ニッポンの世界史#43 世界史は、なぜ必修化されたのか?(その4) 木村尚三郎の世界史観
1987年3月に教育課程審議会に教科等別委員会が設置され、そのなかの社会委員会において小・中・高を通して社会科を再検討する場が設けられた。初会合で木村尚三郎教授が訴えたのは、歴史独立論だった。これを契機に世界史必修化への道が本格的にひらけることとなる。
この会議が「東大教授、粘りに粘る」(『朝日新聞』1987年11月14日付け朝刊)と報じられたことに対して木村は、「私が要求したことは間違いない」としつつも、「粘りに粘った」わけではなく、反対派・否定派双方の押し引きによって一応の妥結を見たものだったと反論(「歴史教育はなぜ大切か」「「特集歴史科」独立のどこが悪い!」『諸君!』20-1、1988年1月、32-35頁)。
また『朝日新聞』が自身を、村川堅太郎・山本達郎・林健太郎らとともに山川出版社の世界史教科書との関わりの強い「山川グループ」とくくられたことにも抗議し、「むしろいまの「世界史」の教科書や教え方を大きく変えなきゃいけない」(同上)と述べ、3氏との相違を強調している。
では当の木村は、いかなる世界史観をもっていたのだろうか?
今回はいよいよこれを見ていくことにしよう。
【バックナンバー】
・#40 その1 世界史離れ・林健太郎・中曽根康弘
・#41 その2 必修化までの経緯
・#42 その3 必修化推進の論理
「組織」の視点:現代日本は中世ヨーロッパに似ている
1968年に出版された中公新書『歴史の発見』は、木村の歴史観のエッセンスを凝縮した一冊で、1990年代にかけて版を重ねた代表作の一つだ。
木村がこの書で試みたのは、「組織」というキーワードを軸にした、ヨーロッパと日本双方の社会の歴史的な比較だ。
もちろん日本とヨーロッパの歴史的比較といえば、日本とヨーロッパの並行進化を説いた梅棹忠夫の『文明の生態史観』(→第12回)があるが、木村の新しい着眼は、現代の日本社会のあり方が中世ヨーロッパと似ているとした点だ。
内容をざっと整理すると、以下のようになる。
木村はまず、近代の延長線上に現代があるという見方そのものを否定する。とりわけ、マルクス主義的な発展段階論に立つ歴史理解を批判する。われわれが通常「近代的」とみなす社会も、実のところ西ヨーロッパ、とくにドイツやフランスで形成された理念型に過ぎず、特殊な現象にすぎないという立場である。そうした理念を無批判に日本社会へ適用しようとすること自体が、木村にとっては無理のある話なのだ。
近代市民社会の理念を貫く根本的な論理は「個(私)の論理」であるとされる。しかし木村は、現代日本の社会的状況はむしろ中世西ヨーロッパに似ており、「組織の論理」が支配しているとみなす。とりわけ、大企業のプレゼンスの上昇がこの構図を特徴づけている。日本の国民経済は、もはや単純な「私の論理」だけでは動いていないのである。
「こうしていまや先進産業社会であらわとなった国家資本主義体制のもとで、資本の大規模な社会化・公共化が進められ、それに反比例して私的自治の原則に立脚した私的利潤追求の経済理念は、それだけ空洞化しつつある。そして少なくとも大企業にあっては、前世紀にみられた古典的資本主義とその理念は、たしかに国家資本主義の成立とともに死んだといえよう。」
このように見れば、近代の延長上に現代があるとは到底いえない。木村の言葉を借りれば、近代は現代にとって「第一過去」と呼べるようなものではないわけである。
そもそも近代市民社会の理念というものも単に「理念」にすぎないもので、「現実」を直接に表すものではなかった。仮に近代的価値観からみれば、現代社会は逸脱していると映るかもしれないが、そもそも近代も現代も、無条件に肯定的な評価を受けるべきではないのではないか。木村はこう問いかける。
したがって、新たな時代区分が必要となる。
木村はその際、「公と私」「組織集団と個人」の関係を軸に考えるべきだと提案する。
現代人は、学校や職場、レジャー・グループなど、いくつもの組織に属しながら生きている。それぞれの組織は独自の論理と人間関係を持ち、個人はその中で異なる役割を果たしている。木村は言う。「現代人は、こうして複数の顔と複数の人格をもつ」(50頁)。
