目を見開いて、こう訊きました。
「ねえ、イシアス語って、一つ一つの文字が意味を持っているんでしょう? セシルっていう名前には、どんな意味があるの?」
先生に言ったこと、ありましたか? セシルという名前は、knowing the worldという意味なんです。そしてイシアスという国名には、the stone and tomorrowという意味があります。
世界が共通言語を話し、その国固有の言語はあまり使われることはなくなりました。でも私は、守っていきたいと思います。
5月6日
先生、今日はたくさん書くことがありますよ! 今は、クロード先生が私に用意してくれたお部屋の勉強机に向かっています。
朝起きたら、抜けるような青空でした! 私の想い、雲に届きましたね!
船を降りる前、マリーに呼び止められました。マリーのお母さんが
「母にメッセージを送ってくれたお礼に」と言って、淡いピンクのユリを刺繍したハンカチをプレゼントしてくれました。そう言えば、デッキチェアで本を読んでいるマリーに精霊術で話しかけたとき、隣のお母さんは刺繍をしていたんでした。
「ちゃんとメッセージが届いたかどうか、おばあちゃんに手紙で聞くからね。届いてなかったら、そのハンカチは返してもらうんだから」
と言って、マリーはいたずらっぽく笑いました。私が返した笑みは、きっとこわばっていたに違いありません。どうかおばあさんに届いていますように!
「ワイナリーには、観光のお客さまもたくさん訪れるんですよ。よかったら、遊びに来てくださいね。あなたによい風が吹きますように」
そう言って、マリーのお母さんはワイナリーの名前と住所を書いたメモをくれました。
「あなたによい風が吹きますように」という別れの挨拶は、先生だけが使うのかと思っていました。でも、みんな使うんですね。クリスも別れ際、私に言ってくれました。
クリスともちゃんと住所を交換しましたよ。クリスは、自転車を手に入れるつもりだから落ち着いたら必ず会いに行く、と約束してくれました。
11時に到着予定だった船は、20分遅れて港に着きました。迎えに来てくれていたのは、クロード先生と先生の孫、トミーです。トミーが先に私を見つけて、大きく両手を振ってくれました。ロータシアには外国人なんていないから、すぐわかったんですって。
クロード先生はシルバーヘアとモスグリーンのスーツがとても上品で、想像していた通りの人でした。見るからに校長先生!っていう雰囲気ですね。トミーは15歳。ひょろりとしていてメガネをかけた、笑顔のとびきり可愛い男の子です。うーん、本当に可愛い、あの笑顔。
先生は、クロード先生の家族には会ったことがないんですよね。絶対、会いに来た方がいいですよ。街も本当に素敵だし。森に閉じこもってばかりで気の毒だ、ってクロード先生も言っていました。こうも言っていました。
「でも、あの森を守る後継者が、もうじき帰ってくるらしいわよ」
クロード先生の言う後継者って、私のお兄さん弟子、ロビンのことですよね。
港から車で30分ほど走りました。カフェやパン屋さんの並ぶ通りを抜けると、住宅街に入りました。この街の建物の屋根は、お店もおうちもみんな、ターコイズブルーで揃っているんです。ああ、こんなに可愛らしい街で暮らせるなんて、本当にうれしいです。
丘の上に古いお城が見えました。坂を登り始めると木々が多くなってきて、木立ちの中に白い壁の家が見えてきました。屋根はやっぱりターコイズで、窓に提げられたたくさんのバスケットには、赤いゼラニウムが輝くように咲いていました。それが、クロード先生のおうちでした。入り口の両側には花壇があって、たくさんのチューリップが咲き誇っていました。おうちの周りにも、そこここに野生の白ゆりが花開いているんですよ。先生、今が5月でよかった!
トミーのお母さん、モニカが、お昼ごはんを用意して待っていてくれました。メニューを書いておきますね。ローストチキンにつけ合わせは新鮮なクレソンとにんじんのグラッセ。それから、きのことねぎのキッシュ。チーズ。デザートはワイングラスに入ったチョコレートムースでした。このチョコレートムース、絶対に作り方を習おうと思います。
モニカのお料理は、食べた人の舌が喜ぶ、自然に笑みがこぼれてしまうような食事です。もちろん私は、先生に習った、滋養に満ちて心がポカポカする、やさしい味わいの食事も大好きでした。
先生、おいしいものを食べると、本当にエネルギーが湧いてきますね! イシアスでは、バーチャルリアリティでしかこういうお料理を食べたことがなかった、って、先生との最初の食事のとき、言いましたよね。脳への信号でちゃんと味もするんですけど、こんな風にエネルギーが入ってくるのを感じたことはありませんでした。
モニカはどっしりした「おかみさん」風、お父さんのベルナールは学者さんらしい静かな人です。
みんなでお昼ごはんを食べながら、クロード先生は、若い頃リリーアイランドで過ごした思い出話をたくさん聞かせてくれました。先生とのびっくりするようなエピソードも、たくさん聞きましたよ。ふふふ。
この家庭には、あと2人、家族がいます。学校の寮に入っている18歳のアナベルと黒猫のシピーです。シピーは今、後ろにある私のベッドの上で寝ています。アナベルが寮に入ってからこの部屋はシピーが独り占めしていたというから、自分のベッドだと思っているんでしょうね。
先生、私はなんだかワクワクしてしまって、今日は眠れそうにありません。ここには、私が仮想空間で見て憧れた暮らしそのものがあります。何もかも、先生のおかげですね。外国人の入国が厳しく制限されているこの国で、先生がすべての手続きをして私を受け入れてくれました。ロータスのことも精霊術のことも何もわからない私が、どうして第一人者と言ってもいい偉大な先生に習えることになったのかはわかりませんが、勇気を出してロータシアの大使館にアクセスした自分を、心から誉めてあげたいです。
ロータシアの暮らしに憧れている人は、本当はたくさんいます。それでも、世界は進歩をやめることはないし、流れを変えることもできません。都市の狭い空間と仮想空間だけで人間が暮らす、確かに、それによって世界の自然は守られ、浄化されつつあります。自分勝手だと非難を受けても、ロータシアが昔からの暮らしを捨てないのは、信仰があるからですよね。私の国では、宗教と政治は切り離されています。信仰を悪用されないように、宗教が政治に干渉することは、法律で禁じられているのです。
5月8日朝
先生、ごめんなさい! 毎日書くはずが、もうやってしまいました。でも、先生は怒りませんよね。毎日書くというのは、あくまで「基本」なんですから。基本を崩して先生に叱られたことはありません。先生が叱るのは、心がこもっていないときでした。
昨晩は、私の歓迎会があって、夜更かしをしてしまったのです。私がお手伝いする精霊術クラスのミリエル先生と寮生活中のアナベルも来てくれたんですよ。
日記はできるだけ毎日書きたいと思っています。でも無理には書きません。そのかわり、書きたいときにはたくさん書きますからね。
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