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「苦しみ」の正体を見破る:仏陀の教えに学ぶ、心が自由になる解脱の方法

こんにちは。
西炎です。

今回は仏教でいう解脱をテーマにしたいと思います。
悟りとも関係していて、要するに輪廻転生をしない人間になるというような意味です。

仏教でいう解脱の意味は?

仏教における「解脱(げだつ)」とは、煩悩(欲望・怒り・迷いなどの心の汚れ)や、執着、そしてそこから生じる苦しみの連鎖(輪廻)から完全に解き放たれ、自由の境地に達することを意味します。

主なポイントは以下の通りです。

  • 苦しみの根源からの解放: 人間が抱く「こうありたい」「手放したくない」という執着(愛着)や、現実を正しく見られない無智(無明)が苦しみを生むとされ、それを断ち切ることを指します。

  • 迷いの世界の終息: 仏教では、人は煩悩によって迷いの世界(六道)を何度も生まれ変わり続ける(輪廻)と考えられていますが、解脱はそのサイクルから抜け出す究極のゴールとされています。

  • 心の平穏(涅槃): 解脱によって得られる、怒りや欲望の炎が消え去った穏やかで満たされた境地を「涅槃(ねはん/ニルヴァーナ)」と呼びます。

ブッダ(釈迦)が説いた実践(四聖諦や八正道など)は、まさにこの「解脱」に至るための具体的な方法を示したものです。

まとめ
解脱の障害とは要するに無知です。
たとえば地球では科学者のレベルでもこの論理でいえば無知となります。

・賄賂で犯罪を犯すこともある
・日常で嫉妬などを抱くこともある
・そのほか日常でミスを犯すこともある
・勉強でいえば地球で一番ではない

ものすごく不可能なほど完璧な人間を解脱できるレベルといいます。
ですので有史以来、地球で解脱した人など存在しないわけです。
これは仏陀などの賢者でも同じで、仏陀などは別の地球よりも高度な惑星で転生して生きていると聞いています。


仏教でいう自由とは?

仏教における「自由」とは、世間一般で言われる「自分のやりたいことを何でもやれる(わがままや気まま)」という意味ではありません。

仏教における自由とは、「煩悩(欲望・怒り・執着)や、自分を縛り付けている思い込み、そして苦しみの連鎖から解放され、心に少しの曇りもない状態」を指します。

仏教的な「自由」の本質は、次のようなポイントに表れています。

1. 「欲や執着」に振り回されないこと
私たちが普段感じる「不自由さ」の多くは、実は外側にある環境ではなく、自分の内側にある「こうでなければならない」「これが欲しい」「手に入らないと嫌だ」という執着(妄執)から生まれています。

  • 仏教における自由とは、それらの欲望や執着に心をコントロールされなくなることです。

  • 「手に入らなくても心が乱れない」「思い通りにならなくても受け入れられる」という、内面的な自立こそが本当の自由(解脱)とされます。

2. 固定観念や「自我」からの解放
私たちは無意識のうちに、「自分とはこういう人間だ」「世間はこうあるべきだ」というガチガチの枠組み(自我や思い込み)に自分を閉じ込めて苦しんでいます。

  • すべてのものは変化し、お互いにつながり合っている(諸行無常・諸法無我)という真理を理解すると、「こうあらねばならない」という呪縛から心が解放されます。

  • 何者かになろうと無理をする必要がなくなるため、これが「精神的な解放=自由」となります。

3. 「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」の教え
ブッダが亡くなる直前に弟子たちに残した有名な言葉に「自分を灯明(明かり)とし、自分を頼りとしなさい。真理を灯明とし、真理を頼りとしなさい」という教えがあります。