とはいえいずれの組織においても、個人は一定の領域内に住む限り、選択の余地なく「場」を引き受けざるをえない。近代や現代においては国家が、封建社会においては領主がその役割を担った。この「場」と個人の関係性を手がかりに、歴史を区分できるというわけである。
ヨーロッパ史に即してみれば、木村は10世紀までの時代と11世紀以降とを区別すべきだと述べる。
10世紀までの時代は、本来的にわれわれの時代とは異質であり、無縁である。それは、地縁的組織集団の本質を抽象的・間接的には教えるとしても、現代における組織集団の具体的な論理については何一つ語らない。この意味で、10世紀までの時代は、いわば西ヨーロッパの「前史」ないし「先史時代」である。そして歴史は、11世紀から始まる。大きくは、このとき以降「現代」であるといえなくもない。
このような大胆な見方は、木村がこののちも一貫してとりつづけたプラグマティックな態度を象徴している。現代世界を理解する上で役立つ時代のみを抽出するという、実用的な視点ともいえる。
さらに木村は、有史時代を三つに区分する(52〜53頁)。
(1)第一の時代=古い時代
11〜13世紀までの、遅延的農業組織集団の時代。
(2)第二の時代=中間の時代
15〜19世紀。いわゆる近代市民社会の形成期であり、公と私が鋭く対立し、個人の論理が優越的となる時代である。
(3)第三の時代=新しい時代
20世紀、ことに1930年代以降の、遅延的工業組織集団の時代。マルクシズム的にいえば国家独占資本主義の段階であり、ファシズムやナチズムも、ニューディール政策とともに共通してこの範疇に含まれる。
つまり、第二次大戦を通した「ファシズム・ナチズムの妥当をもって、独裁に対する民主主義の勝利であるとか、力に対する正義の勝利であるとかいって、もうファシズム・ナチズムを卒業しました、という顔をするのは、たんにその悪をあげつらい、糾弾するにとどまる心情的憎悪感と同様に、きわめて危険な精神態度であるというほかない」という認識になる(同書、192頁)。
この後は各時代の組織と個の関係が順に確認されていく。
では、現代における組織と個の関係や、その課題や先行きはどのように展望されるのだろうか?
まず、マルクシズム(マルクス主義)が問題にするプロレタリート(労働者階級)は「刻一刻と不必要になる」。
技術革新の恩恵によりオートメーション化がすすむことで、「人間が肉体労働から完全に解放される日も目に見えて近づきつつあるからである」(同書、194頁)。
当時としては別段珍しくない見方だ。
その上で木村はこのように続ける。
これからの産業社会にあっては、すべての人がいわば「機関化」される。...今日もはやわれわれは、組織のない時代に後戻りすることはできない。現代人はさまざまの開かれた組織を通して、予見の範囲と行動半径をグローバルに拡大し、多数の力を一つの大きな経済目的に結集することによって、19世紀の市民と私企業が想像さえもできなかった、巨大な変革の社会的エネルギーを発現することができるのである。
近代市民にとって、世界はつねに彼と対立し、彼を圧倒してきた。これに対し現代人は組織を通し、しかも可能な限り大きな組織の形成を通して、世界を手中に収めることができる。反対に組織に入りえぬ個人は、少なくとも第二次産業のばあい、ひしひしと孤立感、社会からの疎外感を感じざるをえない。
...現代工業組織集団は、ひとりひとりが頭脳と専門技術の所有者、余人をもってかえがたい真に個性的かつ人間的存在であってこそ、みずからを再生産し、力強く発展せしめることができる。「考えない歯車」は組織を悪化し否定する以外の何ものでもない。
個性的頭脳の組織化のためには、組織はつねに、外にも内にも万人に開かれていなければならない。つまり組織の内と外には、ギルド的ななれあいと悪しき連隊を排し、個々人の間に、良い意味での火を吐くばかりの自由な競争原理が存在する必要がある。組織が自由競争原理に裏打ちされないかぎり、個々人や企業の個性は発揮されず、また個々人や企業の発展もない。...これからの個人は、個性的であってこそ組織的であり、組織的であってこそ個性的なのである。
こうした成り行きは、「我が国が世界有数の高度産業社会に突入しつつある今日、欧米諸国とそこに生まれた人間社会に関する諸理論は、もはやそのままの形ではわれわれを導くことができない」「現代日本人には、もう直接の先生はいない」とまで言い切る。
