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「自衛隊“とか”ならない」──古賀議員発言の本当の問題点

先日、立憲民主党の古賀千景参院議員による国会での発言について、問題提起の記事と、実際のデータをもとにその真偽を検証する「ファクト編」のコラムを執筆しました。

現在もSNS上では「本当に貧しい子が自衛隊に入っているのか、いないのか」というデータや数字の引っ張り合い、泥泥の議論が続いています。

しかし、その議論を眺めるうちに、私はある違和感を抱くようになりました。

「自分も含め、みんな問題の本質を見失っていないか?」と。

今回の記事は、前回の補足であり、一種の「訂正」に近いものです。
「数字の検証」のその先にある、この問題の本当の本質について、もう一度皆さんと一緒に考えてみたいと思います。


データの議論が隠してしまう「当たり前の現実」

「貧しいから自衛隊に入る子は本当に一人もいないのか?」と言われれば、当然ゼロではないでしょう。
しかし、それは自衛隊に限った話なのでしょうか。

大学進学を諦めて早く自立するために民間企業に就職する子もいれば、経済的な安定を求めて一般の地方公務員になる子もたくさんいます。
どの職業であれ、家庭の経済事情が若者の進路選択に影響を与えるのは「日本社会全体の普遍的な課題」であって、決して自衛隊特有の現象ではありません。

つまり、「本当に貧しい子が入っているのか」という数字の議論をどれだけ続けても、それは社会保障や教育格差の議論にすり替わるだけで、今回の問題の核心には辿り着けないのです。

すべてを物語る「とか」という2文字

では、本当の問題は何なのか。
それは、古賀議員が口にしたこの言葉、そのものにあります。

「豊かな子どもたちは自衛隊『とか』かなりませんよ」

2026年6月15日 参議院決算委員会 速報版/未定稿より

私が最も恐ろしいと感じ、そして怒りを覚えたのは、この「とか」という、たった2文字です。

これは一般的な「職業のランク付け(貴賤)」の話ではありません。

国を守る公務であり、災害派遣で国民を救う崇高な任務であるはずの「自衛隊」という特定の存在だけを、狙い澄ましたように卑下し、格下に置いている視点の現れに他なりません。

「他にもっと良い選択肢があるのに、わざわざ行くような場所じゃない」 「まともな子が選ぶ仕事じゃない」

そういう強烈な先入観と、自衛隊を卑下する価値観が根底にあるからこそ、無意識のうちに「とか」という言葉が自然と口から出てしまったのだと考えます。
これこそが、言葉の端々に宿った、一部の歪んだイデオロギーを持つ人々の「本音」ではないでしょうか。

「上から目線の憐れみ」という名の蔑視

現代の若者たちは、決して「貧困だから仕方なく」自衛隊に行っているのではありません。
高い志や、サイバー・航空・医療といった高度な専門技術への関心、そして国家公務員としてのキャリア形成のために、自分の意志で主体的に自衛隊を選んでいます。

それを「生活が厳しいから消去法でそこに行ったんでしょ」と決めつけるのは、優しさでも教育者の目線でもありません。

主体的にその道を選んだ若者たちの誇りや尊厳を完全に無視し、勝手に「かわいそうな存在」に仕立て上げる、ただの「上から目線の憐れみ」であり、自衛隊に対する強烈な蔑視です。

普段、多様性や人権、職業差別の撤廃を強く訴えている政治家が、なぜ自衛隊に対してだけは、平然と「とか」を使って格下に扱えるのでしょうか。

「自分たちが好まない組織に対しては、どれだけ無神経に卑下しても許される」という、歪んだ二重基準(ダブルスタンダード)を感じずにはいられません。

背景にある「日教組的」な古い自衛隊観の構造

今回の発言を、古賀議員個人の単なる失言や無知として終わらせてはならない理由が、もう一つあります。

それは、彼女が元教師であり、日本教職員組合(日教組)の特別中央執行委員を務めた経歴を持つ、いわば「教育界の代表」として国会に送り込まれた政治家だという点です。

実は、日教組や一部の教育運動の歴史を紐解くと、そこには長年にわたって根強く残る「独特の自衛隊観」の構造が見えてきます。

日教組には、1951年に採択された「教え子を再び戦場へ送るな」という非常に有名な公式スローガンがあります。
憲法第9条を擁護し、戦争に反対するという平和教育の根幹をなす言葉です。

しかし、この公式な方針が学校の「現場」に落とし込まれたとき、極めて歪んだ表現へと変質していった歴史的実例があります。

1970年代から80年代の冷戦期を中心とした反戦教育の現場では、一部の教員が自衛隊の存在そのものを過激に否定。
授業や進路指導の場で、生徒に対して「自衛隊は人殺しの組織(集団)だ」といった言葉を使い、入隊を思いとどまらせようとした事例が、多くの退職教員や学校関係者の証言として残されています。

そして、高校3年生の2月。
私は自衛隊の航空学生に合格しました。
(中略)
ある日、その元担任から突然電話がかかってきたんです。
開口一番、何と言ったと思いますか。
「あんた、自衛隊に行くの? 人殺しの集団に行くの?」

ぶっ飛び太郎氏のnote「自衛隊侮辱発言は「失言」では済まない!」より

つまり彼らにとって自衛隊は「子どもたちから遠ざけるべき不浄な存在」であり、そこへ進む若者は、高い志を持った人間ではなく、経済的に追い込まれた「かわいそうな存在(=経済的徴兵制の犠牲者)」でなければ、自分たちのイデオロギーの辻褄が合わないのです。

子どもたちに「職業の平等」や「人権の尊重」を教える立場の人間が、その実、特定の国家公務に対して強烈な先入観と蔑視の視線を向けている。
教育に関わる人間が、国会の場で平然と「自衛隊『とか』ならない」と口にしてしまった背景には、こうした組織的・歴史的に刷り込まれた「自衛隊を下に見て、哀れむべき対象として扱う」という価値観があったと考えざるを得ません。

まとめ:私たちが本当に怒るべきこと

「貧しい子は多いか少ないか」という数字の議論に終始することは、結果として、相手の「生活の厳しい子を心配してあげただけ」という偽善の言い訳に付き合うことになってしまいます。

私たちが本当に怒るべき、そして見過ごしてはならないのは、国の防衛を担うプロフェッショナルに対して向けられた、その「侮蔑の眼差し」そのものです。

日々、命をかけて国を護り、災害現場で汗を流している自衛官の方々、そしてその道を志す若者たちの「誇り」と「尊厳」を守るために。

私たちは、この言葉の裏にある「自衛隊を卑下する価値観」を、決して曖昧なまま終わらせてはならないと思います。


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