  • 他人の意見や世間の評価、権威に依存するのではなく、「自分の足で真理を見極め、自分の心で正しく生きる」ことの重要性を説いています。

  • 外部の支配や同調圧力から離れ、自分の内なる智慧に従って生きること自体が、仏教の目指す自由な生き方です。

仏教の「自由」をひと言で表すなら、「何にもしがみつかなくても、完全に満たされていて、どんな状況でも心が穏やかで軽くいられる状態」と言えます。

まとめ
自由という概念は非常に重要です。
このくだりに仏教による改ざんの跡もなさそうです。

仕事で忙しいとき、あなたの意識は仕事に「なって」います。
育児でも、悩みでもそうです。
悩むとき、あなたの意識は悩みに染まり、一体化しています。
この一体化こそが苦の正体でもあり、人間の究極の能力でもあるのです。

瞑想で意識が強化されれば、嫌なものから意識を強力に切り離し、投獄されている最中も幸せと一体化できると聞きます。

仏教でいう無知とは?

仏教でいう「無知(むち)」や「無明(むみょう)」とは、単に「物事の知識がないこと」や「勉強不足」という意味ではありません。

仏教において無知とは、「世界の本当の姿(真理)が見えておらず、物事を根本から勘違いしていること」を指します。
すべての苦しみや煩悩を生み出す大もとの原因とされている、非常に重要な概念です。

具体的には、以下のような「大きな勘違い」を指しています。

  • 「永遠に変わらないもの」があると勘違いする: 本当はこの世のすべてのものは常に変化し続けている(諸行無常)のに、「この幸せや若さ、財産、人間関係はずっと続くはずだ」「私という確実な実体(魂や自我)が永遠にある」と思い込んでしまうこと。

  • 「自分と他人は完全に切り離された別物である」と思い込む: 本当はすべてのものがお互いにつながり合って生きている(縁起・諸法無我)のに、自分中心に物事を考え、他者と対立したり執着したりすること。

  • 「物事にしがみつけば幸せになれる」と錯覚する: 変化していくものにしがみつけばいつか必ず苦しむことになるのに、その仕組みが分からずに欲望や執着(渇愛)を繰り返してしまうこと。

つまり、仏教での無知とは「現実の真理に対する目隠し」のような状態です。
この「無知(無明)」があるからこそ、私たちは様々な執着(妄執)に囚われ、苦しみの連鎖(六道輪廻)から抜け出せなくなると考えられています。

逆に、この無知を打ち破り、物事をありのままに正しく見抜くこと(智慧を得ること)こそが、苦しみから解放される「解脱」への道となります。

まとめ
よく地震などのニュースで、知人が死んで泣く人をニュースで見かけます。
しかし出会った瞬間から別れはプログラムされていました。

・家族
・夫婦
・親子
・家
・車
・ひいては自分の肉体

もすべて形式上得たものはすべて失うことが最初からセットとなっているのです。
ですので泣くことはナンセンスで時間の無駄です。

無知は自分の内部の苦痛から警告されて、学ぶこと、経験することを時間から強要されるのです。
泣く前に何が間違えていたのかを考えるのです。
それが次の涙の浪費を防ぐのです。

涅槃とは?

仏教における「涅槃(ねはん/サンスクリット語でニルヴァーナ)」とは、すべての煩悩(欲望・怒り・迷い)の炎が吹き消され、一切の苦しみや執着から完全に解放された、究極の安らぎの境地を指します。

「涅槃」という言葉の本来の意味や、誤解されやすいポイントは以下の通りです。

1. 「涅槃」の本来の意味:「吹き消すこと」
「涅槃」の原語(ニルヴァーナ)は、もともと「火がフッと消えて鎮まる状態」を意味する言葉です。

  • 私たちの心を焼き焦がし、苦しみを生み出している「欲望(貪)」「怒り(瞋)」「迷い(癡)」という三毒の炎が、智慧によって完全に消え去った状態を比喩的に表しています。

  • 炎が消えたあとのような、波風の立たない、完全に静まり返った心の平穏が「涅槃」です。

2. よくある誤解:「死ぬこと」ではない
日本では「お釈迦様が入滅(お亡くなりになること)した日」を「涅槃会(ねはんえ)」と呼ぶため、「涅槃=死後の世界や、人が亡くなること」と思われがちですが、それは大きな誤解です。