この見通は当時の日本社会の熱気が色濃く反映されたものだろう。高度経済成長のただ中にあった1968年、産業化と技術革新は個人の主体性を奪うものではなく、むしろ拡張するものであるとの信頼が、まだかろうじて成立していた。
だが同時に本書の刊行された1968年は、周知の通りすでに世界各地では組織化の弊害に対する激しい抗議運動が巻き起こった年でもある。フランス五月革命、アメリカにおける学生運動、公民権運動、さらには日本でも大学闘争が本格化し、組織による画一化、非人間化への危機感が噴出していたのである。また、エリート支配の終焉と階級史観の克服という見通しも、甘いものだったといわざるをえないだろう。
とはいえ、1968年の段階で、その後の流動化した雇用状況や経済の新自由主義化を見通すかのような直感は、木村の鋭さでもある。
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成熟社会と「踊り場」意識の登場
その後『歴史の発見』における木村の歴史観は、1970年代に入り変化する。
1970年代から80年代にかけて、日本経済はかつてのような右肩上がりの成長を終え、「安定成長」や「成熟社会」といった語が広く使われるようになった。木村もこの社会変化を鋭く感じ取り、歴史的な思考のベクトルに修正を加えることとなった。
たとえば1975年の雑誌「マネジメント」(日本能率協会、1975年1月臨時増刊号)巻頭に、「日本はこれからどう生きていく!—国会意識の喪失と高度経済成長終焉の間で」とする座談会が掲載された。
川上源太郎が司会を務め、木村の対談相手は土光臨調や慶応SFC設立に加わることになる加藤寛(1926〜2013))がつとめた。
まず川上によるマルクス主義、べ平連などの社会運動への批判が冒頭にあり、その後木村はこれからは「辛い時代」が続くとみる。
というのも、これからはイスラム諸国・西ヨーロッパなど、文化圏ごとにまとまる動き(=地域主義)と、それら同士の交流は深まっていく。そのなかで、「日本という特殊な文化構造をもった地域は、あまりまとまる相手がいない」とし、日本経済の前途を懸念する(『マネジメント』34(2)、日本能率協会、1975年)。
木村はまた別の著書『成熟の時代』で、経済の伸びが一時的に停滞する状況を「踊り場」と表現し、この要因が「技術文明の一巡」にあるとみた(『成熟の時代』日本経済新聞出版、1982年)。
つまり、かつてのように新しい工業製品が次々に登場して生活を劇的に変えるような時代は、すでに終わりを迎えたという認識である。
もちろんこのような展望は木村のオリジナルではなく、ダニエル・ベルの「脱工業化社会」論や、ガルブレイスの『不確実性の時代』といった国際的議論とも響き合っていた。1970年代の石油危機以後、既存の成長モデルに対する疑念と、社会の構造転換の必要性が多くの知識人のあいだで共有されていたのである。
経済の中心は「モノの時代」から「コトの時代」へとシフトしていく。消費者は物質的な満足よりも、意味や体験、文化的価値を求めるようになる。
木村はこうした変化を踏まえ、これからの時代は「商業の時代」になるとし、そこで重要なのは「強烈な個性=創造性」だと述べる。この自由な個性の発現への関心は、基本的には『歴史の発見』から引き継がれているものの、そこで重要視していた大きな組織は、むしろ時代の要請から後退するとも語るようになった。
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「土の時代」と「土離れの時代」
木村の現代認識の変化のあらわれは、『成熟の時代』の翌1983年に刊行された著書『和魂和才』にあらわれる「土の時代」と「土離れの時代」という概念で、より具体化されていくことになる。
「土の時代」は、農業や第一次産業に基盤を置いた、比較的閉鎖的で安定した社会である。

土地に根ざし、共同体に帰属しながら人びとが生きていく構造が支配的だ。一方で「土離れの時代」は、商業的な価値やネットワーク、移動性に重きをおく時代であり、共同体の枠を超えて個人やモノが流動することが当然となる。
木村は、ヨーロッパのみならず日本がこの二つの時代を交互に行き来してきたとする循環的な史観を提示する。

もちろん、このような図式化はやや単純化されているかもしれないが、それゆえに読者に印象深く届く工夫でもある。各媒体向けのリップサービスもあるだろう。歴史を専門としながらも、大胆な命名や図解を用いて広く伝える手腕は、木村の大きな特徴のひとつだった。