  • 生きながらにして到達できる境地: 仏教では、生きているうちに煩悩を断ち切り、智慧を得て心穏やかに生きる状態を「有余涅槃(ゆうよねはん:肉体は残っているが煩悩のない状態)」と呼びます。

  • つまり、涅槃とは死後の世界ではなく、「今ここでの心が完全に自由で平和である状態(解脱のゴール)」を意味します。

3. 「解脱」と「涅槃」の違い

  • 解脱(げだつ): 煩悩や苦しみの鎖から「抜け出す・解き放たれる」という「動き(プロセスや結果)」に焦点を当てた言葉。

  • 涅槃(ねはん): 解脱した結果として訪れる、炎が消えたような「穏やかで満たされた静寂の境地」に焦点を当てた言葉。

仏教において涅槃とは、何か特別な天国に行くことではなく、私たちが内側の執着や無知を手放したときに、誰でもこの現実世界の中で体感できる「究極の心の静けさ」そのものを指しています。

まとめ
ニルヴァーナも重要で、瞑想で強い集中力を獲得すると秒で到達することができる境地です。
私のレベルでも大して難しくもありませんでした。

ある日、瞑想をしていました。
その日はとても寒く、手足の先が寒さで痛いほどで、その痛みで瞑想も困難でした。
ですが苦労して瞑想をしていき、10分ほどしたときに、ふと気づくと、自分の肉体の感覚が完全になくなっていて、自分が意識のみで存在しているかのようでした。

このときに、瞑想という真実の意識領域に入ったときにこういう感覚になるということは、そもそも肉体は真の意味では存在していないことに気づきました。

・寒さ
・暑さ

も嘘であることに気づきましたし、人間は通常一生こういう嘘に騙されて生きていることも感じました。

ニルヴァーナは苦しいときに、客観的に集中力を働かせ、苦痛の対象から意識を離し、幸福感と一体化する能力です。

私のレベルでは数秒はできても、これをずっと続けることは不可能なので解脱などはとうてい無理であることが明確です。

六道輪廻とは?

六道輪廻(ろくどうりんね)とは、仏教における世界観の一つで、すべての生命が死後、その「業(カルマ=生前の行い)」の善悪に応じて、6つの迷いの世界(六道)を無限に生まれ変わり続けることを指します。

この無限の苦しみの連鎖から抜け出すことこそが、先ほどお伝えした「解脱」の目的となります。

六道の種類
私たちが生まれ変わるとされる6つの世界は、上から順に以下のようになります。

  1. 天道(てんどう)

    • 概要: 6つの世界の中で最も苦しみが少なく、快楽に満ちた世界(いわゆる天界・神々の世界)。

    • 特徴: 恵まれた環境ですが、いつか寿命が来て別の世界に堕ちるため、根本的な救済(解脱)ではありません。

  2. 人間道(にんげんどう)

    • 概要: 私たちが今生きている世界。

    • 特徴: 苦しみと楽しみが混ざり合っている世界ですが、仏教の教えに出会いやすく、「解脱にもっとも近い世界(修行ができる世界)」とされています。

  3. 修羅道(しゅらどう)

    • 概要: 常に争いや怒り、嫉妬が絶えない世界(阿修羅たちが暮らす闘争の世界)。

    • 特徴: 能力やプライドは高いものの、怒りと見栄に支配されているため心が休まりません。

  4. 畜生道(ちくしょうどう)

    • 概要: 動物などの獣の世界。

    • 特徴: 本能(食欲・睡眠欲など)のみに支配され、弱肉強食の恐怖や使役される苦しみに満ちています。

  5. 餓鬼道(がきどう)

    • 概要: 強烈な飢えと渇きに苦しむ世界。

    • 特徴: 食べ物や飲み物を口にしようとしても、目の前で炎に変わったり汚物に変わったりして決して満たされない、強欲な業を持った者が落ちるとされます。

  6. 地獄道(じごくどう)

    • 概要: 6つの世界の中で最も過酷な、極限の苦しみが続く世界。

    • 特徴: 自分の業の重さによる激しい苦痛を受け続ける場所です。

輪廻からの脱却(解脱)
仏教では、私たちはこの6つの世界(地獄から天界まで)を、良い行いをすれば上の世界へ、悪い行いをすれば下の世界へと、永遠にグルグルと回り続けていると考えます。

この終わりのない迷いのサイクル(輪廻)を断ち切り、苦しみのない永遠の安らぎ(涅槃)に至る方法が「解脱」です。

まとめ
六道はひょっとすれば子供だとまだ信じている人もいるかもしれませんが、嘘なので注意してください。
これは怖がらせて仏教を信仰させるためのツールです。

真実は六道という心の状態があるよという意味です。
幸せ、地獄という心の状態があるよね?という意味ですね。
人間には霊(ドイツ語でガイスト)という生命を1つずつ固有に持ちます。
これのみが人間の所有物で、肉体もいずれは返却しなければいけません。
つまり地球の愚かな法律で所有権というのは存在せず、超絶技巧の嘘なんですね。
ですので外の惑星の住人は地球の法律を見ると嘘ばかりで吐き気がするといわれるわけです。

では六道輪廻とは何かということですが、集中力のない人は嫌なことがあるとすぐに嫌な気持ちにマリオネットのようになるだけで自由でないよねということです。

・失恋した
・心の空虚感にさいなまれる
・数か月も数年も空虚感に悩む
・ずっと復縁を望む

そもそも恋人も、もっといえば家族もいずれその関係は終わるものです。
相手にも都合があり、いつまでも関係が続くというのは終わることを体験上知らない無明、無知です。
故に喪失したときにそのイベント通りに悩むわけです。
これが知識がない人と外惑星でいい、私が最も唾棄するレベルです。

地球の知識はたいてい教科書を記憶しているかどうかの表層的なレベルの話ですが、真実知識とは何度も体験し、その嫌で心の自由を奪う心の状態を体験上避けることができる内的技術の獲得のみを意味します。

ですので外惑星では重要なものを失っても泣くこともありません。
マイナスのイベントの次の瞬間に次の行動に移っているのです。

仏教では妄執をどうして解消するのか?

仏教において、心が苦しみの原因となる「妄執(もうしゅう:物事に深く囚われ、執着し、手放せないこと)」をどのように解消するのか、その具体的なアプローチや教えを分かりやすく解説します。

仏教では、妄執を気力や根性で無理やり抑え込むのではなく、「物事の本当の姿を正しく見抜く(智慧)」ことによって自然と解消していくと考えます。

1. 苦しみの原因を知る(四聖諦:ししょうたい)
仏陀が説いた最も根本的な教えである「四聖諦」において、妄執や執着こそがすべての苦しみを生み出しているとされます。

  • 集諦(じったい): 苦しみには必ず原因があり、それが「渇愛(過剰な欲望)」や「執着(妄執)」であることを見極めます。

  • まず「自分が何に囚われているのか」に気づくこと自体が、解消の第一歩となります。

2. すべてのものは変化し続けると知る(諸行無常・諸法無我)
妄執が生まれる根本には、「本当は変わりゆくものなのに、『変わってほしくない』『自分の思い通りにしたい』と願う心」があります。

  • 諸行無常(しょぎょうむじょう): この世のすべてのものは常に変化し続け、永遠のものは何一つない。

  • 諸法無我(しょほうむが): すべてのものは互いにつながって存在しており、自分という固定された独立した実体(我)などはない。

  • この真理を頭だけでなく体感として理解することで、「執着しても仕方がない」「手放しても大丈夫だ」という境地に至ります。

3. 実践の道:八正道(はっしょうどう)と中道(ちゅうどう)
妄執を離れるための具体的なトレーニングとして、仏教では「八正道」という8つの実践徳目が説かれています。
中でも特に妄執の解消に関係するのが以下の要素です。