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和魂洋才から和魂和才へ
こうした時代認識のもと、木村は日本の未来に対する指針として「和魂洋才から和魂和才へ」というフレーズを提案した。
これは、明治以降の「西洋の制度・技術を導入しつつ、日本的精神を保つ」という構図に対する再考を促すもので、日本固有の文化的特性を普遍的な文明の構成要素へと昇華させるべきだというものだ。
従来の日本は、西洋とりわけ近代ヨーロッパを模範としてきたが、木村はその「西洋」も単一の存在ではなく、実は多様な歴史的文脈をもつと強調する。たとえば、海洋国家・イギリスとは異なり、フランスは内陸的な精神性を持ち、言語的にも英語圏から距離をとる。木村は、日本が模倣してきた「西洋」のイメージが、実はフランス的なものであったのではないかと示唆している(『世界の中の日本』富山県教育委員会、1978年、73頁。)。
このような文化比較の視点は、梅棹忠夫のように単純に「日本=西欧型社会」とみなす立場とは異なる。木村は、日本と西洋の文化的「へだて」だけでなく、両者をつなぐ論理を提示しようとする。1990年代に入ると、「へだて」と「つなぎ」という用語を用い、日本が今後、世界との接続点=「つなぎ」となるべきだと説くようになる。
たとえば、ヨーロッパは14世紀から19世紀にかけて、宗教対立や戦争を経ながらも、徐々に国民国家間の連携を模索し、やがて欧州統合へと進んだ。木村は、こうした「つなぎ」の歴史的蓄積に注目し、日本も同様に「へだて」から「つなぎ」へと転じる必要があると説いたものだ。
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日本人のアイデンティティをめぐって
そんな木村が成熟社会における日本の進路を語る際、よく引き合いに出していたのが司馬遼太郎の『坂の上の雲』(1968〜72年)である(たとえば『それでも日本は世界を目指す—木村尚三郎座談集』PHP研究所、1979年や、『時代を見通す発想』、講談社、1987年)。
周知の通り司馬は明治国家の形成期における志と希望を描き、日本が西洋に追いつき追い越そうとする近代の精神を象徴的に描写しようとした。
その司馬にも1980年代に入ると変化が見られる。日本の精神史を、より広い空間的なスケールのなかで描きなおそうとしたのだ。
たとえば1984〜87年に連載された『韃靼疾風録』では、中央ユーラシアを舞台に、遊牧的秩序と農耕的文明の対立や融合を描いた意欲作だ。
江戸時代初期、平戸に漂着した女真人の貴族の娘を故国へ送り届ける密命を受けた侍・桂庄助は、異国の地で数々の困難に直面する。旅の途中、明の滅亡と清の台頭という歴史の大転換期に巻き込まれ、庄助は日本と大陸の狭間で揺れることとなる。
そこで描かれるのは中央の帝国的論理ではなく、周辺に生きる人々の視点から歴史を語る姿勢だ。職能集団=忍者などを通じて少数派の自立やアイデンティティの揺らぎを描いてきた司馬のスタイルが貫かれているともいえる。その意味で司馬は、日本の歴史を一元的に肯定するのではなく、もちろん限界はありつつも、その複層性や動揺を描いて見せようとした。
その司馬と対比するならば、木村の関心はむしろ一元的な「日本的アイデンティティ」の形成にあり、戦後の「追いつけ追い越せ」が達成されたあとに訪れた空白に対して、日本がいかなる「文明的責務」を果たすべきかが焦点にあった。
これを急がねば日本のアイデンティティは喪失に向かってしまう。木村がその危惧を仮託したのはケルト民族の歴史だ。ケルト民族はローマ帝国に同化しすぎたがゆえに、自らの文化を失い、やがて消滅してしまった。現在の学問的な水準において「ケルト民族」という一体性を持った民族はそもそも存在しないわけであるが、司馬が『街道をゆく』でアイルランドを取材しているように、「文明衰亡論」ブームもあいまって1980年代にしばしば言及された(司馬のアイルランド観は木村とはまた違った角度からのものである。また別の機会としたい)。
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土に立脚した国土構想へ