  • 正見(しょうけん): 物事を偏見や欲望なしに、正しくフラットに見ること。

  • 正思惟(しょうしゆい): 欲にとらわれない、怒りのない、慈しみに満ちた正しい思考を持つこと。

  • 中道(ちゅうどう): 快楽に溺れることと、逆に極端な苦行に走ること、どちらにも偏らないバランスの取れた生き方をすること。

4. 「気づき」を深める(マインドフルネス・ヴィパッサナー瞑想)
頭で理解するだけでなく、日々の実践として行われるのが瞑想です。

  • 自分の心に「今、執着が湧いているな」「イライラしているな」という状態が起きたとき、それに飲まれるのではなく、一歩引いたところから客観的に「観察する(気づく)」ことを行います。

  • 「あ、自分は今、こうであってほしいという執着にとらわれているな」とただ気づくだけで、妄執のエネルギーは自然と弱まっていきます。

まとめ
仏教における妄執の解消とは、「手に入らないものにしがみつく無駄な力を抜き、現実をありのままに受け入れること」です。

ただし普通に生きていても、この妄執を解く正しくものを見る、受け入れるなど不可能です。
正しい瞑想が必須なんですね。

瞑想をして、意識と無意識とが一体化したときに、普段自分が何を考え、何も求めているのかなどはじめてわかるものです。
この練習をひたすら繰り返すことで、はじめて普通の人間にはわからないことが明確にわかるようになります。

客観性、意識の客観性というのを獲得すること、これが解脱の第一歩なんですね。
ただしこれを厳しい修練で獲得しても解脱には程遠いです。
というのも日常のすべての時間をこの客観性で満たさないといけないことも瞑想中に理解できます。
そのときにはじめて、自分がいかに遅れた不完全な存在なのか、そして解脱までの時間をほのかに感じるようになります。

通常、人間が解脱するまでの時間には800億年かかるとされています。
だいたい地球人の平均年齢は数万歳なので、あとどれくらい人生が残っているのかわかると思います。

解脱の前提条件は

・人生で一度も妄執にとらわれないこと
・苦しみが一切ないこと
・意識が常時自由であること

などです。
そんな地球人など存在しないでしょう。
ですので解脱など今すぐ求めることがいかにナンセンスかわかるはずです。

苦しみの本当の存在理由

生きていると何度も苦悩を感じるはずです。

・失恋
・低い収入
・失業
・就職までの苦痛
・人との口論
・離婚
・離別
・裏切り
・老化
・死の恐怖

これらはそれぞれのイベントが苦なのではありません。
正しい知識では、それぞれは客観的なイベントです。

たとえば死とは肉体から霊が離れるという客観現象です。
それを知らないので怯え、苦悩につながるわけです。

正しい知識があれば自分の存在形態が別に変わるスイッチのタイミングであり、それだけで済みます。

苦しみとは、世界や最奥の自我からの無知である自分への警告です。
修正できるまで、何度転生しても同じような同質のイベントで同じ苦痛を感じます。
宇宙の最後までです。
これを修正するためにのみ人は生きているのです。

人は自分の霊(ガイスト)、生命から追い出されることもありません。
苦しくてもずっと自我と向き合わないといけません。
自殺という現象が地球にはありますが、これも無意味で、次の人生が同質の苦しみの時期からスタートするだけです。
なぜなら克服も通過もしていないためです。

外惑星では自殺という現象も起きません。
子供でもこの理由をよく体験上知っているためです。

地球の教育は本当に無価値であることがわかりますね。

解脱した後はどう生きるのか?