ここで改めて、木村が提唱した「土の時代」と「土離れの時代」の対比に立ち返っておきたい。先に述べたように、木村は1970年代以降の社会を「土離れの時代」、すなわち商業を中心とした流動的な時代へと突入するものと捉えていた。そして、日本社会はその変化に備えるべきだと説いた。
だが、ここで注意が必要なのは、木村が「商業の時代」と呼ぶものが、決して都市偏重型の近代化を是認するものではないという点である。むしろ彼は、日本が西ヨーロッパ的な都市文明を誤解し、「近代=西欧=都市文明」といった単純な等式に飛びついてきたことを問題視していた。
木村によれば、実際の西ヨーロッパ文明は、都市であっても共同体規制が強く、「土」にしっかりと根ざしていた。ヨーロッパにおける農村は、社会の基盤として尊重され続けており、たとえば1970年代の石油危機の際、日本社会が大きく混乱したのに対し、ヨーロッパでは比較的落ち着いた対応が可能だったのは、まさに農業を軽視せず、土に立脚した暮らしが残されていたからだという。
この点において、木村は農業の再評価を強く訴えた。
1980年の著作では、木村が好んで引いた江戸時代の海保嶺夫(かいぼせいりょう)の『稽古談』から、「自然の恵みに感謝しながら、つつましく生きる農民の心をとり戻すこと」の重要性を説いている。それは物質的な豊かさに過度に依存しない生き方への回帰であり、これからの国のあり方として、最小限農業立国に基礎をおいた産業立国への転換の必要性が説かれる(『ヨーロッパとの対話』角川書店、1980年、80頁)。
このように「これからは商人の時代」と語る木村の発言も、決して単純な都市中心型の経済構想ではなく、むしろ農業という「土」に立脚した国土の再構想を背景に持っていたことがわかる。都市と農村の対立を超えた、より複合的な社会モデルがここでは構想されていたのである。
そして、木村がそのような姿勢を評価したヨーロッパは1980年代、急速に「地域主義」へ移行する機運にあった。「新しい社会運動」も注目を集め、国民国家中心の統合ではなく、文化圏や生活圏に根ざした多様な共同体のネットワーク化が意識されていた。
この激動の最中、日本は明治以来の都市偏重の近代化モデルに強く依存しており、それが今なお引きずられているのではないか——。
木村のそうした問題意識は、のちの「自然の叡智 Nature's Wisdom」を掲げた愛・地球博(2006年)の総合プロデューサーとしての活動や、農業政策への積極的な関与(首相官邸直属の諮問機関である食料・農業・農村基本問題調査会会長に就任し、食料・農業・農村基本法の制定(1999年)に尽力)にも引き継がれていくこととなる。
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世界史必修化の提言へ
さて、冒頭でおさらいしたように木村は1987年、教育課程審議会の社会委員会において歴史独立論を主張。これを契機に世界史必修化への道が本格的にひらけることとなった。
批判的な新聞報道に対し木村は次のように述べている。
私たちとしては、「歴史」を独立させるという目標の前に、「世界史」をもっと勉強させたいという気持があります。「世界史」が必修からはずされて選択科目になってから履修率がものすごく減ったんですね。

ここからは、前回・前々回紹介した世界史必修化の推進者と同じく、「世界史離れ」を示すデータが引かれる。
ただ、木村はこの数字そのものに危機感を募らせているわけではない。
ここから先は私の議論になりますけど、いま世界は大きな転換期を迎え、今までみたいに日本は日本の道を行く、アメリカはアメリカでまた別の道と、それぞれの国家がそれぞれ未来に向けて自分の道を定めていく、そういう時代ではなくなってきたと思うんですね。
…
これから国際化は必至です。そうしますと、同じ正しいと思うことの内容も、日本人とアメリカ人とではちがう。…自分たちだけが、日本だけが正しいんじゃなくて、他の正しさもある。アメリカはアメリカの公民的資質がある。フランスにもある。またイスラムにもイスラムなりの正しさ、生き方がある。外側の様々な人々たちの考え方を、これから私たちなりによく知って、私たちの生き方とか、ものの考え方の特徴とか、あるいは長所・欠点を、外側から確かめるという必要がいまあるわけです。
歴史的転換期において、外側の様々な価値観を知って、自分たちの生き方を相対化していく。そういったことを教えられるのは「世界史」しかないと思います。