この宇宙は並行宇宙となっているようです。
地球の属する宇宙の横にも縦にも別の宇宙が存在しています。
また宇宙の端というのも存在しません。

宇宙や時間はずっとしんどいとも思わず、また愚痴も言わずにただ運行を続けます。
人間のように遊びたい、休みたいともいいませんし、実行もしません。
完璧のように見えますが、これが解脱後です。

つまり人間は相対的完璧になった後は、運行を回す側に回ります。
これを知ったときに、私はそれまで自分が完璧だと思っていましたが、非常に恥ずかしくなりましたし、意識が遠のくくらいにはるか遠くに自分の目標があることを知りました。
それ以後、解脱を目標としなくなりました。

・勉強ではだいたい負けることもなく一番
・容姿も自信があり女性にしばしばモテた
・敏感で普通の人がわからないこともわかった

など利点があり、人が馬鹿に見えて仕方がありませんでしたが、このときに傲慢さを除去できたわけですね。
ここでも知識を得ることで一瞬で性格が変わることが明示されていますね。

霊的我々というのですが、解脱後はどうも精神の共同構造体の一部になるようです。
もうそこまでくると私にはとても感知できません。
聞いた話を語るしか術はないですね。

仏教でいう妄執を解消していくと、想念が軽くなります。
すると死後に精神体が軽いので、地球の重力に支配されなくなり、外の惑星に移動しそこで転生するチャンスがはじめて生まれます。

その後、さらに意識が軽くなると、やがて人は肉体を持たずに半物質の存在となります。
ここも最初はよくわかりませんでしたが、10年以上もかけて理解できたのは、どうも

・霊    永遠の最奥の意識
・物質意識 永遠ではない

この2つのみで生き、肉体だけがないという存在のようです。
星をリードする存在というわけですね。

真の自我は求めるべきもの

スピ系の人はすぐに自我を否定しますし、低次元も否定します。
この段階でスピ系が嘘であることが自明です。

この世に存在するということは必ず意味があるということです。
苦しみでも意味があるのです。

自我は間違いによる痛みを体験し、自分の間違いに気づき、修正するためにあります。
低次元もそうです。
低次元がなければ高次元もありません。

自我は求めるべきものです。
真の解脱とは真の自我を知ることでもあります。
最奥の自我で、生命です。

この自我には幸福感しかなく、もっといえば幸福そのものが真の自我でもあります。
これを体感したときに、それまで生きるのが嫌としか思えなかった私がはじめて生きるのもいいものだと思えるようになりました。

あとはこの真の自我との距離が問題でした。

生きるのが嫌だ。でも逃げられない。どうすればいい?

私も昔、生きるのが嫌で仕方がありませんでした。
そもそも生きる理由がわからないのに生きるのが嫌だったわけですね。
これが28まで続きます。

その後、師匠に出会い、生きる意味を知り、考えが変わりました。
解脱も無理、自分の霊から逃げて存在をやめるのも無理・・・。
では答えは1つしかないですね。
前に進むことです。

それからはどれほどの屈辱があっても、そのときの限界まで我慢して生きるようにしました。
この記事は生きるのが嫌、しんどいと感じる人に向けて書くのが目的でした。

この世には人間に指図する存在はいません。
指揮者のように運命に影響する存在もいません。
すべての運命は完全に100%あなたの責任で、あなた以外に原因は絶対にありません。

完全に放任されていて、どれほど大きな失敗をしても(それがたとえ肉体を失うほどのレベルでも)、あなたの自在です。
そして失敗には痛みがつきまとうので、その苦しみもあなたのみが受けないといけません。

痛みを体験した回数や経験が少ないほど運命の悪いときに苦しみは大きいです。
ですので私は

・毎日自分を瞑想で賢くしたい
・解脱など絶対に不可能でも一歩でも賢くなりたい
・そしてなるべく早く苦のない自分になりたい
・そしていつの日か外惑星で賢い人に囲まれて生きたい
・運行側にも覚悟ができればいつかは回ってもみたい

というように考えています。
自分の肉体を捨てるのも自由ですが、みなさんはどう思いますか?
逃げられないのであれば、前に進むほうが楽になると思いませんか?

瞑想をしていくと人にわからないこともわかるので、お金持ちにもなれます。
モテる人も出てくるでしょう。

生きるのはしんどいこともありますが、適度にお金も稼ぎ、楽しむことは別に創造から怒られることもありません。
半分楽しく、半分厳しい修行に耐えて前に進む、これが私のスタンスです。


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