ここでいう「転換」とは、まさに先ほど挙げたような木村の認識に基づくものだろう。
当時は日米貿易摩擦が熾烈を極め、国際的なフィールドで相手を打ち負かす戦略性や交渉力などの必要が経済界・政界からも求められていた。前々回紹介した林健太郎の主張もそこに重きがあっただろう。
だが、木村の力点はそれらとは異なり、「自分たちだけが、日本だけが正しいんじゃなくて、他の正しさもある」という穏当なものだった。そして特に、各国におけるものの見方や考え方を教えることの大切さが強調される。
「歴史」を通して、ヨーロッパならヨーロッパ、アメリカならアメリカの人たちが何を考えてきたのか、それを教えてやるのが大事なんですね。
ここで『諸君!』で主張されている木村の世界史必修化論のポイントを2点まとめておこう。
外国と対決するのではなく、相手国の歴史=文化を内在的に理解することで、日本を相対化させ、融和をめざしていくために、世界史を必修化するべきだ。
そのためには、西洋偏重の公民科目ではなく、イスラムや中国、ラテン・アメリカといったさまざまな地域の生き方、ものの考え方を問い直す「人間諸学の基礎」たる歴史、世界史こそが必修化にふさわしい(ただし、「歴史的な物の見方」に欠かせない重要なので地理と歴史はセットにする)。
最後に、これらに関連して、1989年12月12日に教育職員免許法の一部を改正する法律案などを審議した国会(第116回国会 参議院文教委員会)に参考人として招致された際の発言も引いておこう。
日本ももちろん、これから後、国際社会の中に、世界の中に生きていくために、たくさんの友達国をふやし、そしてまた相互の依存関係のあり方について真剣に考えねばならないというふうに思うわけであります。いかにして日本の外交能力を高めていくかということが、多分これからの日本にとりまして一番大きな課題の一つであろうというふうに思います。
そのためにも、ほかの国の生き方の特性というものを、我々は今、知らなければいけないわけでございます。中国の人たちはどのような生き方というものをかつての歴史を通して培ってきたか、あるいはイスラムの人たちがどのような考え方というものを過去の歴史を通して培ってきたかといったことを、今、知らないわけにはいかないわけでございます。
もちろん、一般社会といいますか政治とか経済を通しましてもアメリカとかヨーロッパについてのさまざまな生き方というものは十分に理解できると私も思うわけでございます。つまり、そこでの自由の概念であるとか、議会制民主主義のあり方であるとかはもちろん政治経済を通して理解できるわけでございますが、こういった先進諸国以外の国々、今申しました中東は一体何を考えているのか、あるいは中国は一体どういうメンタリティーを持っているのか、ラテンアメリカはどうかという問題になりますと、現在の政治・経済を履修するだけでは、実際、十分ではないものがあるように思うわけでございます。
こういったものを実際、今、考える場といたしましては世界史しかないわけでありまして、世界史で初めてその国々あるいはその文化圏におきますところのさまざまな思想であるとか宗教であるとか、あるいは生活態度であるとか、こういったものを履修できるわけでございます。
こうして見てみると、冒頭で紹介した『歴史の発見』(1968年)の締めくくりでの問題提起は、時代状況の変化にもかかわらず、世界史必修化を推進する木村の底流に脈々とながれていたものと言ってよいだろう。
古い常識が死に、新しい常識が生まれ出ようとしている今日、この今日ほどわれわれ日本人にとって歴史的思考が切実に要請されているときはない。すなわちより合理的・組織的な、そして同時により人間的でより自由な明日の社会を建設するために、今日なによりもまず必要なのは、異質社会・過去社会との対比を通して、みずからとみずからの企業組織や国家のあり方を客観化すること、つまり歴史的思考を通してみずからを発見することである。
これによってはじめて、現代に生きる人間と社会についての深い洞察がえられよう。またこれをなしうる個人・企業・国家のみが、現代の苛烈な競争原理に耐えぬき、明日を想像的に生きることができるといえよう。
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